| 31760 | 返信 | Re:コミュニケーション能力 NRe:精神医学・医療と精神分析について | URL | Baad | 2004/12/28 17:59 | |
| 水原さん > それは考えが甘いですね。演出家のような仕事に必要なコミュニケーション能力は、ただ「高度」というよりも、「普通」とズレているだけです。僕にはその傾向はなさそうですが(そーゆー天才タイプでは、明らかにない)、「あそこまで頭がいいのに、なぜ?」と思えるくらいいわゆる普通の人間関係においてはバかというかちょっとおかしい人が多いし、そうでなくてはやってられないんでしょう、たぶん。 自閉症スペクトラム「障害」については上海さんのレスに少し書きましたが、水原さんの場合はそこに含まれなくてちょっと残念、というところでしょうか。ただ、全盛期しっかりした分業システムの下で演出だけするというならともかく、独立プロなどの場合はある程度人間関係を調整することも仕事に入って来そうに思えますので、やはりコミュニュケーション障害を持っている人には難しい仕事のように見えるんですが。 > でも「緑色の部屋」は偽装されたパラノイア映画ではあります。かつ強迫的人格障害。あの主人公は「死者への愛」という崇高な自分の道徳の影で、その実失恋男の逆恨みパラノイア、かつミソジニーの物語ですからねぇ…。「自分は演技がヘタだ」と自覚していたトリュフォーがなぜ自分で演じたのかが、興味深いところです。「失恋男の逆恨みパラノイア」を脚本段階で表層的な部分から排除したのは、トリュフォー自身ですから。 > 下手にうまい俳優だったら、死者への愛」という崇高な倫理が本気のものに見えてしまうことを嫌ったんじゃないかな? しかし怖い話題ですねえ、これ。ミソジニーかつ男の虫のいい救済願望の物語でもあるのででしょう(笑)。自己防衛のために付け加えておきますが、私が純粋に好きな映画は「恋愛日記」のほうでして、「緑色の部屋」が好きなのは父と最期にロードショーで一緒に見た映画だったから+色彩設計とライティングのせいです。予告編を見てこれは絶対見せるべきだと思って、岩波ホールまで引っ張っていったんですが、案の定大当たりだったようで。ナタリー・バイがヒロインを演じているというが大きかったんでしょうね(笑)。結末はどうあれ、トリュフォーが不器用に見えれば見えるほど観客の男性は癒されますよ。 > >実際に自閉症者を描いていると言ってしまっても差し支えのないトリュフォーの映画は「野生の少年」です。これなんか、親から捨てられた自閉症児の療育の記録を描いた映画として見られたところで別に自閉症協会も困らないと思うのですけれど。 > うーん、トリュフォー自身は教育=情報伝達の問題に興味があったみたいで、本人が宣伝目的で喧伝して山田先生が増幅させてしまった愛情的な部分は、実はそれを出さないために「ヘタな役者」の自分が演じたらしいんですけど(実際、あの医者役の方が少年よりもよっぽど「自閉症」的)。 教育=情報伝達の問題こそが自閉症を巡る問題で一番大切なのですよ。こういうことを知ると、トリュフォーが自分のことを自閉症者だと思っていたというのはまず間違いのないことだろうと確信してしまいます(笑)。 > (実際、あの医者役の方が少年よりもよっぽど「自閉症」的)。 映画関係者が言うところの「自閉症」的っていうのはああいう感じなんですか。私から見るとトリュフォーの医師役はアスペ的ではありますが、断言しにくい。少年の方は極軽い自閉症も持っていて知能も高いけれど、声帯が切れているために言葉が上手く出ないのかな?という感じですね。少年の動作に関してはよく研究してあるという印象を持ちました。(あの症状の出方、言葉の教え方、というのはその部分だけ教材ビデオに使えそうなほど典型的、つ〜か、最新の教育プログラムでもあんなに出来のいい映像は見たことないので関係者は大いに参考にして欲しい。ただ、物置に閉じこめるところだけはあんまり懲罰的効果はなさそうなんで、違和感がありました。あれで効果がある、ということはあの少年本当に元々頭が良かった上に、親に捨てられたと言ってもひどい虐待は受けてなかったんだろうな、というところまで映像を見ただけで類推が出来ちゃう。) そういえば、70年代〜80年代のアメリカ映画は「自閉症」的だという評価が一時日本ではやったという話を聞いたことがあるのですが。(例としては「タクシードライバー」・「地獄の黙示録」など。アメリカ映画じゃないけれど、私の好きなニコラス・ローグなんて「ジェラシー」以外はほとんどそう。) でも、この()のなかにタイトルが上がっている映画はどちらかというと「自閉症」というスペクトルではなくて精神分析の視点からとらえた方が多分わかりやすい映画だろうと思います。逆に、ニコラス・ローグが高機能自閉症でした、といわれれば私は素直に信じますけれど。 > 「自閉症者にありがちな物の捉え方」ゆえに「愛する人を何らかのかたちで失う」ハメになって、しかもそれをトラウマとしてたぶんにパラノイアチックなドツボに陥って行く人間を描いてる、ってのじゃダメ? まさにその通りだと思うのですが、そのパラノイアチックなドツボっていうのが「緑色の部屋」の場合は、自閉症者が陥る物としては念入りで病的でありすぎる様な気がするんですよね。「アデルの恋の物語」なんかもそうです。 > もっとも、「自閉症者にありがちな物の捉え方」であろう部分が、僕には単に自意識過剰でクソ真面目で、要するに不器用であるだけにしか見えないんですけど… まさにそんなものだろうとおもいます。でも、自意識過剰なのではなく他人が見えていないだけだと思う。他人との関わりのなかで強制的に気づかざるを得ない場合以外は20代でようやく気づくケースが多いんじゃないかと手記などを読むと思います。 |
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