| 31649 | 返信 | Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって | URL | 水原文人@パラノイア | 2004/12/24 13:35 | |
| にょろさん、 > > 怠惰以外のなにものでもありません。最大の怠惰は、自らの怠惰さに気がつかないことですから。 > > 社会環境と関連するとわたしは考えています。 それは決して無視しませんが、しかしそこにのみ全責任を押し付けるのは…。 たとえば最近、高松宮邸近辺や、昨日は皇居で、いろいろな方のお話を撮影しております。「天皇の戦争責任」についてはみなさん否定なさいますが、それは決して日本の戦争責任を正当化する議論ではありませんでした。「ではだれのせいなんでしょうね?」とお聞きすると、お答えはおしなべて「しょうがなかった」的なものです。 そうおっしゃる方たちを僕は理解しますが、一方で「社会環境と関連」にのみ精神的・知的な怠惰としての権威主義、「「正しく」て「権威」で、しかも「普通」でありたい」人々の問題の原因を求めてしまうのと同様の無責任ではないかとも考えます。 > 民主主義という理念を実現する社会として、個々人に責めを背負わすほど間口の広い社会が現状の「日本」にあるとは考えていません。 ではその「日本」は誰が作って来たのでしょうか? 少なくとも戦後約60年は制度としては民主主義ですし、実は戦争中の一時期を除けば大正時代からかなり制度・社会構造としては民主的になっていたはずです。 > > 20世紀はそれが繰り返し実証された時代でもあり、少しはその体験から学習しなければ人類の未来もないと思います。 > > 「日本」においては、その体験はまだないと考えています。 太平洋戦争に至った時代がそれだったと考えますが。たとえば戦争反対の記事を載せる新聞は売れない、的なこともあったなかで、「騙された」とは言えません。 > たとえば、それは森達也『A2』においてもそう考えます。 うーむ、森さんはそう思ってないだろうけど、でも「作品」というのは作家の意図だけの問題ぢゃないですから…。最終的には個々の観客の解釈なんだし。 > > 根本にあるのは理解不能な絶対神に対する人間の限界の自覚なんですから。 > > 信仰は…正直、わたしにはわからないのです。 上記は信仰と言う心理の問題ではなく、教義を字面通りに読んだらそう書いてあるという話なんですが… > それは人間には表現できない確信だろうと考えています。 だから僕は根本的に無神論者なんです。 > > そうでしょうか? ナチズムにしても日本の軍国主義にしても共産主義国家の暴走にしても、自我の確立していないコミュニケーション弱者な「大衆」が集団催眠的な状況に陥ったことが大きかったように僕には思えますが。 > > これらはコミュニケーション弱者の問題ではなく、社会的な問題、たとえば、情報統制の問題ではないかとおもいます。 上記の通り、それは一元的すぎる解釈であり、「大衆」を免罪するための言い逃れの側面は否定できないと思います。ナチズムの直前までドイツはヴァイマール共和国時代であり、表現の自由もさまざまな情報もあったのです。なのに90%以上のドイツ国民がナチスに投票したのはなぜか? やはり「大衆」個々人の問題は無視できません。 > >> 「他者性の排除ということで言うと、議論にもいろんな他者性の排除があり得るわけで、いまここで出ている恐怖の悪循環のような状態って、結局違うものとの共存があり得るとは考えないで、違うものは排除するということに向かっていくわけでしょう。違うものはなんだか分からないから、パラノイアが増殖するわけですね。」[2]というのが水原さんの状態かもしれません。 > > 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」なのは、我々自身もいつそこに陥るかどうか分からない「バカ」ないし「怠惰」である状態に陥った人間たちである、というように僕は主張しているのですが…。 > > 淘汰するということは排除ではないのでしょうか。 しかし僕は淘汰ないし排除する対象を特定してませんよ。自らもそこに陥る危険性だって常にあるのに、そこまで偉そうには言えませんし、集団を特定した瞬間にポルポト君になり、紅衛兵化することになるでしょう。 > > 民主主義は失敗したら大変な災厄をもたらしかねません。 > > そうでしょう。人間の作り出したものですから失敗はつきものです。大変な厄災もありうるでしょうし、その覚悟が必要でしょう。リスクが背負えないならば、『1984年』的な「よくできた」全体主義をめざす方が楽じゃないでしょうか。 全体主義はどんなに「よくできて」いてもできの悪い、失敗した民主主義(誤解された民主主義)でしかありません。それが巨大な災厄をもたらすのだと言っているのですが… > > 民主主義のよさはむしろ多様な他者の意見を議論によって集団的な意識のなかに取り込んで行く可能性を持っていることでしょう。 > > その可能性が実現してしまったら、それは全体主義ではないのですか? いいえ。逆です。 > 「意識のなかに取り込む」という部分を穿ってみてしまっているのかもしれませんが、他者をわかる、理解するということでしょうか。耳を傾けることやわかろうとする、理解しようとすることはできるかもしれません(するべきでしょう)が、わかる、理解できるならそれは他者ではないでしょう。 「理解」にはしょせん、個々の主体の理解しかあり得ません。そのときに自分の限界性を自覚した上で異なった意見や見解をどう「理解」するかが、民主主義の成功か失敗かを決めるのではないでしょうか? > > これはある特定の集団を指しているものでしょうか? 僕自身も含め誰しもこの状態に陥る危険性はあります。「そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」とは、そういうことでもあります。 > > 人はだれしも大なり小なりバカなのよ、ということですか。 はい。 > 今、あしなさんの投稿#31613を拝読したため「この辺の話は発達障害になるともっと顕著で、自閉症スペクトルという発想は、全ての人が大なり小なり自閉症的な傾向を有していて、それがたまたま不適応を来すか否かで臨床的な対象となるか否かが分かれるとされます。」と重なるイメージがあるのですが、これは自覚するのは困難であろうと思います。また、本人が困った状態にでもならないと他人が介入しようとすることも容易ではないでしょう。 たとえば僕は右と左の識別に障害があります。ですからその障害のない他人よりは困りますが、別に薬物投与など必要なく、ただ自分にその障害があることを自覚して気をつけていれば済む話です。「困る」にもいろんなレベルがあるわけです。 > > 他人の精神の奥深くまで関われると考えることはできませんから。 > > だからこそバカにみえた側で対処するしかないと考えます。 「 他人の精神の奥深くまで関われる」ことが不可能である以上、本人の意思がない限り「対処」は不可能です。 > > 「教育」できたような幻想に浸ることはできるかも知れませんが、それはただその当人にとって自分が「教祖」とか「権威」の存在になるだけの話である可能性が高く、つまり権威主義的な意識の構造それ自体はなにも変わっていないことになります > > バカにみえた側でバカ当人を「教育」するということですか? いいえ、バカ当人が自分のバカさ加減を自覚すること以外は、結局権威主義の権威の主体がスゲ変わるだけでバカの再生産になるだけだと言っています。それに「他人の精神の奥深くまで関われる」、つまり「自分はバカを教育できる」との傲慢な自負を持ってしまうこと自体が、バカです。 > それは水原さんがおっしゃるように意味がないと思います。 周囲の環境からの刺激で人間はいくらでも変わることはありますが、その受け手という主体の方が“開いて”いないとなんの意味もありません。 |
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