31802 返信 Re:自衛隊イラク派遣が一年延長だって URL 水原文人 2004/12/31 03:32
> > > > 怠惰以外のなにものでもありません。最大の怠惰は、自らの怠惰さに気がつかないことですから。
> > >
> > >  社会環境と関連するとわたしは考えています。
> >
> > それは決して無視しませんが、しかしそこにのみ全責任を押し付けるのは…。
>
>  問いの立て方があやまっているため責任の有無という二項対立の軸にとらわれてしまうのではないかと思います。ご自分の民主主義像を絶対化してしまうがゆえに、それにそぐわないもの、バカや責任や罪がみえてしまうのではないですか。

僕が根拠にしているのは、極めてベタな民主主義の基本的定義でしかありませんよ(苦笑)。

> > たとえば最近、高松宮邸近辺や、昨日は皇居で、いろいろな方のお話を撮影しております。「天皇の戦争責任」についてはみなさん否定なさいますが、それは決して日本の戦争責任を正当化する議論ではありませんでした。「ではだれのせいなんでしょうね?」とお聞きすると、お答えはおしなべて「しょうがなかった」的なものです。
>  上記のやりとりには誰?という問いに対する答えがあるとはおもえず、文中にかかれていない雰囲気や前後の文脈などから暗黙の了解事項のあるいは追加質問でもあったのかとおもい、()で憶測、確認させていただきました。以下につづく文を読んでものデータも時間軸もわかりませんし、水原さんの意見とまぜあわさっており、なんともいいようがありません。

あのですねぇ…。インタビューというのは対話であり、聞き手によって答えが左右されるのは当たり前のことなんですが?

> 取材中のエピソードに託して水原さんの大衆の戦争責任についての物語を述べているとします。

…と読解するのは、「大衆の戦争責任」をアレルギー的に拒絶しようとするにょろさんの求める「物語」に反しているからなでしょうね。僕はただ「誰のせいなんでしょうね」と聞いただけで(この質問自体が僕の思考の産物であることに異論の余地はありません)、その答えが「しょうがなかったんですよ」「人間ですから」だったというだけに過ぎません。あの方たちが「誰のせい」であったかは決して言わない、ということしか僕は言っていませんよ。そして「戦争責任」というそもそもの対話の文脈からすれば、それを「責任の所在」があいまいになていると解釈するのは、極めて妥当な話である。ただそれだけなんですが?

> > そのような暗黙の了解があるかどうかは、僕はその方たちでないから分かりません。
>
>  事前に確認していれば暗黙ではないわけですからすから当然でしょう。
> 当事者の片方、水原さんの了解を聞いているということです。

他人様からインタビューで聞かせて頂いたことに対してそうバカ単純な「了解」なり「結論」を決めつけるほど、私は傲慢な人間ではありません。それこそ事前の「了解」(つまり先入観)に見合った答えしか求めていないなら、インタビューなんてやる必要がありませんし、ドキュメンタリーなんて作りませんよ。社会に関わる表現行為というのは、世界を(そして自分を)より深く理解しようとする欲望からしか生まれて来ないのですから。

> > 一方で「社会環境と関連」にのみ精神的・知的な怠惰としての権威主義、「「正しく」て「権威」で、しかも「普通」でありたい」人々の問題の原因を求めてしまうのと同様の無責任ではないかとも考えます
>
>  それは水原さんの不満を他人に託して映し出しているだけではないでしょうか。

現に責任の所在が曖昧で、個々人の自己選択権とそこから生じる責任が無視されていることに変わりはありません。「社会環境」とおっしゃいますが、その社会を作っているのは我々一人一人であるはずですーーというのは民主主義の基本中の基本。

> > なぜ曖昧にするかと言えば、蓋然性の高い推測はやはり「自分たちを含む日本人全体」の責任であるから、という結論がそこに出て来ざるを得ないから、だとは思います。
>
>  物語に蓋然性は意味をもたないとおもいます、荒唐無稽でも結構です。

