31712 返信 Re:パニック障害 Re:精神医学・医療と精神分析について URL 水原文人 2004/12/27 14:33
> > そこが精神医療の難しいところであり、自然科学よりは解釈の幅が広い人文科学分野である精神分析の有効性を、どう割り引いたって結局は認めざるを得ないところでしょう。医者・臨床心理士・カウンセラーは直接にはその患者本人か、せいぜい周囲から(これはかなりヤバイけど)話を聞くことでしかその患者本人がどのようなストレスを体験しているのかを把握できませんから。
> >
> > 本人も自覚していない以上、精神分析の手法から直感・人生経験・その他を総動員してその話の「行間を読む」ことでしか、対応しきれません。これがいわゆる普通の、というか身体の病気とは大きく異なるところであり、たとえばななさんがおっしゃっているような「科学的な実証性」が原理的に不可能なところです。
>
> 「行間を読む」とおっしゃることの意味が、何気ない話から患者の生活背景や
> 生育過程、気質、性格を推測して治療に生かす、ということならば、精神科に
> 限らず、どの分野の臨床医にとっても、いわゆる問診の際に必要な過程でしょう。

精神分析というのは、しょせんその程度のことでしかありませんよ。

> もちろん、おっしゃるように、精神科の場合はその必要がより多いであろうことに
> 異論はありません。が、その手法が従来の精神分析的手法なのかどうかは疑問です。

「従来の精神分析的手法」に、なんだかアレルギー的な拒否反応を示しておいでのようですが、なぜなんでしょうか? 

> 現在カウンセリング現場では様々な療法が取り入れられており、たとえばTFTや
> FAPといった療法などは、むしろ臨床体験から「行間を読む」ことの限界を理解した
> 結果、用いられている療法なのではないかと思います。

これは「精神分析」でも同じ問題があるのですが、理論や方法論を導入したとたん、それにばっかり依拠してしまって、自分本来の人間的な直感だとか、多くの人に接して来た上で得て来た知恵みたいなものが無視される傾向が強いことですよね。「精神分析」にしても、ひとつのツールに過ぎないわけで、「無意識」という問題に視野を広げたところが歴史的な功績である以外に、とりたてて大騒ぎするほど(「信仰」対象にするほど)のものではありません。

ちょっと乱暴に分かりやす言い方をしてしまえば、精神分析の功績は、人間は自分自身に対してでも嘘をつくものだし、それが嘘であることを自覚できない存在であることを意識させ、またその理論体系によって「自分に対して嘘をついている人間という存在」をある程度客体化して、距離を置いてみられるようになった、ということでしょう。

> > もちろん大脳の機能が完全に解明されれば、意識されていなかったり無意識の奥底に封じ込められた記憶だって解読して引き出すことが可能になるのかも知れませんが…そんな世の中、はっきりいって私はご免です。住基ネットとか、監視カメラ社会よりも、もっと始末が悪い。
>
> そのようなことは、数多くの生体解剖実験でもしない限り実現しそうもないこと
> ですし、

…ということは、実はパニック障害の「科学的」原因究明も、「数多くの生体解剖実験でもしない限り」やはり理論上の推測の域を出ないことになりませんか?

ちなみに「数多くの生体解剖実験」をしても、やはり分からないと思います。なぜって大脳に情報としてインプットされる刺激の全体像を把握しようがないから(一生大脳にセンサーでもつけて死ぬまで生活するモルモット人間でも大量にリクルートすれば別なのかもしれませんが)。

> そんなことは医学倫理上まったく許容されるはずもないことですから、
> ご心配には及ばないと思いますよ。

それが実現することはあり得ないと思いますが、しかしそういう実は「医学倫理上まったく許容されるはずもない」ことを志向している類いの人間の精神に対するアプローチの方は現実に蔓延しています。たとえばパニック障害の原因を「科学的」に(つまり、たとえば脳内の神経伝達物質から)究明しようとする態度が、僕からみれば「医学倫理上まったく許容されるはずもない」ことを志向している類いのアプローチに思えますよ。

だからと言って別に医学の努力を否定しているのではありませんよ。ただそれもまたひとつの限界のあるアプローチ/視点に過ぎないのではないか、と言っているだけです。

> > そうですよね。だから「科学的実証性」の勉強の一方で、自分自身にとって最大の未知なる存在は自分自身であるという一見テツガク的に響くけれどその実ごく当たり前のことを自覚するのは大事だと思います。僕がさんざん言っていた「自分でコントロールできるうちは」というのは、たとえばそういう意味のことです。
>
> 「自分自身にとって最大の未知なる存在は自分自身である」というご見解には
> 同意しますが、他者とて大差なく「未知なる存在」であると思いますよ。

しかしだからといって、「未知なる存在」であるからといってその他者との関わりを忌避してそこから逃避するようなことは、人間として生きている限り不可能です。それに他者の方が客観的に見られるぶん、場合によっては「自分」よりもその存在がよく見える、ということは、あります。

> 現実社会でさえ、簡単に相手が「分かる」ものではありません。

だからって「分かろう」という努力を忌避する理由にはなりませんよ。

> ましてやコミュニケーション手段に限界のあるネット社会においては、なおさら…。
> 私が発してきた問い「なぜ分かるの?」は、そういう意味です。

しかし不完全ではあっても「ある程度は分かる」を前提にしなければ、コミュニケーションなんて成り立たないのです。逆に言えば、「完全に分かる」ことを希求することそれ自体が、実はコミュニケーションの拒絶であります。

