| 31498 | 返信 | Re:ある感想。上海さんへ。(31208投稿より)国の尊厳。 | URL | 上海 | 2004/12/18 23:38 | |
| コモンラバックさん、水原さん そして随分アブナイ工藤さん(だいたいオヌシが、しょうもない事を書くから・・・) > 世界各国が通って来た道はあまりにも違う。そして現在立っている場所も。 > 全世界が共有できるような歴史なり文化が無い以上、我々は日本人であるという所によって立つしかないんじゃないのでしょうか? ある特定の場所で、特定な状況で「我々は日本人である」と認識する事は(その人個人の歴史に拠るわけですから)、あって当たり前でしょう。 但しそれは、日本が地理的な特異性もあって、「ほとんどが日本人」という地域に定住してきた歴史からの「学習イメージ」でしかないという事です。 しかし、日本人であるという感覚を、「日本国家」という枠組みで感じてしまう事は、僕から言わせれば「倒錯」でしかありません。コモンラバックさんが例証に挙げた、例えば国と国との戦争や諍いに端を発する様々な「国民感情」は、近代国家の形成の過程で、意図的に醸成された「極めて迷惑なインヒビター(阻害因子)」としてのものでしかありません。 > 民族が形成されるには50年いらない、が自分の持論なんです。よって、近代以前は・・・・・・って話にあまり興味はなかったりします。 > 確かに江戸時代以前、人々が小さな村落で自給自足に近い生活を送っていた頃ならそうかもしれません。しかし時代は近代に入り、物流と人の交流が活発になるとインフラとして言語や倫理観を統一する必要が生じ、日本の場合は国家がそれを主導して行いました。 > 幻想? 確かにそうかもしれません。しかし明治維新以来1世紀半近く。我々はその幻想を現実として生きてきました。人々から根っから信じられる幻想は半世紀も経てば現実に変わる。現実に変わってしまったそれをいまさら排除することは、それこそ「レイプで出来た子だから」と間引いてしまうような発想だとは思えませんか? 50年で変わるものなんだったら、全ては「過渡的な仮の状況」でしか無いわけですね。それならば、「今の状況」を守り抜くなんて発想自体が流れに棹する愚行と考えられませんか? 「モンゴリアンの風貌と、流暢な日本語と、儒教思想に基づく価値観」をもつ居住者が50年後には半分くらいになっていたとしても、それはそれでちっとも構わない。 > 逆に日本では江戸時代から現代に至るまで、幕末維新にささやかな内乱があったのみで殆ど内戦がなかったことを考えれば、比較的近しい文化的背景を持つ人々によって政治単位を形成することがいかに社会の安定と平和に貢献するか,おのずから明らかではないかと。 社会の安定は、国民生活の豊かさに大きく依拠しますね。個人が社会的個人としての「自由」を獲得する過程とも言える「近代化の過程」は、主体となる「群れ」としての国家が、その内部に有する矛盾を全て「他の群れ」に転嫁する帝国主義的発展として、現実的には実現されてきました。 だからこそ、「外に捨てたはずの矛盾」が、ブーメランのように戻ってくる現実に、「日本国民」なる多くの人は恐れ慄いているというのが、現在の状況ではないですか? コモンさんの言う「安定」も「平和」も、他国の国民に政治的にも経済的にも大きく干渉する事に拠って得られたものでありますから、単純に喜び且つ受け入れられる性質のものでは無いでしょう。 > 日本のナショナリズムとは、こういう「安定した日本を防衛する」為のナショナリズムであるべきだと自分は思うんですよ。 安定した日本を防衛する事は、「純血主義」でもないし、「ご主人様への忠誠」でも無いと思いますが・・・ 例えば、オーストラリアのある地域はコーリアンタウンです。駅前の商店街の半分はコーリアン資本です。同じようにチャイナ、イタリアン、レバニー、インドネシア等の街がそこかしこにあります。それがオーストラリアの「安定」や「平和」の妨げにはチットモなっていませんよ。 |
||||||
![]() | ||||||