すみませんが、なにをおっしゃっているのかさっぱり意味がわかりません。

>  曖昧にするのではなく、曖昧にしかならないということも考えられます。

なぜ「曖昧にしかならない」のかを問うております。

>  たとえば家永三郎氏の「一般国民の戦争責任」[1]には統治者の責任は当然として、被治者=一般国民=「戦争を企画・実行・推進する権限を有する国家機関の地位にあった人々を除く、被治者の地位にあった国民という意味である。」の戦争責任について述べたものです。家永はこの論考において、「一般国民」をさらに財閥、独占資本関係者、情報産業経営者、知識人、文化人、ジャーナリスト、退役軍人、退職した高官などに分け、「平凡な一般大衆と同一視できない」としています。反体制社会運動家についても彼らの運動が有効であったかどうかにおいて責任を問題にしています。しかし、このような分け方の限界、つまり、「一口に一般国民といっても、その社会的なあり方が多様をきわめているから、その差異にまで立ち入って責任の有無程度を精細に論ずることは容易ではなく」なり、妥協し、典型的事例にのみふれることになります。

僕が言っているのは個々人が自分がその一部である歴史に対する責任の問題です。そしてその「個々人」には僕自身がもし仮に当時生きていたなら、当然自分自身も無論含まれます。現代の日本社会の問題に関して言えば、僕自身が倫理的・歴史的にその一部です。どうか論点をズラすのはやめていただけますか?

> > つまり「社会環境との関連」とは言ってみるが、ではその社会環境がどのように醸成され、それは誰の責任であるかといえば、とたんに曖昧になる。
>
>  社会を記述しつくすことは不可能でしょう。しかし、社会環境がどのように醸成されたのか、なぜそうなったのか、資料をあたられればよろしいのではないですか。

この議論は資料云々の話ではなく、個々人の意識や倫理のあり方の問題だったと思いますが?

> > 逆ににょろさんにお尋ねしますが、「社会環境との関連」を理由に僕が「バカ」とあえて挑発的な呼称を用いている類いの人間の存在を説明しようとしている(言い換えれば、彼ら自身の責任ではない、という解釈でよろしいですね?)とき、 ではその「社会環境」は誰の責任でそのような困ったものになってしまったのでしょうか?
>  誰の責任でもないでしょう。また、困ったものともとらえていません。

ならばにょろさんのように「バカにみえた側で対処する」とか言い張って「バカ」を教育しようとする(説伏しようとする?)ことを主張する必要すらないはずですね。「権威主義者」の「コミュニケーション弱者」は、彼らの好きなままに放置しておけばそれでいいのでしょう。ならばなぜこの議論を始められたのか、不可解です。

> > > 民主主義という理念を実現する社会として、個々人に責めを背負わすほど間口の広い社会が現状の「日本」にあるとは考えていません。
> >
> > ではその「日本」は誰が作って来たのでしょうか? 
>
>  官僚でしょう。

そう来るだろうと思いました。ではその官僚支配を許して来たのは誰ですか?

> > 少なくとも戦後約60年は制度としては民主主義ですし、実は戦争中の一時期を除けば大正時代からかなり制度・社会構造としては民主的になっていたはずです。
>
>  はずです、では答えようがありませんが、制度がどうであれ、構造がどうであれ、実情に合わせた意味をもっていなかっただけでしょう。

現に持っていましたよ。対象から昭和初期辺りの日本の文芸でも多少はお読みになってみてはいかがでしょうか?

> > > > 20世紀はそれが繰り返し実証された時代でもあり、少しはその体験から学習しなければ人類の未来もないと思います。
> > >
> > >  「日本」においては、その体験はまだないと考えています。
> >
> > 太平洋戦争に至った時代がそれだったと考えますが。
>
>  違うでしょう。

そう断言する根拠は?

>  また、失敗から学んで人類の未来を築く的な考え方は発展信仰のあらわれだろうとおもいます。誤りから学ぶことができ、反映させたつもりでも、未来につながるかどうかは不明です。

だからこの議論は個々人の意識と倫理の問題についてだったはずですが? つまり個々人の向上心を否定なさるわけですか?