人間関係において失敗することは誰もが恐れることであるとは思います。しかし一方で我々が人間である以上、「失敗して当たり前」なのです。

Marisさんやななさんを見ていると、失敗することを恐れるあまりに「絶対的」に思える「科学的」に頼ったり、他者との深い関わりを恐れているようにも見えます。

人間はあらゆることに対して、結局「自分の解釈」しかできません。それが人間の認識と解釈の主体としての限界です。そこにどんな「科学性」とか「論理的」とかを求めた所で、「自分の解釈」であって限界があるものでしかないという厳しい現実は変わりませんよ。そこから出発することしか、我々人間にはできないのです。

だからあえてこのやり取り繰り返しておきますが…

> 原題は、 “I Don't Want To Talk About It”です。 男にとっても女にとっても、なかなか興味深い本だと思います。
>
> 蛇足ながら、今回のやりとりで、水原さんのような“I Want To Talk About It"も “Don't”が入る場合と、実は表裏一体なのかもしれないなぁ、などと感じたり して…。(^^;

思いっきり図星だと思いますが。

↑このように、Marisさんの直感もまったく捨てたものではないのですよ。

> ウディ・アレンが好んで精神分析ネタを作品に登場させるのも、自分を含めて
> 他者もまた同様に、人間とはややこしくて面倒くさくて、いかに不可解なもので
> あるかを言いたいがためではないでしょうか。

それをコメディとして扱っているのは、「人間とはややこしくて面倒くさくて、いかに不可解なもの」であることこそが、人生をおもしろくしてくれるものでもあるからだと思いますよ。そして「「人間とはややこしくて面倒くさくて、いかに不可解なものである」ことを本当に人間的に理解するためには、人間関係で失敗することを恐れていてはいけないのです。

>発作時以外はごく普通に見えますし、発作自体も30分から一時間で収まり、激しい悶絶状態が嘘のように消えますから、周りから見れば「なに、それ?」なのも分からないではありませんが、

すみませんけど、これは被害妄想に見えますよ。もちろんそう思う冷酷な人もいるでしょうが、大半の「周囲の人間」からすれば30分や1時間で激しい悶絶状態が嘘のように消えてくれたら、とりあえずホッとしますし安心します。「ああよかった」と思うでしょう。あなたの周囲の人間は、あなたが思っているほど冷酷でも無理解でもないと思います。

> その30分から一時間が「地獄のひととき」であることを知っていただけるとありがたいです。

見ているだけで「地獄のひととき」であることはじゅうぶんに分かると思いますが? すみませんけど、気にし過ぎではないでしょうか?

もちろん理解しない冷酷な人や、そうやって苦しんでる他人を「理解」してる私に自己満足しちゃうジコチュウな人も世の中ゴマンといますが、素直に「大変だなぁ、なんとか助けになれないかなぁ」と思う当たり前の優しさを持った人の方が世の中多いのではないでしょうか? そしてそれを見分けるためにも、「直感」は必要ですよ。

「火災報知器の誤作動」のたとえに戻って言えば、たとえば飛行機のトイレの火災報知器は中でタバコを吸うだけで作動してくれるのでこっそり吸ってる喫煙者にしてみれば「誤作動だ!」と悪態をつきたくなってしまうわけですが、火災報知器の誤作動というのは、イタズラを除けば、たいていはその火災報知器が敏感すぎて火災ではないことでも火災として検知してしまうのではないでしょうか?

このたとえを「パニック障害」に援用できるとしたら、「パニック障害」とはその人が極度に繊細で敏感だからこそ起ることだとも言えるのではないでしょうか? 「繊細で敏感」であるということはつまり直感が鋭いわけで、その点ではすばらしい長所でもあるはずです。

Baadさん、上海さん、僕の間で話題になっている「自閉症圏」「自閉症スペクトラム」云々の話も少し参考になさって見て下さい。学術的に「自閉症圏」「自閉症スペクトラム」「アスペルガー」云々と分類されるらしい事柄は、どれもたいていの優れた芸術家だとか思想家とされる人たちに見られる症状でもあります。学術的・医療的にそういう分類が必要なのも分からなくはありませんが、なにかを「正常」とか「健常」という一見絶対的に見える基準に当てはめ、そこからズレているものに全部「障害」とかのレッテルを貼ってしまっている、という見方もできると思います。

僕自身がいわゆるADHDとされる障害を多々持っていて、鍵を忘れる、携帯電話がなくなる、傘を電車に置き忘れる、は日常茶飯事なのですが、実はこれはたんに集中力の配分が「一般的な人」(ってのがなんなのかも相当に怪しい)と異なっているだけの話なのです。しじゅう考え事をしたり、電車のなかでも他人やら風景やらなにやらを注意深く観察してしまっているから、自分の傘のことなんて忘れてしまっている、というだけの話ですし、「ADHD」と言われるよりは「注意力散漫なんです〜。すみませ〜ん」と自覚してしまう方が、いろんな意味で楽です。

> 『アニー・ホール』の最後は、精神科医をネタにしたギャグでしめくくって
> いましたっけ?
>
> 「先生、弟は自分が鶏だと思ってるんですよ」
> 「んじゃ、連れて来なさい」
> 「でもね、僕は卵が欲しくって、そこがジレンマなんです」

最後の一行は、「卵が欲しい」と「ジレンマ(映画では「問題」)」を逆にしないと、ギャグとしての効用が半減しますよ。