31895 返信 Re:あけましておめでとうございます URL 水原文人@パラノイア 2005/01/05 12:40
ところで過日、「武蔵の一住人さん」とお名前間違えてしまってまして、すみません。「住民」さんでしたね。

> > 「嘘」という言葉を使うにはいささか抵抗は感じます。「嘘」と言うとなにかそれに対して「真実」が存在するかのような印象がありますから。そして天皇制に限らず、政治的な体制やそれを象徴するもの、民族的アイデンティティの基盤のひとつとなる歴史伝統意識は、どれもたぶんにフィクション性をはらんだものですし。
>
> それらをも含んで、広い意味での人類社会自体が、たぶんにフィクション性をはらんでいなければ成立しがたいものだと思います。
>
> その意味で、「まったく作り事」という意味ではないにしても、私個人としては、フィクションという言葉よりは、約束事という言葉のほうが落ち着きがよいように感じます。

そういうところに個人的な価値観が現れるわけですが、「約束事」だとどうも義務として守らなければいけないニュアンスが出てしまって、僕はちょっと、という感じです。フィクションだと知った上でそのフィクションを選択する自由が個々人に与えられていること、場合によってはそのフィクションが現実に合わなくなっていると認識すれば捨て去っちまうこと、とまでは言わないにせよ、読み替えが可能なものであることは常に意識しておいた方がいいと僕は考えてますので−−というか、その「読み替え」が僕の場合は仕事なんですが。

> > たとえばどのような「素朴な 否定論」をお考えなのか、教えていただければ幸いです。
>
> 私自身も支持する、万民の平等・自由を謳った社会においても、現実的には、機会均等はありえないし、

「ありえない」はちょっと諦念が強すぎるような気も・・・。もっとも、人生のどこから「均等」であるべきかは難しい問題です。原理原則に帰ってしまえば、生まれる親を選べない時点で、均等ではないのですから。このトシになって初めて、「あの両親でよかった」と思い始めている私…。

> 選択の自由とはいっても、程度の差はあれ制限があるものですが、それが当然だとして開き直るのではなく、格差を是正するように努力する必要があり、

仰せの通りかと思います。「民主主義」もまたユダヤ=キリスト教的文化圏から出て来たものですが、この文化圏の理想主義は常にどこかで「実現不能」であることが意識されているところがあり(つまりフィクション)、それを承知の上で現実の問題をあぶり出しにするレファランスとして理想が存在している感がある。共産主義なんてその最たるものですが。

冷めた目で言えば「エデンの園」以来のユートピア・コンプレックスでもありますが。

> そのさいにもっとも大きな役割を果たすべきなのは、現時点では国家だろうとの考えが前提にあります。

少なくとも20世紀まではそうだったと思います。21世紀になってそれは急速に崩れて来ているし、また崩れ去るべきだとも思いますが。ある意味、世界中でナショナリズムの勃興があるのは、崩壊寸前の“悪あがき”の類いなのかも知れません。一方で「国家」に変わるものを我々はまだ人類の総体としては見いだしていないので、ヨーロッパのばらばらの国がEUになるみたいなマイナーチェンジで済ましているとも考えられますね。

> その国家が、ごく少数とはいえ、選択の自由や様々な権利を大きく制限された世襲制の集団を前提とした体制を選択することは、大きな、そして是正すべき矛盾のように思えてならないのですが…

その原理原則については、僕もまったく同意見です。というか、やっぱりそんなことは「分かりきった話」でありますよね。職業柄、「分かりきった話」はあまり繰り返したくない。それは昭和天皇の戦争責任についてもそうで、法的・名目的責任があるのは、「分かりきった話」です。ハンコ押して署名してるんだから。

> > 鈴木邦男氏がおもしろい指摘をしているのですが、近代以降、いわゆる「近代的」なものを日本社会が取り入れる時には、常に天皇がまずそれをやっている、というのです。
>
> 子育ての件も含めて、「お手本」としての役割を果たしてきたところはかなりあるでしょうね。