> > > > 根本にあるのは理解不能な絶対神に対する人間の限界の自覚なんですから。
> > >
> > >  信仰は…正直、わたしにはわからないのです。
> >
> > 上記は信仰と言う心理の問題ではなく、教義を字面通りに読んだらそう書いてあるという話なんですが…
>
>  教義、経典は信仰を助けるものであり、無信仰者が字面通りによんで根本をえるというのは無理でしょう。

あのですねぇ…。ユダヤ=キリスト教的宗教は「初めに聖典ありき」宗教でして、信仰は常に聖典の解釈行為であることが運命づけられているのですが? ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、どれもそうですよ。その宗教観においては、聖典に反すること=神に反すること、です。

もっとも、ときどきその厳しさに耐えられなくなって神秘主義とか「原理主義」に走る人々が出て来るのが、この種の宗教の問題なのですが。教義それ自体はシステマティックなまでに「神」とその「聖典」以外が権威になることを否定しているので、にょろさんのように限界ある自分に耐えられずにどこかで絶対的なものを希求する人たちには我慢ならなくなるのでしょう。

それは近代科学も、同様の傾向があります。

> > > > そうでしょうか? ナチズムにしても日本の軍国主義にしても共産主義国家の暴走にしても、自我の確立していないコミュニケーション弱者な「大衆」が集団催眠的な状況に陥ったことが大きかったように僕には思えますが。
> > >
> > >  これらはコミュニケーション弱者の問題ではなく、社会的な問題、たとえば、情報統制の問題ではないかとおもいます。
> > 上記の通り、それは一元的すぎる解釈であり、
>
> 「たとえば」ですから一元的であり、かつ多元的な見方の一つにすぎません。
> また、社会的な問題は多様な局面、様相をもっており、それをもってしても一元的とはいえないとおもいます。

多様な局面・様相を持っている問題の原因を「社会的な問題、たとえば、情報統制の問題」だけに帰結するのが「一元的」でなくてなんなのでしょうか?

> > 「大衆」を免罪するための言い逃れの側面は否定できないと思います。
>
>  「大衆」を断罪したい水原さんの願望がそう見せているだけでしょう。

あのですねぇ…。僕自身が「大衆」の一員です。僕が自分を断罪したいマゾヒストだとでもおっしゃりたいのなら話は別ですが? 僕は断罪なんてどこでも主張してませんよ。ただ個々人が自分自身の社会に対する責任と自分自身の生き方をめぐる責任を自覚すべきだ、と言っているだけなんですが?

> > ナチズムの直前までドイツはヴァイマール共和国時代であり、表現の自由もさまざまな情報もあったのです。
>
>  あったとおもうのは水原さんであり、ヴァイマール共和国に生きた人びと個々人がそのように受け取ったかどうかは論証不能です。

せめてヴァイマール共和国時代に生み出された(その後ナチスによって「退廃芸術」として断罪され、その行為が圧倒的な支持を得た)さまざまな芸術表現でも鑑賞してからそのようにおっしゃって頂けませんか? 20年代のドイツ文化は、それなしに20世紀の文化が語れないほど重要かつ、20世紀において文化的・芸術的に最も豊かな時代だったのですが、そのほとんどは大衆文化でもあったのですよ。

> > なのに90%以上のドイツ国民がナチスに投票したのはなぜか? 
>
>  ヴァイマール共和国についてはよく存じ上げませんが、いつの選挙のことですか

1933年にナチスがまったく完全に合法的に政権についた選挙のことです。

> > やはり「大衆」個々人の問題は無視できません。
>
>  わたしは「コミュニケーション弱者」を「大衆」だとは考えていません。

僕もそうは考えていません。たまたま「大衆」が「コミュニケーション弱者」として行動する時代が、ヴァイマール共和国末期のドイツや、太平洋戦争に突入しようとしていた時期の日本、そして今の日本にあった、というだけの話です。

もっとも「コミュニケーション弱者」自体がにょろさんの造語ではありまして、にょろさんがそれをどう定義しているのかよく分かりませんが。とりあえず僕が「バカ」と言っていたのと同じ意味だと解釈させて頂いております。

