32026 返信 Re:精神医学・医療と精神分析について URL なな 2005/01/11 04:35
水原さん、

今回の投稿は、貴方のふたつの投稿、31907番31914番へのレスをひとつの投稿に纏めました。

(それから、この投稿は間近にいただいたJUNEさんから私宛への32018番投稿に対する返信にもなっていると思いますので、こちらを参考にしてほしいと思います。一応一点だけここで触れておきますが、私は性同一性障害の方の精神を「異常」だなんて言っても書いてもおりません。「何とか難癖をつけよう」という観点で人の文章を「読み取ろう」とする水原さんのような歪んだ解釈はなさらないようにお願い申し上げておきます。)

> だからそのような「精神分析」は、今では存在してませんてば(笑)。フロイトしか読んでないんじゃないですか? ラカン尊師とか、マルクーゼとか、ライヒとか、知らないんですか?

いいえ、そのような「精神分析」的言説まだまだ根強く存在しておりますし、装いをこらした新たな「精神分析」的言説も生まれてきていますよ。そして、貴方自身のこれまでのあれこれの言辞について言えば、後述するように、私が批判してきた「精神分析」的な「見えたから見えた」式の、一般化するにはとても無理のある思考方法から脱却しているようには思えませんね。

それから、ラカンとかマルクーゼとかの名前が何かと出てきますが、彼らの思想や考えについて、貴方から聞こえてきたのはほとんど「キャッチコピー」的な断片ばかりで、貴方自身の言葉で語られた中身ある解説やそれにもとづいた議論や論証なるものをほとんど聞いたためしがありません。(少なくともこの掲示板では)
そういう「学者の名前出し」こそ貴方がやたらに持ち出す「権威主義」っていうのじゃありませんか(笑)。

>> そのような見方には合理的、科学的根拠がないこと、逆にそれが否定されるような科学的、医学的知見も上げて私は批判してきました。
>
> 後天的な精神的な刺激、たとえばストレスの影響も否定されるんですかい?(笑)。

それを私が否定しましたか?書いていることをよ〜く読んでくださいね。

> 「精神分析」は様々なストレスがどのように精神に影響を与えるかを分析する方法論でしかありませんよ。

あれ?主張が変遷しておりますね。以前の投稿で水原さんは、「精神分析では、精神障害の最大の原因は後天的なトラウマによるものである」と、貴方の説明によれば幼児期の親子関係によって生じた「トラウマ」が「精神に影響を与える」「最大の原因」との説明をされておりますよ。私との一連の議論の中でもそれを撤回したり修正したりはしませんでしたが、今回はそれをされるおつもりですか?

「ストレスがどのように精神に影響を与えるか」を調べることについて、様々な方法論を検討した場合でも、認知心理学や認知脳科学などによる研究とその成果にもとづいた認知行動療法のほうがずっとまともな反証可能なエビデンスを提出していると言えます。「精神分析」はと言えば、その方法論として必要な合理的、科学的な要件さえ、ほとんど満たしていないと言えるでしょう。

> > (2) 発症に環境的要因が関与しているとは言えるが、その中で家族環境、特に親子(母子)関係における「養育のまずさ」から生じると見なされている幼児期の「トラウマ」をその発症の主因であるかのように抽出して捉える見方には、合理的、科学的根拠が提出されておらず、逆にそれを否定する科学的、医学的な知見が提出されている。したがって、そのような概念で捉えられる発症因の捉え方には妥当性がない。
>
> 同意できませんな。後天的な環境による影響は、上記の通り自然科学的な方法論では把握できないのですから。

相変わらず、(2)の意味するところが全くお分かりになっていないようですね。
個々の症例について、どのような「後天的な環境による影響」が発症の主因、具体的な原因となったのかについては、現在の科学レベルでそれを特定できるなどとはどんな研究者も言ってはおりませんよ。その点では貴方の仰っていることは間違っていないのです。しかし、それをこちらに「投影」させて、私がそのように主張しているかのように「理解」してしまったところが貴方の大きな錯誤なのですね。

何度も説明してきたように、「科学的に分かってきた」ことというのは

(1) 遺伝的要因と環境的要因の両方が関与していること。
(2) また、環境的要因のなかで「親子関係」が特異的な影響を与えているということは言えない、否定する証拠が複数提出されている

