31905 返信 Re:精神医学・医療と精神分析について URL なな 2005/01/06 05:01
水原さん、

貴方との議論にお付きあいするのはかなり食傷気味になっています。低レベルの罵倒や中傷については実害がないかぎり放っておけばいいと思っていますが、議論することを旨とする掲示板である以上、意図的とも言える論旨の捻じ曲げや不当な言いがかりについては反論しておかなければなりません。

> > 引用された私の文章にある「精神上の問題」は、「精神分析」(者)が精神的な病理や不都合な心の状態だと考えるものの殆ど全てを解釈・説明しようとし、その原因を「分析」してきた歴史があることを述べたコンテキストにあるものです。
>
> そのコンテキストの一方で、すでに先天的な理由と後天的(環境による抑圧)の双方が「精神障害」の原因にあること自体は、すでに同意済みであるはずなのに、しつこく食い下がっているなな様自体がすでに意味不明の領域に入っておいでなのですが?

まず、水原さんの言われる「同意済み」について反論します。
私が一貫して述べてきた論旨は、殆どあらゆる「精神上の問題」を幼児期に受けた「抑圧」によるトラウマ、「無意識に抑制されたトラウマ的記憶」が「病因」の根幹もしくは発症の主因にあるというような「精神分析」な見方を批判することにあります。そのような見方には合理的、科学的根拠がないこと、逆にそれが否定されるような科学的、医学的知見も上げて私は批判してきました。
したがって、水原さんの「同意済みであるはずなのに、しつこく食い下がっている」という言い分に正当性があり、それを私が認めなければならないためには、貴方は私がこれまで述べてきた論旨であるところの以下の(1)(2)の両方に同意される必要が生じます。
これは分裂病のような精神病や多くの「精神障害」、および自閉症などについても言えることだと思いますが、

(1) 発症の原因は現在のところ、遺伝的要因と環境的要因の両方が関与していると考えられている。

(2) 発症に環境的要因が関与しているとは言えるが、その中で家族環境、特に親子(母子)関係における「養育のまずさ」から生じると見なされている幼児期の「トラウマ」をその発症の主因であるかのように抽出して捉える見方には、合理的、科学的根拠が提出されておらず、逆にそれを否定する科学的、医学的な知見が提出されている。したがって、そのような概念で捉えられる発症因の捉え方には妥当性がない。

水原さんがもし(1)(2)に同意されるのならば、「自閉症児の発症の原因になるトラウマといえば、たいていの場合は親が関わったもののはず」という貴方の言明は当然に撤回もしくは修正を迫られることになります。しかし貴方は撤回も修正もされていなのですから、「同意済みである」との前提で話を進められるのは自己欺瞞と言えましょう。

それから付け加えておきますが、単に先天的(遺伝的要因)と後天的(環境的要因)とだけ書かれるだけなら、私の意見と特に齟齬はないように見えますが、貴方の発言には(環境による抑圧)とわざわざ「抑圧」なる未定義の全く曖昧な言葉が注釈されております。そこにはどのような含意が込められているのでしょう?

> > つまり「精神分析」自身が射程するものを誤解を招かないようにわざわざ括弧書きにして「精神上の問題」と書いたわけで、私が《「同性愛」を「精神病や精神障害」「自閉症」などと同列の「精神上の問題」と捉えて》いるわけではありません。
>
> 「同性愛」は「精神的な問題」などではなく、それを精神的な問題→精神医療なり精神分析の治療対象としようとしたのは、単に当時の学者の差別的偏見による者であることはすでに述べてありまして、

「単に当時の学者の差別的偏見による」については後述します。

> > そのことは、31315番投稿31552番投稿、さらに31567番投稿などにおいて、1970年代の米国精神医学会における同性愛論争を引用する中で、そして水原さんのレスに答える形で、「同性愛は精神分析派が主張するような『幼児期の葛藤や抑圧に起因する』精神障害でもなければ病理でもない」という主旨のことを繰り返し述べてきたことからも明らかです。
>
> 「同性愛」が「精神障害」「病理」そのものではないと認める発言は、上記のいずれにも含有されておりません。僕自身同性愛者ですから、「同性愛」が「精神障害」「病理」そのものではないと認める発言がない限り、なな様の発言をこれ以上真剣に受け取る気などさらさらない(自分を差別する“狂人”の発言として、敵視する)のは、当然のことでしょうね。

