31520 | 返信 | Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって | URL | にょろ | 2004/12/19 21:04 | |
tpknさん。時間がなく分割レスですいません。 > なぜノンポリのような思考法が「日本の多数派」かというと、権威主義だからなんです。自分の頭で考えず、自分が権威と思ったものを無批判に「信仰」し、他者攻撃に使う。これ、2ちゃんねるのクソウヨやイラク人質バッシングをした「一般市民」と、なんら変わるところはありません。だから、やっぱりあざ笑います。 権威をあざ笑いますが、権威主義つまり権威に依存する者たちをあざ笑うことをわたしはしないだろうとおもいます。なぜなら、こういった人たちは「自然な人と社会の関係」をあらわしているのではないかと考えているからです。 自分が発見したなんらかの社会的な問題を考える上において、善悪や正誤の絶対的判断基準を得ようとすることは素朴な発想かもしれませんが自己と世界(他者)とのつながりを考える第一歩ではないだろうかと思います。王のいた時代なら、王の物語が生きており、宗教が支配していればその神話が生きており、世界の成り立ちや社会秩序、善悪の判断基準を提供しその共同体内においてこうした問いに回答を与えることができたでしょう。しかしながら、文明の発達により自分たちの世界とは違う王、宗教など他者の発見によるそれまでの社会の正当性、正統性、絶対性がゆらぎ、近代における自我の発見により社会が超越的な存在から与えられるものではなく、自分たちでつくりあげるという論理が発明され、試行されたとき、「正しい」社会とはなにかという問題に今度は個々人が直面せざるをえなくなります。これはある種の人たちにとって恐怖、不安をひきおこします。自分の立つ位置の保証がない、宙ぶらりんの状態。自分を正当化、正統化の根拠、「普通」をもとめ、「正しさ」をもとめ、寄る辺をもとめ、自らの恐怖や憎悪の鏡像として内なる他者があらわれ、それを攻撃する。 そうした場合、自分を納得させてくれる超越項をおくことで底に足をつくことができる。正しい行為としての攻撃もできる。つまり<癒し>が得られるというわけです。たとえば、リアリスト、ウヨク、サヨク、ビリーバーなどさまざまな解決法があるでしょう。リアリストは「現実」、ウヨクは「国家」、サヨクは「理性」、ビリーバーは「わかりえぬ絶対的他者」といったところに超越項をおき「信仰」する。信仰というのは他者に対する確信だとわたしはおもっています。内なる確信と決定的に違うことは、他者というわかりえぬものを認識できないということでしょう。tpknさんが「他者攻撃」とかかれましたが、その「他者」は「他者」ではないだろうとおもいます。 「自分の頭で考えず」や「2ちゃんねるのクソウヨ」との批判については、引用になりますが、 「「宮台−思考に関してコストを支払える人間はあまりいないんです。思考停止状態のくせに、それこそ思考しているようなフリができるのが一番いいわけ。セクショナリズム的なポジション取りにあくせくする、日本の論壇誌みたいなものですよ。」 「これは丸山眞男が言っていた問題です。要は、右も左も共同体的な思考停止だと。日本の場合、右も左も実は関係ないと。両方とも思考停止でローカルなポジション取りに明け暮れる田吾作だと。これじゃ戦争に負けるぜ、というのが丸山の議論だったわけです。」 「「梯子外しに永久に戯れる弱者共同体」的コミュニケーションは、その意味では2ちゃんねる」の専売特許じゃなく、ローカルなポジション取りを尊厳(自己価値)に資すると思い込む、共同体的な心性に由来する古めかしい作法」[1] のあらわれだろうと思います。仮構でもよいから序列がないとやっていけない人たちではないでしょうか。外部から規定されている封建的制度の下でないと落ち着かず、「自由」のもとでは居心地が悪いのではないか。前述の「信仰」者と同様に自己の位置づけに四苦八苦しているのではないかと考えています。当初、それは今の時代において、生きづらいことのあらわれじゃないかなぁとおもったものですが、見えなくなるものや「見えてしまう」ものもあるでしょうが、そういう世界のほうがひょっとするとラクなのかもしれない。どうもそういうような人たちをあざ笑う気になれないのです。「自分の頭で考え」るということはわたしにとっても難しく、ややもすると「神」だよりになりかねない。超越項をおかない可謬の世界というものは他者との関係において、それが力の強弱の色合いを帯びやすい現実において非常に考えづらいものがあります。 [1]金子勝、アンドリュー=デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』<筑摩書房>p.336 |
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