ということです。つまり議論の中で生じている水原さんの問題は、(2)を「親子関係の問題」が否定された、もしくは過小に評定されたと錯誤もしくは水原さんのお好きな言葉を借りれば「妄想」したことにあるのです。
(ついでに言えば、上海さんも水原さんと同じような錯誤をされていますね。だから「水原さんの尻馬に乗った」投稿になってしまったのでしょう。)
(2)から言えることは、発症因について「幼児期の親子関係におけるトラウマ」なるものを全面に立てたり、それを主因として一般化することはできないということ、それだけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

たしかに、何万とある「精神障害」の事例の中には、何が発症の主因、原因となったのかの客観的、実証的な同定が現実には不可能であるとしても、「幼児期の親子関係におけるトラウマ」がその大きな原因となった事例もあるとの推測は非合理的ではありません。しかし、そのこととどの症例がそれに当てはまるかなんてことは、現在の我々の能力をはるかに超えたところにあると言わなければなりません。つまり我々は、周産期も含めて計り知れない様々な環境要因の中から発症における個々の環境要因の影響度を評定できるほどのレベルに達しているとは到底言えない段階にあるということです。
(一応補足しておきますと、最新の行動遺伝学などの分野では、環境要因を大きく分類し発症や予後に対するそれらの影響度を数理的に検討する研究が牛歩並とはいえ少しずつ進んでいます)
ある意味で言えば、その「説明し切れないこと、判断できないこと」を明確にできたことが科学の果たした意義、役割りのひとつであると言えるでしょう。

ところが一方で「精神分析」はどうかと言えば、殆どの流派においてそれを「解明」し「説明」してきた(説明できるとしてきた)わけです。端的に言えば、結果から原因を一律に同定してしまったのが「精神分析」でもあったわけです。そのようなドグマティックな一般化は、同性愛の「幼児期のトラウマ」をその「精神障害」症状の原因とした時の精神分析言説と同じように、偏見や差別を呼び込む危険性さえ孕んでいると言えるしょう。前にも書きましたが、これは文学や芸術などの世界で人間心理の描写や演出に自由な想像(創造)力を働かせるために「精神分析」的手法を援用させることとは大きく質の異なる問題と理解すべきです。

> > 水原さんがもし(1)(2)に同意されるのならば、「自閉症児の発症の原因になるトラウマといえば、たいていの場合は親が関わったもののはず」という貴方の言明は当然に撤回もしくは修正を迫られることになります。
>
> 3年前の話をまたまたしつこいねぇ。元々の文脈は遺伝的要因の可能性については否定も肯定もしておりませんが(苦笑)。つまり、「言及してない」だけです。

私は、貴方が「遺伝的要因の可能性については否定も肯定もしていない」ことを問題にしているのでは全くありませんよ。この点もお分かりになっていないようです。

> で、元の文脈は「すべてを先天的な理由だけで説明しようとするのはおかしい」ということだけだったんですが?

そして今度は批判を受けたご自分の発言の巧妙な論点ずらしですか。
「自閉症児の発症の原因になるトラウマといえば、たいていの場合は親が関わったもののはず」という貴方の言辞は「すべてを先天的な理由だけで説明しようとするのはおかしい」と主張する言辞とは同義でありませんし、その意味するところは大きな違いがあります。
「すべてを先天的な理由だけで説明しようとするのはおかしい」という主張自体については、私も大いに同意できるのですよ。

> > それから付け加えておきますが、単に先天的(遺伝的要因)と後天的(環境的要因)とだけ書かれるだけなら、私の意見と特に齟齬はないように見えますが、貴方の発言には(環境による抑圧)とわざわざ「抑圧」なる未定義の全く曖昧な言葉が注釈されております。そこにはどのような含意が込められているのでしょう?
>
> ごく普通のマルクーゼ的な用法なんですが?

ですから、そのマルクーゼを貴方自身の言葉でしっかり語り、説明してみてくださいよ。いつも「権威」の名だけを借りるだけで、そこからの先の中身ある話を聞いたことがないのが水原さんの議論なんですから。

> > >> 少なくとも現在では、同性愛を表向き立って「精神障害としての病理」と公言する精神科医や心理学者はごく少数派になりました。
>
> だからあなたはどうなのか、と聞いているんですが?