まあ、貴方の書き込みにはとにかく恐れ入るとしか言いようがありません(笑)。
たとえば私は、

>> 少なくとも現在では、同性愛を表向き立って「精神障害としての病理」と公言する精神科医や心理学者はごく少数派になりました。
31315番投稿

>> 単に<偏見に基づいた欲求を持っている>と指弾、批判するだけでは「同性愛はもともと精神的な病理ではない」ということが理解され、広く説得力ある証拠を伴った力にはならなかったということですね。「幼児期に体験された深い葛藤と抑圧」という「病因」説への科学的な反証の提示なくしては当時としては情勢は大きく変わらなかっただろうと言っているのです。
31567番投稿

と書きました。
これに対して、「同性愛はもともと精神的な病理ではない」ということに私が同意し、それを支持している含意が全くないと、水原さんは断言されるわけです。

さらに、31896番投稿では

> なな様は「「「精神分析」者やサイコセラピスト」には言及してますが(貶める目的で)、ご自分がどうなのかは一切言及してません。そして彼は「同性愛」を「精神的な病理」の一例として挙げたことを撤回もなにもしていません。

などと、「一切言及してません」とか私が私自身の意見として《「同性愛」を「精神的な病理」の一例として挙げた》かのようにまで事実に反する書き込みをしています。
ふつうに私の文章を読んでくれる人には、「言いがかりとしかいいようがありません。」という私の言辞は理解していただけると思いますね。

全くもって貴方の日本語能力を疑わざるを得ません。というより、それは私を「(貶める目的で)」書かれたとでも考えなければ説明がつきませんね。議論の果てに「生理的嫌悪」を貴方が感じょうが感じまいが、それをこのようなことに振るのはお止めになったほうがいいでしょう。

> 「「同性愛は精神分析派が主張するような『幼児期の葛藤や抑圧に起因する』精神障害でもなければ病理でもない」」のどこが、同性愛を精神に関わる医療の対象として来た過去の学者たちの差別偏見を否定するものなのでしょうか、お尋ねします。あなたはただ「精神分析の対象ではない」と言っているだけです。

> あなたが同性愛を精神に関わる医療の対象として来た過去の学者たちの差別偏見を否定したことがない上に、「「精神分析」には、精神病や精神障害に限らず自閉症、同性愛など、ほとんどあらゆる「精神上の問題」などと繰り返しているからです。

「過去の学者たちの差別偏見」について触れなかったのは、私の投稿が《当時の精神科医の同性愛に対する「医学的な見方」の中に、差別的偏見があったのか否かを基準として、同性愛が精神的な障害、病理であるか否かの判断ができる》との論理、主旨で書かれていないからです。水原さんはこの辺のところの意味というか意義を分かっていらっしゃらないのですね。
J.Marmorの報告論文をお読みになることをお勧めした理由がそこにもあったのですけれど・・・ムダでした)

1970年代頃までの米国の精神科医の同性愛に対する大勢的な見方、つまり「精神病理として同性愛を捉える」見方についてはこれまでの投稿で何度も触れてきましたが、そのような認識が生まれる原因、背景に当時の精神科医の多くに同性愛者に対する差別的偏見があったかどうかについては私は具体的に触れていませんし、そういった差別的偏見の存在やそ度合いについても特に言及してきませんでした。というのは、私が言わんとしている論旨、論理にはそれに対する明確な答えが特に必要とされないからです。しかし水原さんはどういうわけか、それを「過去の学者たちの差別偏見を否定するものなのでしょうか」という疑問、反問の形で返してきました。

