| 31315 | 返信 | 精神医学・医療と精神分析について | URL | なな | 2004/12/06 18:36 | |
| 以下は、水原さんの31219番投稿の精神医学・医療と精神分析の実証性の問題についての議論部分を抜き出して、論題を改めてレス投稿するものです。 > >精神医学について言えば、少なくともその臨床において、フロイト理論をそのまま応用・援用して診療に当たっている精神科医はまず少ないと言えるでしょう。 > > 当たり前です。精神分析の純粋に理論の分野ですら、フロイトはすでに大昔の基礎の古典ですから、出発点でしかありません。出発点であると同時に土台でもあるわけですが。 ですから、その肝心な土台の理論や病理概念でさえ、それを支持している精神科医はまず少ないと言っているのです。 そういったことを示す例を、たとえば同性愛に対する精神医学界の対応の歴史の中に見ることができると思います。 1970年代の初頭までの長い間、米国精神医学会(APA)はゲイ、同性愛を「精神障害としての病理である」と見なし、治療の必要な疾患と捉えてきました。そしてその考えを支える大きな柱となっていたのが、フロイトに始まる精神分析理論の土台的病理概念にもとづく同性愛の捉え方(同性愛は幼児期に体験された深い葛藤と抑圧によって生じたもの云々・・・)でした。実際そのころまでは、精神分析理論とその治療的手法を支持する精神分析派の医師が学会の中で大きな勢力を占める時期が続いていたと言えるでしょう。 そのような背景もあって、米国精神医学会は同性愛をDSM(精神障害の診断の手引き、指針)の中で治療対象の精神疾患として明記し続けて来たわけですが、同性愛者の権利解放運動によってそれが批判に晒され、DSMからの削除を求める声が強く上がった時に、それを拒否し続けた学会の指導的立場の理事らが削除反対の「根拠」の柱としたのも精神分析的な病理概念であったわけです。(だからといって精神分析派の精神科医が全てそうだったと言うのではありません。同性愛者側の主張を支持する精神科医グループの中には精神分析派の医師がいたことも事実です) 日本の学会の対応は欧米に比較してずっと遅れていると言えますが、少なくとも現在では、同性愛を表向き立って「精神障害としての病理」と公言する精神科医や心理学者はごく少数派になりました。 自閉症や分裂病(統合失調症)の病理、病因に対する捉え方にも似たような構図を見ることができると思います。 これらの病因については、それを家族関係を中心とした環境(幼児期において体験された深い葛藤や抑圧によって生じる云々・・・)に求めるむきが、精神分析学派や水原さんのような精神分析支持者の間にまま見られました。生物学的因子と社会的因子の関与については、色々な調査・研究による知見が集まってきましたが、どちらの病気も遺伝的基盤(病気そのものが遺伝するという意味ではないことに注意)と言われる生物学的因子が主たる病因であることが、一卵性双生児の調査研究(いわゆるTwins Test)や家族研究などの疫学的調査、脳科学的アプローチによる研究などで明らかになってきました。と同時に、精神分析派の人たちが主張し続けてきた病因説---親の育て方や家族環境のまずさが病因である---などと言えないこともかなりはっきりと分かってきたのです。 > またこと日本の場合、精神障害の発症の原因を成長し生存してきた環境による自我や超自我への抑圧に求める論理展開が、患者家族に嫌われてなかなか定着しないのではないか、おおっぴらに言えないのではないかという邪推もしています。「成長し生存してきた環境」といえばまず家族ですから。 それはまず邪推でしょうね。 逆に、分裂病や自閉症に対して「それらの病因の主因は家族環境にある」との実証性のない精神分析的な診立てをすることによって世間の偏見や冷たい目がますます患者家族に向けられ、彼らの苦悩にさらに輪をかけることを、多くの精神科医が懸念してきたと言えるでしょう。精神分析が「定着」しない原因は実証的な知見やデータに見を向けない非科学性にあると私は見ます。 > しかし家族が信頼し頼る対象であると同時に抑圧して来るものでもあるという認識の欠如は、こと今の日本の若者に深刻な影響を与えていると思います。 家族の言動が時として本人に対して否定的、抑圧的に働くことがあるのは、別に「精神分析」を持ち出さなくても広く認識されていることです。