性的指向が同性に向いているという事実だけを持ってして、それを精神障害とは言えないし、したがって精神的な病理とも言えないというのが、これまでの医学的科学的見識も踏まえた上での私の考えです。ただし、それを言うには少し補足が必要になると思います。
前回も書いたように、性的関心の対象が同性愛と同じように同性に向かっているという点で広義には同性愛のカテゴリーの中に含まれると考えられる性同一性障害について言えば、幼児期のかなり早い段階から自らの生物学的性に強い違和感を感じ、そのことに大きな心的な苦痛を感じている人の存在がそんなに稀ではないことが分かってきました。そのようなケースでは、彼らの心の強い葛藤は精神的な苦痛として---言葉を換えれば「精神的な障害」として何らかの治療やケアが必要になる場合もあることは付言しておきたいと思います。

> >> 単に<偏見に基づいた欲求を持っている>と指弾、批判するだけでは「同性愛はもともと精神的な病理ではない」ということが理解され、広く説得力ある証拠を伴った力にはならなかったということですね。

> そりゃ世の学者がプライドの生き物であるから、というだけでしょう。

「学者」というだけで特別に「プライドの生き物である」という断定はできませんね。何か根拠でもあるのでしょうか。

> > 「幼児期に体験された深い葛藤と抑圧」という「病因」説への科学的な反証の提示なくしては当時としては情勢は大きく変わらなかっただろうと言っているのです。
>
> 学者がどう思っているかだけで世の中の偏見がなくなるわけでもありませんがねぇ…

中身のない「取りあえず書いておけ」のレスですね。
「反証の提示」という科学的言説を「学者がどう思っているかだけ」ということに矮小化してしまうのには、恐れ入りますとしか言いようがありません。ちなみに、貴方の好きなラカンとかマルクーゼもその「学者」の中に入るのですけどね。

> > これに対して、「同性愛はもともと精神的な病理ではない」ということに私が同意し、それを支持している含意が全くないと、水原さんは断言されるわけです。
>
> そりゃあなたがこの文脈で最初に「同性愛」に言及したときの書き方は、完全に同性愛を「精神的病理」とみなす文脈でしたからね。そしてその文脈はその後も継続して、なんら訂正も撤回もなく継続中ですから。

ですから、それが言いがかりであることはすでに具体的に説明しました。
貴方の言う《同性愛を「精神的病理」とみなす文脈》とは、1970年代初頭における米国「精神分析」派の「同性愛は精神的な病理である」とする捉え方を私が批判的に取り上げる中で出てきたものですよ。「なんら訂正も撤回もなく」どころの話じゃありません。

もちろん、米国「精神分析」派の主張を批判的に取り上げた内容は彼らの主張にある非合理性を指摘するという専ら科学的観点に立ったものでしたから、同性愛に対する私自身の人間観や社会観といった倫理・価値判断を直接に述べたものではありません。したがって、その意味においての同性愛についての私自身の見解は殆ど述べていなかったとも言えるでしょう。

この点についてもう少し詳しく論じるために、再建された「田中荘」でのtpknさんの書き込みを引用させていただきたいと思います。tpknさんは55番投稿で、水原さんの

>> 「同性愛」について言えば、「科学」という「信仰」なしには差別を否定できないような人間性に欠如した意識構造の問題ではあるんですが。

という私への「批判」言辞に対して

> これはよくわかる。ついこないだも、別のサヨク掲示板で似たようなやりとりをしたことがありま。
「同性愛は先天的なものだから差別してはいけない」なんてイケシャーシャーと言うやつがいたんだよ…。

というレスを返されていましたが、このお二人の発言はそれぞれの意味において私の論旨や論点を理解されていないものだと思います。

私がこれまでの投稿で繰り返してきたことは、科学が「同性愛」に対する差別的な人間観、価値観の正否を直接的に下せるという論旨ではありません。つまり科学は、人間(社会)の価値判断、倫理的な見解であるところの「差別は間違っている、正しい」という意見に対して結論を直接与えられるようなものではなく、科学的な事実や見解はあくまでも人々の価値判断を側面から支えたり、価値観を形成する上での知的な貢献をするという役割以上のものにはならないということです。少なくとも私はそう考えています。
それに反して、科学の装いでもってヘタに価値判断の妥当性を直接判定したり、あるいは特定の価値観にもとづいて強権的に科学的事実を歪めようとすることの重大な弊害は、たとえばナチスの「優生学」や遺伝学における「ルイセンコ主義」の歴史の中に起こった虐殺や弾圧に象徴的に示されていると言えるでしょう。

tpknさんが引用紹介された「同性愛は先天的なものだから差別してはいけない」などは、まさに科学的な見解でもって価値観の当否を判定しようとする、いわゆる典型的な「科学主義」的発言と言えるでしょう。そのような発言は、それでは仮に「先天的でない」という科学的事実が明らかになったら、差別はしてもいいという「論理」になってしまいます。