貴方の論理では「学者たちに差別的偏見があるから同性愛が精神的な障害、病理と見なされた」となるわけですが、別に私はそのことに直接的な異を唱えているわけではありません。たしかに、同性愛(者)に対する差別的偏見は一般市民ばかりでなく精神科医にもあったと言えるでしょうし、またそのような差別的意識から同性愛を「精神的な障害、病理」と見ていた医師もいたことでしょう。
ただ、そういった「差別的偏見によって同性愛が精神的な障害であると見なされている」という論理を押し進めるだけで、「同性愛はもともと精神的な障害、病理ではない」ということに対する広い支持を得るための積極的、説得的な根拠になった(なる)のでしょうか、というのが、私の書き込みにおける本質的な問いかけでもあったわけです。米国の大きな勢力であるキリスト教の保守的な宗教イデオロギーを背景にした中絶(者)や同性愛(者)に対する嫌悪や差別的偏見、そしてその影響を受けている人々が持っている価値判断に対して、「それは差別的偏見に基づいた欲求の産物だ」という反差別のスローガンを掲げるだけで状況が転換できた(できる)のだろうかということでもあります。
「同性愛はもともと精神的な障害、病理ではない」を、いかに事実として、そして科学として、明らかにし問い直していくかが重要なのであって、「価値判断」化してしまったとも言える「同性愛は精神的な障害、病理」という信念に対して、それに相対する価値判断を単にアプリオリなものとして対峙させるのではなく、その価値判断を支えている「事実」や「根拠」を問い直し、洗い直していくことのほうが意義や有効性のある議論を展開できるということを、「同性愛に対する精神医学界の対応の歴史」を概観する形で私は示したかったわけです。

つまり、私の「同性愛は精神的な障害、病理ではない」という見方は、事実と合理的、科学的な知見によって支えられているのであって、ある特定の価値判断の修正や変更を求めそれを押し広げていくためには、ひとつひとつの事実、より合理的で客観的な真実、根拠を少しずつでも積み上げていくことがその王道であり、それ以外に近道はないだろうとも考えています。そういった意味で言えば、当時の「精神分析」には、「価値判断」化してしまった「見えたから見えた」式のありもしない「幼児期トラウマの発見」という非合理作業がもたらした「罪深さ」を見なければならないでしょうし、そしてそのような非合理作業は今も生き続けていると言えるでしょう。

さて、もうひとつ見落とせない点に触れておきたいと思います。
J.Marmorらが寄せた報告や多くの精神科医の意見が掲載された米国の当時の雑誌には、「私は同性愛(者)に対する差別的偏見を持っているとは思わないが、彼らの中には生得的に不幸にも抱えてしまった精神的な障害に苦しんでいる者が確かにいると思われる。」という意見を公にする精神科医が少なからず存在しました。このような「差別的偏見を持っていない」と自認していまう医師の意見にはどう対応したらいいのでしょう。当時において「精神科医やセラピストたちの差別的偏見によって同性愛が精神的な障害、病理と見なされるのだ」という反差別の論理で闘っていた同性愛者のグループが繰り広げた闘いというのは、結局のところ、医師たちの「差別的偏見」という見えない相手の心の「暴き」や糾弾を超える以上のものには成り得なかったと思います。

事実と合理的な根拠に寄り添う中から得られた新しい精神医学的な知見として、これまで同性愛のカテゴリーに隠れてしまっていた性同一性障害という病態が明らかにされてきました。この新たな医学的知見は、事実や合理性に依拠することに重点を置かず単に「差別的偏見によって同性愛が精神的な障害であると見なされている」との論理やその批判キャンペーンをはるだけでは得られなかったものであろうと思います。当時の状況をふり返れば、同性愛(者)の中に埋もれる形で強い精神的苦痛に苦しんでいた性同一性障害者たちの立場が「同性愛が精神的な障害、病理であると見なされているのは差別的偏見によるものであり、同性愛そのものが何らかの医療的ケアの対象になるような病気ではない」という論理への同調を余儀なくされることによって、封印されるような状況が生まれていたことも確かです。

> まったくもって、新年早々、差別主義者の偽善につき合わされるのは極めて不愉快であります。

「まったくもって、新年早々、」意図的な論旨の捻じ曲げと不当な言いがかりにつき合わされるのは「極めて不愉快であります。」