| 31783 | 返信 | Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって | URL | にょろ | 2004/12/29 16:11 | |
| 水原文人さん > > > 怠惰以外のなにものでもありません。最大の怠惰は、自らの怠惰さに気がつかないことですから。 > > > > 社会環境と関連するとわたしは考えています。 > > それは決して無視しませんが、しかしそこにのみ全責任を押し付けるのは…。 問いの立て方があやまっているため責任の有無という二項対立の軸にとらわれてしまうのではないかと思います。ご自分の民主主義像を絶対化してしまうがゆえに、それにそぐわないもの、バカや責任や罪がみえてしまうのではないですか。 > たとえば最近、高松宮邸近辺や、昨日は皇居で、いろいろな方のお話を撮影しております。「天皇の戦争責任」についてはみなさん否定なさいますが、それは決して日本の戦争責任を正当化する議論ではありませんでした。「ではだれのせいなんでしょうね?」とお聞きすると、お答えはおしなべて「しょうがなかった」的なものです。 上記のやりとりには誰?という問いに対する答えがあるとはおもえず、文中にかかれていない雰囲気や前後の文脈などから暗黙の了解事項のあるいは追加質問でもあったのかとおもい、()で憶測、確認させていただきました。以下につづく文を読んでものデータも時間軸もわかりませんし、水原さんの意見とまぜあわさっており、なんともいいようがありません。取材中のエピソードに託して水原さんの大衆の戦争責任についての物語を述べているとします。 > そのような暗黙の了解があるかどうかは、僕はその方たちでないから分かりません。 事前に確認していれば暗黙ではないわけですからすから当然でしょう。 当事者の片方、水原さんの了解を聞いているということです。 > 一方で「社会環境と関連」にのみ精神的・知的な怠惰としての権威主義、「「正しく」て「権威」で、しかも「普通」でありたい」人々の問題の原因を求めてしまうのと同様の無責任ではないかとも考えます それは水原さんの不満を他人に託して映し出しているだけではないでしょうか。 > なぜ曖昧にするかと言えば、蓋然性の高い推測はやはり「自分たちを含む日本人全体」の責任であるから、という結論がそこに出て来ざるを得ないから、だとは思います。 物語に蓋然性は意味をもたないとおもいます、荒唐無稽でも結構です。 曖昧にするのではなく、曖昧にしかならないということも考えられます。 たとえば家永三郎氏の「一般国民の戦争責任」[1]には統治者の責任は当然として、被治者=一般国民=「戦争を企画・実行・推進する権限を有する国家機関の地位にあった人々を除く、被治者の地位にあった国民という意味である。」の戦争責任について述べたものです。家永はこの論考において、「一般国民」をさらに財閥、独占資本関係者、情報産業経営者、知識人、文化人、ジャーナリスト、退役軍人、退職した高官などに分け、「平凡な一般大衆と同一視できない」としています。反体制社会運動家についても彼らの運動が有効であったかどうかにおいて責任を問題にしています。しかし、このような分け方の限界、つまり、「一口に一般国民といっても、その社会的なあり方が多様をきわめているから、その差異にまで立ち入って責任の有無程度を精細に論ずることは容易ではなく」なり、妥協し、典型的事例にのみふれることになります。 本書のはしがきに拠れば、大正デモクラシー期に成長したため日米国力の格差を知っており、両国があらそえば、その結末も氏は予測できたといいます。しかし、その彼をして「私には中国との戦争の実態をありのままに認識するための情報源が欠けていたので、私は中国との戦争が何を意味するかほとんど理解できなかった。柳条湖の鉄道爆破(一九三一年)が日本軍の謀略によることも、南京大虐殺(一九三七年)のあったことも、戦後の連合軍の極東国際軍事裁判所の法廷での審理の報道に接するまでしらなかったほどに無知であったのである。」という有様でした。 したがって、「常に心身両面にわたり権力の統制下におかれていた大多数の国民には、国家権力との関係から見れば、被害者の側面が大きいのは、いうまでもない」とはしますが、それでも「日本人(国籍上の日本国民ではなく、植民地での被支配民族に対して支配民族に属していた日本人)であるかぎり、日本国家の加害行為に進んで加わり、あるいはそれを阻止できなかった責任がある」とし一般国民の戦争責任を明言します。 一般国民の戦争責任を認識しながらも、国民の責任の個々の程度については記述することが困難であり、「誰?」という問いに曖昧な答えで返すのも仕方ないでしょう。誰を指定したとたんにそれは嘘になる。超越して「しょうがない」的な発言もわたしは納得できますし、「私にはよく分からないですよ。言いたいこともあるけれど、やはり言葉にならないし」などは誠実に回答しようとおもえば十分考えられます。 > 難解な科学的な用語(その実、まだその作用が完全に実証されたとは言いがたいし、使っている本人が本当に理解し納得しているかどうかはさらに怪しい、いわゆる脳内麻薬とか言われる物質の具体的名称)を出すことで精神障害的な症状の「原因」を説明することが、実はアニミズムの神様の名前を科学用語に置き換えただけで、なんとくなく「科学」という現代的な信仰の枠内では納得できそうな響きを持ってしまうこととよく似た言語行為とも言えそうです。 