その意味で「伝統」である天皇制が実は近代化の牽引車であったとも言えるでしょう。皇室の正装を英国王室にならった洋装にしたのも、近代化の文脈では文化的な重要性を持っていたはずですし。ただ今になれば、あの服装はかなりヘンだし、変えていい伝統だとは思います。こと雅子妃の正月お目見えは帽子なしでしたが、あの似合わない帽子スタイルは本当に気の毒でした。女性が帽子をかぶるのは19世紀ヨーロッパの風習ですから、もうやめてもいいと思うし、だいたい帽子だって「適応障害」の原因のひとつになってもおかしくない。あれ、重そうだし。

> もっとも、マスメディアの発達した社会において、そのような役割は、美空ひばり・石原裕次郎・長嶋茂雄といった諸氏のような存在でも果たしていた可能性があるのではなかろうかと思います。

ここで挙げられている人名のうち、少しでも「お手本」性があるのは当時としては足が長くてバタくさい印象が強かった祐次郎だけだと思えます。三人とも特殊な個人的才能の持ち主ですし、三人とも「子育て」だとかの日常生活のレベルでの「お手本」にはなりそうにない。むしろ「憧れ」でしょう。

皇室の役割が少し違っていたのは、彼らが特殊な立場にはあっても特殊な才能を持った人間ではないという了解があったことはないでしょうか? たとえばナルちゃん(現皇太子)が子供時代お勉強ができなかったことは結構巷間に知れ渡っていたことですし、実は正田美智子は「庶民」どころか「昭和新貴族」出身で環境にも恵まれていれば特殊な個人的才能も相当にあった(才色兼備)わけですが、皇室になってから極力「普通の人」であることを強調されているように思えます。その辺りが芸能やスポーツのスターとは決定的に違うのではないでしょうか?

しかし今日のようなセレブリティ文化としてのマスメディアの発達の仕方のなかでは、そうした皇室の役割はすでに終わってしまっているようにも思えます。せいぜいが皇太子の英国留学と、元外交官の小和田雅子が皇太子妃になったところまで(「近代化」の完成であり、そして結婚はバブルの最末期でした)で、それ以降は「ただ有名である」ことによって皇室である−−言い換えれば松井とイチローと北島と皇室が同レベルの「セレブリティ」として受容されている世代も、すでに現前と存在しているように思えます。

皇室自体は、極めて道徳的な人々として「お手本」を続けようとしていますが、それは空回りしているような…。宮内庁に象徴される日本的官僚制のあり方を変えて行こうとしている努力も、すでに国民の感心をあらかた失っています。むしろ宮内庁の言いなりになることを選択した「公務は受け身」の若白髪宮夫妻が、少し前まで保守ではあっても官僚制打倒を標榜していた「週刊文春」において持ち上げられるような実情ですから。

> > 僕の場合は、ありましたね。桔梗門を出たところでお土産屋さん屋台で新撰組人形を売っていたのも…
>
> 足利尊氏人形を売っていたらもっと意外だったのですが、

尊氏が大河ドラマになれば、売るかもしれませんよ(笑)。

> そもそも足利尊氏人形なんて作られてないかな(笑)

楠公は住友が寄付した銅像が外苑にある関係上、かまぼこだとかになってます(「二重橋」と「楠公」の二本セット)。あとお酒にも。

ただ売ってる人に「なぜ楠木正成があるんですか?」とイノセントなふりして聞いてみたら…なんと「楠公」が楠木正成であることすら通じないケースも…

> 比較するのも何ですが、靖国神社のありようを想うと、なかなか興味深いものがあります…

靖国もけっこう観光地化してますが、あのデカイだけで偉容を体現しようとする本質的に日本伝統文化とかけ離れた雰囲気では、皇居のような年に2度だけでも「安らぎの場」になるところとは視覚的なあり方が違うのでしょう。皇居の中は年に2度ですが、外苑は年中、ご近所で働くOL&サラリーマンのお弁当などの憩いの場ですし。

自然物(の表象として一番分かり易い樹木)と江戸城石垣の歴史性に隠れて、本体(宮殿)が見えないという皇居のあり方は、極めて日本的な権威の象徴性であると思います。まさにロラン・バルトの分析した風呂敷文化の世界・・・ただそうした伝統性は、今の日本社会では急速に失われているのではないでしょうか? 「見せない」ことの文化的洗練は、東京タワーのような構造むき出しの近代的機能主義を経て、今ではケバケバしい似非大理石建築の薄っぺらな建造物(いい例がナチ建築のパロディでしかない東京都庁)の分かり易いハデさにとって変わられていますから。