| 31559 | 返信 | Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって | URL | 水原文人@パラノイア | 2004/12/21 13:37 | |
| にょろさん、 以前に頂いていたレスへの返事を放置したままになっているので、それも含めてのお答えになればいいかと… > ご指摘ごもっともと思います。現実、理性を「」で括ったのはご指摘の解釈と区別するためです。「現実」「理性」と分かちがたく結びついている情念、我欲、願望などに目をつぶって状態ということです。 「現実」をどう受け止めるかの主観的解釈の問題ですね。その点では信仰の要素はあると思います。というか、近代化学の誕生以前には宗教(たとえばヨーロッパではキリスト教)が世界観を提示していたわけですし、その意味では逆に言えば「科学」だって信仰なのかも知れませんしね。 実は僕が言っていることはあらゆる古典的宗教に内包されているある種「禅問答」的な部分を受け売りしているだけに過ぎないところがあります。どの宗教も組織宗教化した瞬間に、その構成員、とくに権威の側の潜在的な「情念、我欲、願望」によってこのある種「禅問答」的な部分が教義から封じ込められてしまうところがありまして、それは近代科学ですら同様の傾向がありますね。要するに「権威主義」、権威であり「正しい」側でいたいという人間の欲求なんでしょうが。私見では、先ほどレスをつけたなな氏の投稿なんてその典型のように…。 > > …だとしたらそういう自我が確立せず、また自我を確立しようという努力すらしようとしない者は人間として極めて怠惰な存在だと思いますし、そうした人は僕にとって無条件に侮蔑の対象となります。 > > しようとしていないからといって怠惰といえるのかどうか疑問です。 怠惰以外のなにものでもありません。最大の怠惰は、自らの怠惰さに気がつかないことですから。 > するほどの魅力が自我にあるのか。 なければ人間は人間ではありません。また自我を失った、というか封じ込めた人間の集団は、すぐに全体主義へと暴走して行きます。20世紀はそれが繰り返し実証された時代でもあり、少しはその体験から学習しなければ人類の未来もないと思います。 > よいわるいを基本的なところから考え直す、信じている自分を懐疑しながら、立場、利益を仮に離れて思考することにいかほどの現世利益があるのか。 いっぱいあります。なによりも人生、楽しくなります。が、この楽しさは体験しないと分かりませんね…。 > 思考停止したまま既存の枠内ないしなければ枠をつくって上位につくほうが魅力的かもしれない。 まあラクチンではあるでしょう。自分で考えるという面倒な努力をしないでいいんですから。ですからそれは怠惰でしょう。 > 合理的に全体主義に移行可能ですから民主主義は脆いシステムです。つまり、「信仰」にもとづいた「正しい」統治、「正しい者」による支配も可能でしょう。したがって、「信仰」をもつ者によるに対して「ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」と警戒されるのはわかるような気はいたします。 真の意味での「信者」なら、逆に警戒の必要はなくなります。あらゆる成熟した宗教思想には、「自らを疑う」という禅問答的な要素が含まれていますから。なかでもキリスト教とイスラームの一部がなぜあそこまで暴走できるのかは、元の教義を知っていると、相当にナゾです。根本にあるのは理解不能な絶対神に対する人間の限界の自覚なんですから。 > しかし、それが「コミュニケーション弱者」…だとしたら、それは杞憂でしょう。せいぜい表層の共感でしかつながることができず、結合と分裂をたやすく繰り返し続けるだけでしょう。 そうでしょうか? ナチズムにしても日本の軍国主義にしても共産主義国家の暴走にしても、自我の確立していないコミュニケーション弱者な「大衆」が集団催眠的な状況に陥ったことが大きかったように僕には思えますが。 > 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」に焦点をあてつづければ「他者性の排除ということで言うと、議論にもいろんな他者性の排除があり得るわけで、いまここで出ている恐怖の悪循環のような状態って、結局違うものとの共存があり得るとは考えないで、違うものは排除するということに向かっていくわけでしょう。違うものはなんだか分からないから、パラノイアが増殖するわけですね。」[2]というのが水原さんの状態かもしれません。 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」なのは、我々自身もいつそこに陥るかどうか分からない「バカ」ないし「怠惰」である状態に陥った人間たちである、というように僕は主張しているのですが…。 >しかし、民主主義のよさというのは失敗を恐れないということだろうとおもいます。 民主主義は失敗したら大変な災厄をもたらしかねません。民主主義のよさはむしろ多様な他者の意見を議論によって集団的な意識のなかに取り込んで行く可能性を持っていることでしょう。だからこそ全体主義とは真逆の、反対意見を言う権利が民主主義にとって必要不可欠なのです。 > > さてこれでユーリのパパさんがまた「差別発言であることは自明」とか騒ぎだすんでしょうか? > > ユーリのパパさんにたずねられたほうがよいでしょう。 ええ。この掲示板はユーリのパパさんも読んでいるのですから、ユーリのパパさん(およびユーリのパパさん的な意識に凝り固まった人々)のために言っています。 > > では質問、僕は上記の発言のなかで誰を侮蔑しているんでしょうか? > > 「自我が確立せず、また自我を確立しようという努力すらしようとしない者は人間として極めて怠惰な存在だと思いますし、そうした人は僕にとって無条件に侮蔑の対象となります。」 そうです。で、これはある特定の集団を指しているものでしょうか? 僕自身も含め誰しもこの状態に陥る危険性はあります。「そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」とは、そういうことでもあります。 > > それがどこで特定の集団に対する社会構造的な偏見や蔑視を含む「差別」に結びつくんでしょうか? > > その前に、「社会構造的な偏見」はどのようなことをいうのですか? ある特定の集団の特性を偏見でもって決めつけて「他者」と認識し、それを排除することで自らの属するマジョリティの特性を無自覚に社会全体の「ルール」(意識・無意識の双方を含む)に敷衍しようとする運動のことだと思います。個人レベルでいえば、倫理的なマジョリティの側にある自分という自己認識に安堵し安住してしまうことだと思います。だから「本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」なのです。 > > そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことであるとも既に言っておりますです、ハイ。 > > 以前にも似たようなことを申し上げましたが、バカを自覚できないのであれば、バカ当人ではなく、バカに見えた側で対処するしかなかろうかと思います。 それが可能だと思う時点で、それは傲慢であり自らの限界性を自覚していない、つまり「自らのバカさ加減を自覚できないそして本当のバカ」になっている状態だと僕は思います。あるいはポルポト君と揶揄されるべき対象かも知れません。 人間は周囲の環境からの刺激を契機として常に自分を更新していけるはずの生物ですから、「バカに見えた側」はその刺激・契機の主体となることは出来るかも知れません。でもそれをどう受け止め、そうすることで自分を更新して行けるかどうかは、その当人の問題でしかあり得ません。テレパシーとかそういう神秘主義的な世界に傾倒しない限り、他人の精神の奥深くまで関われると考えることはできませんから。 一見「教育」できたような幻想に浸ることはできるかも知れませんが、それはただその当人にとって自分が「教祖」とか「権威」の存在になるだけの話である可能性が高く、つまり権威主義的な意識の構造それ自体はなにも変わっていないことになります。無論僕はそのような権威にもカリスマにもなりたくありません。だって責任持てないもの。 |
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