心理的な側面、社会的な側面、論理的な側面、つまり情と利と理はけじめをつけなければなりません。それを混同すると不都合が生じたり、錯誤が生じます。三要素のうちどれを優先するかは状況に応じて判断しなくてはなりません。科学においてもそれは同様でしょう。たとえば、実証による帰納的手続きの妥当性を論証する方法はないとしても、心理的にはそれで納得できるし、社会面において利用することもできるということです。 > つまり「社会環境との関連」とは言ってみるが、ではその社会環境がどのように醸成され、それは誰の責任であるかといえば、とたんに曖昧になる。 社会を記述しつくすことは不可能でしょう。しかし、社会環境がどのように醸成されたのか、なぜそうなったのか、資料をあたられればよろしいのではないですか。しかし、上記、家永三郎氏も困難であることを認めているように、その方向に解があるとはわたしは考えません。 > しかし本当の意味での歴史的・社会的あるいは倫理的な責任の問題となると、天皇本人に実際の決定権がなかったことは、おそらくあらゆる日本人にとっての暗黙の了解なのではないでしょうか? わかりません。 > 逆ににょろさんにお尋ねしますが、「社会環境との関連」を理由に僕が「バカ」とあえて挑発的な呼称を用いている類いの人間の存在を説明しようとしている(言い換えれば、彼ら自身の責任ではない、という解釈でよろしいですね?)とき、 ではその「社会環境」は誰の責任でそのような困ったものになってしまったのでしょうか? 誰の責任でもないでしょう。また、困ったものともとらえていません。 > > 民主主義という理念を実現する社会として、個々人に責めを背負わすほど間口の広い社会が現状の「日本」にあるとは考えていません。 > > ではその「日本」は誰が作って来たのでしょうか? 官僚でしょう。 > 少なくとも戦後約60年は制度としては民主主義ですし、実は戦争中の一時期を除けば大正時代からかなり制度・社会構造としては民主的になっていたはずです。 はずです、では答えようがありませんが、制度がどうであれ、構造がどうであれ、実情に合わせた意味をもっていなかっただけでしょう。 > > > 20世紀はそれが繰り返し実証された時代でもあり、少しはその体験から学習しなければ人類の未来もないと思います。 > > > > 「日本」においては、その体験はまだないと考えています。 > > 太平洋戦争に至った時代がそれだったと考えますが。 違うでしょう。 また、失敗から学んで人類の未来を築く的な考え方は発展信仰のあらわれだろうとおもいます。誤りから学ぶことができ、反映させたつもりでも、未来につながるかどうかは不明です。 > > > 根本にあるのは理解不能な絶対神に対する人間の限界の自覚なんですから。 > > > > 信仰は…正直、わたしにはわからないのです。 > > 上記は信仰と言う心理の問題ではなく、教義を字面通りに読んだらそう書いてあるという話なんですが… 教義、経典は信仰を助けるものであり、無信仰者が字面通りによんで根本をえるというのは無理でしょう。 > > > そうでしょうか? ナチズムにしても日本の軍国主義にしても共産主義国家の暴走にしても、自我の確立していないコミュニケーション弱者な「大衆」が集団催眠的な状況に陥ったことが大きかったように僕には思えますが。 > > > > これらはコミュニケーション弱者の問題ではなく、社会的な問題、たとえば、情報統制の問題ではないかとおもいます。 > 上記の通り、それは一元的すぎる解釈であり、 「たとえば」ですから一元的であり、かつ多元的な見方の一つにすぎません。 また、社会的な問題は多様な局面、様相をもっており、それをもってしても一元的とはいえないとおもいます。 > 「大衆」を免罪するための言い逃れの側面は否定できないと思います。 「大衆」を断罪したい水原さんの願望がそう見せているだけでしょう。 > ナチズムの直前までドイツはヴァイマール共和国時代であり、表現の自由もさまざまな情報もあったのです。 あったとおもうのは水原さんであり、ヴァイマール共和国に生きた人びと個々人がそのように受け取ったかどうかは論証不能です。 > なのに90%以上のドイツ国民がナチスに投票したのはなぜか? ヴァイマール共和国についてはよく存じ上げませんが、いつの選挙のことですか > やはり「大衆」個々人の問題は無視できません。 わたしは「コミュニケーション弱者」を「大衆」だとは考えていません。 > > >> 「他者性の排除ということで言うと、議論にもいろんな他者性の排除があり得るわけで、いまここで出ている恐怖の悪循環のような状態って、結局違うものとの共存があり得るとは考えないで、違うものは排除するということに向かっていくわけでしょう。違うものはなんだか分からないから、パラノイアが増殖するわけですね。」[2]というのが水原さんの状態かもしれません。 > > > 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」なのは、我々自身もいつそこに陥るかどうか分からない「バカ」ないし「怠惰」である状態に陥った人間たちである、というように僕は主張しているのですが…。 > > > > 淘汰するということは排除ではないのでしょうか。 > > しかし僕は淘汰ないし排除する対象を特定してませんよ。