以上のように、上の水原さんの発言は私が述べてきたことの論旨や論点を(意図的かどうかは置いておくとして)見過ごし、歪めた上での、私に対する批判にならない「批判」になっています。また、tpknさんのレス発言は、「科学主義」批判という意味では私にも充分に頷けるものですが、それが水原さんのなな「批判」への同調だとすれば、私がこれまで述べてきた論旨、論点に対する誤解もしくは無理解になっているとしか言えません。

> > などと、「一切言及してません」とか私が私自身の意見として《「同性愛」を「精神的な病理」の一例として挙げた》かのようにまで事実に反する書き込みをしています。
>
> 現に挙げられました。ただあなたが自分の書いたことを自覚出来てないだけですね。

どこにも、私自身の意見として《「同性愛」を「精神的な病理」の一例として挙げた》という文章はありませんよ。
貴方は私を「差別主義者」に「仕立て上げたい」がために、私の文脈を意図的に大きく捻じ曲げるのでしょうか。

> なにしろ自分がメールアドレスを公開していないことを棚に上げて「メールで送ればいいのに」云々と言ってのけたほどの高慢ちきな方ですから、真面目に接する人間は大なり小なり不幸になります。

「真面目に接する人間は大なり小なり不幸になります。」とまで言われますか(笑)。

「メールアドレスを公開していない」のは、ネット上から生じた問題が実生活への不利益に繋がらないよう身を守る私なり手立てですから、「棚に上げて」は筋違いの非難です。貴方が『問答』投稿規定に違反するような投稿をする前に、管理人宛てにその旨のメールを送るのが、最初の行動選択肢ではないかと申し上げましたが、それを「高慢ちき」と切って捨てられるのには恐れ入るとしか言いようがありません。

> 無駄なストレスを溜め込むマゾヒズム的趣味はあまりないので、あえて自分の精神衛生上の都合で不真面目にレスさせて頂いておりますのでご了承のほどを。

そんなことは議論の掲示板でわざわざ持ってまわったように書く意味はないと思いますし、そもそも、言っていることが自分勝手すぎると思いますが。

> というか、真面目に返答する価値がある方だとは思えないというのが、率直な感想です。

私も同じような感想を少しずつ持ってきましたが、関心を持って読んでおられ読者もおられるようですし、公の開かれた言論の場ということを考え、マイペースでたんたんと進めていこうと思います。

以下は31914番へのレスです。

> 追記:
>
> > 1970年代頃までの米国の精神科医の同性愛に対する大勢的な見方、つまり「精神病理として同性愛を捉える」見方についてはこれまでの投稿で何度も触れてきましたが、そのような認識が生まれる原因、背景に当時の精神科医の多くに同性愛者に対する差別的偏見があったかどうかについては私は具体的に触れていませんし、そういった差別的偏見の存在やそ度合いについても特に言及してきませんでした。というのは、私が言わんとしている論旨、論理にはそれに対する明確な答えが特に必要とされないからです。
>
> そりゃあなたの論旨は「精神分析」を否定することだけですから、「当時の精神科医の多くに同性愛者に対する差別的偏見があったかどうか」があなたの論旨にとって邪魔であるからに決まってますね。

「邪魔であるからに決まってます」??
いったいどういう論理からそんな言葉が引っぱりだせるんでしょうね。
すでに述べてきたように、当時の精神科医が同性愛(者)に差別的な意識を持っていたか否かは、私の主張、論旨には直接関係はないと言っているのですから、それが邪魔や障害になることはありませんよ。

> 自分の論旨のためには、「当時の精神科医」もまたただの人間であって、そのただの人間が同性愛に対する社会的な理由が蔓延している文脈のなかで生息していたというごく当たり前の現実を無視するのも厭わないのが、なな様の高慢ちきさのなせる業なのでしょうなぁ。

《「当時の精神科医」もまたただの人間》は当たり前のことを述べているに過ぎませんが、水原さんは何としても「当時の精神科医やセラピストが同性愛者に対する差別や偏見の観念で凝り固まっていた」という前提、「事実」からご自分の論理を出発させたいようですね。たしかにそうであれば事は単純な図式になり、「彼らに差別的な意識があったからこそ、同性愛を精神障害、精神的な病理と決めつけることになった」との非難一本槍でいいわけですから。

