31638 返信 Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって URL にょろ 2004/12/23 23:39
水原文人さん

> 以前に頂いていたレスへの返事を放置したままになっているので、それも含めてのお答えになればいいかと…

 了解です。

> 近代化学の誕生以前には宗教(たとえばヨーロッパではキリスト教)が世界観を提示していたわけですし、

 そうだろうと思いいます。それを #31520 の前段で書いたつもりです。

> その意味では逆に言えば「科学」だって信仰なのかも知れませんしね。

 「信仰」だろうと考えています。実証科学、経験科学の系譜、フランシス=ベーコン以来の「知は力なり」はモロでしょうし、「ヒュームの問題」や不完全性定理の証明以降、つまり、真理には到達できないことが判明した以降の「ほんとうらしさ」「確からしさ」の説得力はその「弁証法的発展信仰」が源でしょう。これは実証できる情報をもつものの権威化、情報をもたざるものの劣位固定になりかねない問題が生じる上に、自然科学ではありませんが、実証不能の陥穽(歴史修正主義者によるホロコースト否定、従軍慰安婦問題など)にはまりかねないでしょう。これはソフィストリーと絡み深刻な問題だと考えています。

> 要するに「権威主義」、権威であり「正しい」側でいたいという人間の欲求なんでしょうが。

 そうだろうとおもいます。
 「正しく」て「権威」で、しかも「普通」でありたい。

> 怠惰以外のなにものでもありません。最大の怠惰は、自らの怠惰さに気がつかないことですから。

 社会環境と関連するとわたしは考えています。民主主義という理念を実現する社会として、個々人に責めを背負わすほど間口の広い社会が現状の「日本」にあるとは考えていません。
 
> 20世紀はそれが繰り返し実証された時代でもあり、少しはその体験から学習しなければ人類の未来もないと思います。

 「日本」においては、その体験はまだないと考えています。

> 真の意味での「信者」なら、逆に警戒の必要はなくなります。

 信者ならそうでしょう。
 たとえば、それは森達也『A2』においてもそう考えます。

> 根本にあるのは理解不能な絶対神に対する人間の限界の自覚なんですから。

 信仰は…正直、わたしにはわからないのです。
 それは人間には表現できない確信だろうと考えています。
 こればかりは実体験が全てでしょうから、体験をしたことがないわたしにはでなんともいえないですね(苦笑)。体験した(という)人は何名かみたことはありますが。
 
> そうでしょうか? ナチズムにしても日本の軍国主義にしても共産主義国家の暴走にしても、自我の確立していないコミュニケーション弱者な「大衆」が集団催眠的な状況に陥ったことが大きかったように僕には思えますが。

 これらはコミュニケーション弱者の問題ではなく、社会的な問題、たとえば、情報統制の問題ではないかとおもいます。情報の出所を一元管理してしまうこと、圧倒的な情報量による他情報流通の実質的な妨害、公的圧力、同調圧力が可能な環境であれば、個々人の自我の確立、コミュニケーション力の問題以前の話でしょう。さらに、これらは半世紀以上昔の話であり、政治、経済、文明の状況がことなる現在に適用できるとは思えません。逆説的ですが、まがりなりにも社会が熟成してきたからこそ「コミュニケーション弱者」や自我の問題が表出してきたのだろうと思います。

>> 「他者性の排除ということで言うと、議論にもいろんな他者性の排除があり得るわけで、いまここで出ている恐怖の悪循環のような状態って、結局違うものとの共存があり得るとは考えないで、違うものは排除するということに向かっていくわけでしょう。違うものはなんだか分からないから、パラノイアが増殖するわけですね。」[2]というのが水原さんの状態かもしれません。
> 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」なのは、我々自身もいつそこに陥るかどうか分からない「バカ」ないし「怠惰」である状態に陥った人間たちである、というように僕は主張しているのですが…。

 淘汰するということは排除ではないのでしょうか。民主主義を失わせるものへの恐怖。我々自身もいつそこ(「バカ」ないし「怠惰」)に陥るかどうか分からないのであればなおさら淘汰すべきではないでしょう。そして、共存はあり得るのではないかと考えています。

> 民主主義は失敗したら大変な災厄をもたらしかねません。

 そうでしょう。人間の作り出したものですから失敗はつきものです。大変な厄災もありうるでしょうし、その覚悟が必要でしょう。リスクが背負えないならば、『1984年』的な「よくできた」全体主義をめざす方が楽じゃないでしょうか。

> 民主主義のよさはむしろ多様な他者の意見を議論によって集団的な意識のなかに取り込んで行く可能性を持っていることでしょう。

 その可能性が実現してしまったら、それは全体主義ではないのですか?
 「意識のなかに取り込む」という部分を穿ってみてしまっているのかもしれませんが、他者をわかる、理解するということでしょうか。耳を傾けることやわかろうとする、理解しようとすることはできるかもしれません(するべきでしょう)が、わかる、理解できるならそれは他者ではないでしょう。

> これはある特定の集団を指しているものでしょうか? 僕自身も含め誰しもこの状態に陥る危険性はあります。「そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」とは、そういうことでもあります。

 人はだれしも大なり小なりバカなのよ、ということですか。今、あしなさんの投稿#31613を拝読したため「この辺の話は発達障害になるともっと顕著で、自閉症スペクトルという発想は、全ての人が大なり小なり自閉症的な傾向を有していて、それがたまたま不適応を来すか否かで臨床的な対象となるか否かが分かれるとされます。」と重なるイメージがあるのですが、これは自覚するのは困難であろうと思います。また、本人が困った状態にでもならないと他人が介入しようとすることも容易ではないでしょう。

> 他人の精神の奥深くまで関われると考えることはできませんから。

 だからこそバカにみえた側で対処するしかないと考えます。

> 「教育」できたような幻想に浸ることはできるかも知れませんが、それはただその当人にとって自分が「教祖」とか「権威」の存在になるだけの話である可能性が高く、つまり権威主義的な意識の構造それ自体はなにも変わっていないことになります

 バカにみえた側でバカ当人を「教育」するということですか?
 それは水原さんがおっしゃるように意味がないと思います。