自らもそこに陥る危険性だって常にあるのに、そこまで偉そうには言えませんし、集団を特定した瞬間にポルポト君になり、紅衛兵化することになるでしょう。 対象となる集団を特定しようがしまいが、水原さんは「人間たち」を対象に淘汰されるべきと書いているでしょう。 繰り返しになりますが、「自らもそこに陥る危険性」もあり、そのときに淘汰されたくないのであれば淘汰すべきなどと書く必要はないでしょう。 > > > 民主主義は失敗したら大変な災厄をもたらしかねません。 > > > > そうでしょう。人間の作り出したものですから失敗はつきものです。大変な厄災もありうるでしょうし、その覚悟が必要でしょう。リスクが背負えないならば、『1984年』的な「よくできた」全体主義をめざす方が楽じゃないでしょうか。 > > 全体主義はどんなに「よくできて」いてもできの悪い、失敗した民主主義(誤解された民主主義)でしかありません。それが巨大な災厄をもたらすのだと言っているのですが… 全体主義が誤解された民主主義とはどういうことでしょうか。 > > > 民主主義のよさはむしろ多様な他者の意見を議論によって集団的な意識のなかに取り込んで行く可能性を持っていることでしょう。 > > > > その可能性が実現してしまったら、それは全体主義ではないのですか? > > いいえ。逆です。 > > > 「意識のなかに取り込む」という部分を穿ってみてしまっているのかもしれませんが、他者をわかる、理解するということでしょうか。耳を傾けることやわかろうとする、理解しようとすることはできるかもしれません(するべきでしょう)が、わかる、理解できるならそれは他者ではないでしょう。 > > 「理解」にはしょせん、個々の主体の理解しかあり得ません。 物自体である他者の概念からすれば、他者を「理解」することはできません。 理解しようとする行為、たとえば問うことはできますが、「個々の主体の理解」はできません。現象をみて、仮説、物語をつくり、それらを理解することはできますが、それはもはや他者を理解したのではありません。 > そのときに自分の限界性を自覚した上で異なった意見や見解をどう「理解」するかが、民主主義の成功か失敗かを決めるのではないでしょうか? 「自分の限界性を自覚」(自覚している自分という参照不能な構造を持つ無限後退の世界でありその先には発狂がまっているかもしれません)という自己に閉じた世界を正当化し、異見を「理解」するのではおたがいそれぞれだよねぇという相対主義にすぎません。ソクラテスのごとく知らないことを知る、合意に達することへの信念(内なる確信)にもとづく多元性の開かれた世界を目指すことが必要でしょう。以前にも述べたように、民主主義は失敗への可能性、可謬性を活かすための主義とわたしはとらえています。人の判断力が有限であり、誤りが含まれていることから、民主主義における判断は常に失敗しつづけているともいえるでしょう。それゆえ、後世の「再審」、少数意見に常に開かれてつづけているべきであり、この弛まない誤り排除の機能こそ、絶対的指導者のもと同一化と無謬性にいそしむ全体主義との相違であろうと考えます。ただし、民主主義は人間社会を統べる枠組み、理念のひとつにすぎず、民主主義のために人は在るわけではありません。民主主義は全体主義への移行をさまたげません。それは民主主義が失敗したわけではなく、人々が、もはや失敗に耐えられない状況のときには民主主義を廃棄することを許しています。 > > > これはある特定の集団を指しているものでしょうか? 僕自身も含め誰しもこの状態に陥る危険性はあります。「そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」とは、そういうことでもあります。 > > > 他人の精神の奥深くまで関われると考えることはできませんから。 > > だからこそバカにみえた側で対処するしかないと考えます。 > 「 他人の精神の奥深くまで関われる」ことが不可能である以上、本人の意思がない限り「対処」は不可能です。 「みえた側で対処するしかない」ということは相手を処置するということではありません。したがって以下は不要です。 > > > 「教育」できたような幻想に浸ることはできるかも知れませんが、それはただその当人にとって自分が「教祖」とか「権威」の存在になるだけの話である可能性が高く、つまり権威主義的な意識の構造それ自体はなにも変わっていないことになります > > バカにみえた側でバカ当人を「教育」するということですか? > > いいえ、バカ当人が自分のバカさ加減を自覚すること以外は、結局権威主義の権威の主体がスゲ変わるだけでバカの再生産になるだけだと言っています。それに「他人の精神の奥深くまで関われる」、つまり「自分はバカを教育できる」との傲慢な自負を持ってしまうこと自体が、バカです。 > 周囲の環境からの刺激で人間はいくらでも変わることはありますが、その受け手という主体の方が“開いて”いないとなんの意味もありません。 [1]:家永三郎『戦争責任』<岩波書店>収録 [2]:金子勝、アンドリュー=デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』<筑摩書房>p.334 |
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