かりにその認識が「欠如」しているとしても、それは「精神分析」を批判、否定することで生じているわけでも全くありません。 水原さんの意見で特に気になるのが、家族による「抑圧」が「若者に深刻な影響を与えている」主因であるかのように書かかれている点です。そしてそれが、「今の日本」という言い方で、以前より重大になっているかのように、根拠も上げずに決めつけるような書き方をされていることです。 ひょっとして、水原さんご自身のトラウマが家族環境を否定的な要素に捉えさせているのではないでしょうね。(これこそは余計な邪推かもしれませんが) > >しかし、そのことをもってして、フロイト理論が実証科学であるべき精神医学の知見にも適っていると決めつける合理的な根拠にはならないでしょう。 > > 大変に失礼ながら、精神医学が実証科学になれるわけがないと思いますが? たった一人の個人のケースでさえ、その年齢に至るまでの精神活動のすべてを医者なりなんなりが把握すること自体、まったく不可能ですよ。結局はすべてが、医者なら医者、あるいはセラピストの把握できた限定されたごく一部の情報に基づく解釈にしかならないでしょう、原理的に言って。 科学、学問における実証性というのはどういうことなのか、どうもよく理解されていないようですね。水原さんのご専門である芸術分野では「実証性」が問題にされることは少ないこととも関係しているのでしょうか。 事象にかかわる全てのデータを100%把握するというのは実際的にもほぼ不可能なことです。それは人文科学の分野に限らず自然科学の分野においても言えることです。貴方の言葉を借りれば、精神科医療以外の、例えば癌診療における患者に対しても「その年齢に至るまでの肉体活動のすべてを医者なりなんなりが把握すること自体、まったく不可能」と言えてしまいますが、しかしそうであっても、診断や治療においての実証的なスタンス、言い換えれば科学性は求められるでしょうし、その追求は原理的にも可能だと言えます。 ひとつの例になりますが、かなり昔に開発され長く続けられてきた乳房を根こそぎ切り取る乳癌のハルステッド手術の有効性が、長い年月をかけた膨大な疫学調査研究によって放射線と縮小手術の併用療法となんら変わらないデータが示されたことから、明らかに患者の負担が少ない縮小手術に切り換えられている(未だに拡大手術も多いですが)というのも、乳癌治療への実証性の追求例と言えるでしょう。 精神医学、精神科医療という分野においても、そういった実証性の追求は原理的にも不可能ではありませんし、実際にそのスタンスに立った研究や調査が行われ、多くの知見が積み重ねられています。そのさらなる積み重ねによって精神科医療や医学の発展もあると言えるでしょう。 私は、精神科医療も含めて医学・医療というのは基本的に自然科学と人文科学の両方の複合的な視点に立って進められるべきものだと考えています。俗に言えば、体を診て人を見ないのは医学でも医療でもないっていうやつですね。そのような立場から、生命倫理学や医療倫理学、それに文化人類医学や医療人類学などと呼ばれる人文科学系の学問研究にも最近注目が集まっていると思います。さらに進化医学、進化心理学という新しい人文科学も登場してきています。そして、そういった人文科学においても研究者は実証性を追及するというスタンスを重視していると言えるでしょう。 > 実証科学にしたいという一部の精神医学関係者もいるでしょうけれど(またそれを信じたい大衆もいるんでしょうが)、その誇大妄想的願望にも興味はありますが、治療を受ける側としてはあまりつき合う気はしませんし、そういう医者に限ってもっとも重要な話を聞くことやカウセリングやセラピーを怠け、薬物とか電気ショックなどのかなり危険な療法に走りそうで怖いです。精神病の治療に使われる薬は、全部科学的な定義としては立派に麻薬ですしね。 「そのような医者に限って〜カウセリングやセラピーを怠け〜危険な療法に走りそう」なんていう貴方の言辞には精神科医療に投げつける強烈な不信が表れていますね^^; たしかに、精神科医療で使用される薬物の多くは中枢神経作用薬ですから、それが麻薬にカテゴライズされている物質が主作用としてもつ麻酔、鎮静といった作用と同じような作用を、その効果や依存性において大きな違いはあるとしても、持っているとは言えるでしょう。