> > > >> 「他者性の排除ということで言うと、議論にもいろんな他者性の排除があり得るわけで、いまここで出ている恐怖の悪循環のような状態って、結局違うものとの共存があり得るとは考えないで、違うものは排除するということに向かっていくわけでしょう。違うものはなんだか分からないから、パラノイアが増殖するわけですね。」[2]というのが水原さんの状態かもしれません。
> > > > 「民主主義にとっては、ガンであり邪魔者であり淘汰されるべき」なのは、我々自身もいつそこに陥るかどうか分からない「バカ」ないし「怠惰」である状態に陥った人間たちである、というように僕は主張しているのですが…。
> > >
> > >  淘汰するということは排除ではないのでしょうか。
> >
> > しかし僕は淘汰ないし排除する対象を特定してませんよ。自らもそこに陥る危険性だって常にあるのに、そこまで偉そうには言えませんし、集団を特定した瞬間にポルポト君になり、紅衛兵化することになるでしょう。
>
>  対象となる集団を特定しようがしまいが、水原さんは「人間たち」を対象に淘汰されるべきと書いているでしょう。

特定しなければ「人間たち」として具体的に淘汰ないし排除することなんてできませんよ。そして「バカ」である自分は、その状態にある自分を克服しようと少なくとも努力すべきなのが人間である、としか僕は言っていませんが?

>  繰り返しになりますが、「自らもそこに陥る危険性」もあり、そのときに淘汰されたくないのであれば淘汰すべきなどと書く必要はないでしょう。

御自分でもなにをお書きになっているのか理解できなくなっておいでではありませんか? 少なくとも僕にとっては、にょろさんの議論が極めて混乱していて何をおっしゃっているのか理解不能になりつつあります。

「怠惰」である故に淘汰されるのであれば、「怠惰」でないように努力すればいいだけの話です。努力自体は大変ですが、努力しようと決意することはとても簡単です。

> > > > 民主主義は失敗したら大変な災厄をもたらしかねません。
> > >
> > >  そうでしょう。人間の作り出したものですから失敗はつきものです。大変な厄災もありうるでしょうし、その覚悟が必要でしょう。リスクが背負えないならば、『1984年』的な「よくできた」全体主義をめざす方が楽じゃないでしょうか。
> >
> > 全体主義はどんなに「よくできて」いてもできの悪い、失敗した民主主義(誤解された民主主義)でしかありません。それが巨大な災厄をもたらすのだと言っているのですが…
>
>   全体主義が誤解された民主主義とはどういうことでしょうか。

多数派の欲望が「正義」であるかのように誤解することです。

> > > > 民主主義のよさはむしろ多様な他者の意見を議論によって集団的な意識のなかに取り込んで行く可能性を持っていることでしょう。
> > >
> > >  その可能性が実現してしまったら、それは全体主義ではないのですか?
> >
> > いいえ。逆です。
> >
> > >  「意識のなかに取り込む」という部分を穿ってみてしまっているのかもしれませんが、他者をわかる、理解するということでしょうか。耳を傾けることやわかろうとする、理解しようとすることはできるかもしれません(するべきでしょう)が、わかる、理解できるならそれは他者ではないでしょう。
> >
> > 「理解」にはしょせん、個々の主体の理解しかあり得ません。
>
>  物自体である他者の概念からすれば、他者を「理解」することはできません。

なんのために人間はコミュニケーション能力を持っているのでしょうか? 他者を「理解」することはまったく可能ですよ。しょせん我々にとって、それぞれに「自分自身」以外は全部「他者」でしかありません。それでも人間は社会を構成し、他者と常に関わりながら生きて行きますし、他者と関わることでより世界を知り、自分自身を理解していきます。

> 理解しようとする行為、たとえば問うことはできますが、「個々の主体の理解」はできません。現象をみて、仮説、物語をつくり、それらを理解することはできますが、それはもはや他者を理解したのではありません。

それ以外に我々の「理解」はありえません。宗教的な恍惚による「同一感」の幻想にでも陶酔しない限り、おっしゃっているようなことは不可能ですよ(というかそれですら「幻想」なんだから、可能だとは言えない)。