しかしポイントなのは、何故それらの薬剤が医学・薬学的に麻薬としてカテゴライズ、分類されていないのかというところにあります。つまり、麻薬が示す作用と一部共有していることも認識した上に立って、臨床的効果が確認された薬理作用をもつ薬物が麻薬からカテゴライズされているということに医学、薬学としての科学性があるわけです。もちろん、どんな科学、学問でも完璧なものではないのですから、現時点での医学、薬学が全て正しいとはとても言えません。麻薬と向精神薬のカテゴライズにおいても新しい知見によって変更になる部分が出てくる可能性は否定できません。常に様々な問題点や批判点が提示され、検証に晒されることによって、あるものは否定され、新しい知見が積み重ねられていくことが科学なのだと私は考えます。その辺の機知を捉えずに、「定義としては立派に麻薬ですしね」などと無内容に語り捨てるのは、科学や医学を揶揄するための言辞にしかなっていないように思います。 > >「人間はみんな精神病を抱えている」という水原さんの捉え方自体には特に意見を申し上げませんが、「現代文明の構造上当たり前」ということは「精神病」は「現代文明」でしか生じ得ない所産と考えているということでしょうか。それとも「精神病」を何らかの形で区分けしてある部分(もしくは大部分)が「現代文明」の所産であると主張したいのでしょうか。 > > 大変に失礼ながら、論理学の基礎中の基礎である必要条件と十分条件の違いも分からないまま、他人が言ってもいないことを「言った言った」と決めつけているような質問には、お答えのしようがありません。 貴方が書かれた文章を再引用してみます。 >>> 僕自身は人間はみんな精神病を抱えているし、そうなるのは現代文明の構造上当たり前であるというマルクーゼの理論を支持してます。 この文章を読んだ上で引用された私の質問が出てきたわけですが、あらためて読み返してみても、私の質問が論理的な枠組みから外れているとは思えません。必要条件と十分条件の違いは充分理解しておりますが、どういった点からその「違い」が分かっていないと仰るのでしょうか? それと、「言った言った」と決めつけている部分とはどれを指すのでしょうか? > > 「精神障害」もしくは「精神病」の判断ポイントのひとつは、心のコントロールを自分で働かせられなくなった状態である、と貴方の発言を解釈しましたが、 > > どこからそのような解釈が出てくるのかも不思議でなりません。僕は自分の精神障害を自覚してますが、自覚してコントロールしている限りにおいてはむしろ便利だとさえ言っておりますが? > > 「自分で働かせられなくなった状態」であれば、医者に行くか、周囲が医者に無理矢理運んでいくか、自殺でもしてしまうか、でしょう。 たしかに、貴方の文章には「心のコントロールを自分で働かせられなくなった状態である」との言明はありませんので、それは私の深読みか誤読でしたので、お詫びし訂正させていただきます。 その上で申し上げますが、「自覚してコントロール」できるような精神状態であるのならば、それが特に治療の対象となる「精神障害」と言えるかのどうか、非常に微妙になると思いますが、この辺についてはどう考えられますか? ところで、「自分の精神障害を自覚してます」と言われましたが、そう自覚し判断した理由はどのようなもの(たとえば基準)に基づいているのでしょうか。差し支えなかったら、お聞きかせください。 それから、「自分でコントロールを働かせられる状態」から「働かせられなくなった状態」への変化を貴方ご自身は認知、自覚できるかのように書かれておりますが、そのような認知可能性(簡単に言えば病識ということになりますが)は「精神障害」において一般化できることだとお考えなのでしょうか。 > >たしかに、フロイトは「遮蔽記憶を取り除いてトラウマを現出させれば、精神障害から解放される」という主旨の学説を唱えました > > フロイトから100年くらい経ってますから、今更そこまで単純に考えている人はいないと思いますよ。 貴方の発言をそのまま引用しただけですよ。「単純に考えている人」がいるとも多いとも言っていないのに、この揚げ足とり的なレスは何というか・・・ |
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