> > そのときに自分の限界性を自覚した上で異なった意見や見解をどう「理解」するかが、民主主義の成功か失敗かを決めるのではないでしょうか?
>
>  「自分の限界性を自覚」(自覚している自分という参照不能な構造を持つ無限後退の世界でありその先には発狂がまっているかもしれません)という自己に閉じた世界を正当化し、

弁証法って、知りませんか? 「自分の限界性を自覚」することでしか、我々はその「自分の限界性」を超えることはできないのですよ。

> 異見を「理解」するのではおたがいそれぞれだよねぇという相対主義にすぎません。

全然違いますね。というかまるで真逆です。しょせん自分自身の「理解」しかないという限界を自覚しつつ、自分の理解力を高めることを常に意識し、努力しなければ「バカ」になるよ、っていう話をしてるんですから。どうやったらこうも誤読できるのかは、興味深いところですね。

> 民主主義は失敗への可能性、可謬性を活かすための主義とわたしはとらえています。

そう捉えるのは結構ですが、失敗したら社会が破綻し、戦争になったりするわけです。その災厄に対し民主主義社会の一員としてどう責任を自らに負うおつもりなんでしょうか?

> 人の判断力が有限であり、誤りが含まれていることから、民主主義における判断は常に失敗しつづけているともいえるでしょう。

だからこそ議論によってより深く理解し、より正しい判断を求めようというのが、民主主義なんですが?

> それゆえ、後世の「再審」、少数意見に常に開かれてつづけているべきであり、この弛まない誤り排除の機能こそ、絶対的指導者のもと同一化と無謬性にいそしむ全体主義との相違であろうと考えます。ただし、民主主義は人間社会を統べる枠組み、理念のひとつにすぎず、民主主義のために人は在るわけではありません。民主主義は全体主義への移行をさまたげません。それは民主主義が失敗したわけではなく、人々が、もはや失敗に耐えられない状況のときには民主主義を廃棄することを許しています。

許してませんよ。だいたいユダヤ=キリスト教文化圏のドグマは、それに反することを許さない厳然たる性質なものです。そして近代民主主義もまたユダヤ=キリスト教文化圏の産物たるドグマです。

> > > > これはある特定の集団を指しているものでしょうか? 僕自身も含め誰しもこの状態に陥る危険性はあります。「そして本当のバカとは、自らのバカさ加減を自覚できない人のことである」とは、そういうことでもあります。
> > > > 他人の精神の奥深くまで関われると考えることはできませんから。
> > >  だからこそバカにみえた側で対処するしかないと考えます。
> > 「 他人の精神の奥深くまで関われる」ことが不可能である以上、本人の意思がない限り「対処」は不可能です。
>
>  「みえた側で対処するしかない」ということは相手を処置するということではありません。したがって以下は不要です。

誰が「相手を処置する」なんてことを主張してるんでしょうか? 僕は「対処」できるのはその当人以外にはいない、と言っているんですが? そのどこから「相手を処置する」なんて言葉が出て来るのか自体が、不思議です。たぶんにょろさんの自己内堂々巡りなのでしょうが…。

というわけで、まったく不要ではありませんね。もう一度良くお読み返し下さい。なにかの役には立つかも知れません。御自分がなにから逃避するために自己内堂々巡りを続けておいでなのかも、もしかしたら自覚できるかも知れませんね。

> > 「教育」できたような幻想に浸ることはできるかも知れませんが、それはただその当人にとって自分が「教祖」とか「権威」の存在になるだけの話である可能性が高く、つまり権威主義的な意識の構造それ自体はなにも変わっていないことになります
>  バカにみえた側でバカ当人を「教育」するということですか?

いいえ、バカ当人が自分のバカさ加減を自覚すること以外は、結局権威主義の権威の主体がスゲ変わるだけでバカの再生産になるだけだと言っています。それに「他人の精神の奥深くまで関われる」、つまり「自分はバカを教育できる」との傲慢な自負を持ってしまうこと自体が、バカです

周囲の環境からの刺激で人間はいくらでも変わることはありますが、その受け手という主体の方が“開いて”いないとなんの意味もありません。