ここで、水原さんが言われた「当たり前の現実」についてお聞きしますが、当時のことについて、貴方はその「当たり前の現実」というものをどのように具体的に提示しそれを論証できるのでしょうか? ずばり言えば、同性愛(者)には何らかの治療が必要なケースがあるとしてその意味で『精神障害』のカテゴリーの中に含まれる症例もあると考えていた精神科医グループが当時存在していましたが、そのような精神科医たちに対して、「同性愛(者)に対する差別意識があるからこそ、それを精神障害、病理と見ていた」というような貴方の批判「論理」は何を根拠に論証され得るのかということです。

> > 貴方の論理では「学者たちに差別的偏見があるから同性愛が精神的な障害、病理と見なされた」となるわけですが、別に私はそのことに直接的な異を唱えているわけではありません。
>
> ほぉ。では「あなたの論理は逆さまです」はどういう意味なんでしょうか?(爆笑)

「論理が逆さま」というのは、DSMから同性愛が削除され、同性愛は基本的に治療の対象と見るべき精神障害や病理ではないという同性愛(者)観の転換が起きた原因と結果の捉え方についてです。
(この点についてはすぐ下のほうでもう少し詳しく触れます。)

> > たしかに、同性愛(者)に対する差別的偏見は一般市民ばかりでなく精神科医にもあったと言えるでしょうし、またそのような差別的意識から同性愛を「精神的な障害、病理」と見ていた医師もいたことでしょう。
> > ただ、そういった「差別的偏見によって同性愛が精神的な障害であると見なされている」という論理を押し進めるだけで、「同性愛はもともと精神的な障害、病理ではない」ということに対する広い支持を得るための積極的、説得的な根拠になった(なる)のでしょうか、というのが、私の書き込みにおける本質的な問いかけでもあったわけです。米国の大きな勢力であるキリスト教の保守的な宗教イデオロギーを背景にした中絶(者)や同性愛(者)に対する嫌悪や差別的偏見、そしてその影響を受けている人々が持っている価値判断に対して、「それは差別的偏見に基づいた欲求の産物だ」という反差別のスローガンを掲げるだけで状況が転換できた(できる)のだろうかということでもあります。
>
> 宗教という権威が、現代的な宗教・信仰対象である「科学」にすげ変わっただけでは、なんの意味もありませんがな。

相変わらず、「権威」という言葉でしか答えられない、考えられないんですね・・・水原さんは。貴方がここで言う「権威」は批判のための方便でしかないでしょう。
ではお聞きしますが、同性愛(者)やハンセン氏病(患者)に対する人々の差別的な偏見が不充分と言えども少しずつ解消されてきた要因は何処にあると貴方はお考えなのですか?精神疾患についても程度の問題はありますが、偏見が減ってきてそれに伴い多少なりとも差別が解消されてきた要因はどこにあると考えるのですか?

> これはあらゆる「精神的病理」について大なり小なり言えることではありますが、「正常」と「異常」の区分けは、科学的なものである以前に社会的な価値観をめぐるものですよ。

「正常」と「異常」の区分けに直接関与するのは価値判断なり価値観と言えますが、その価値判断に少なからぬ影響を与えてきたのが科学的事実の発見や新しい知見の確立と言えるでしょう。
科学的知見や新しい事実の発見が人々の価値観の形成やその転換の起爆剤になることがあるのは歴史が示しています。つまり、水原さんが言われるように、常に価値観が科学的知識や見識以前に立ちはだかるという考えではなく、両者は相互に影響し合いながらそして時には新しい科学的事実や知見の発見が価値観形成の転換をもたらすこともあるという認識に立つのが妥当ではないかということです。そのようなケースとして、1970年代の米国精神医学会の同性愛をめぐる論争の中で、「精神分析理論」による「同性愛=精神障害・病理論」の「根拠」が科学的、医学的事実によって否定され、そのことが人々の同性愛(者)観の転換の起爆剤になった歴史を上げたわけです。
「論理が逆さま」と書いたのは、それを貴方が《それは同性愛が「精神障害としての病理である」と見なされなくなったからだけでしょう》と転換の要因を全く無視されるように述べたからです。ただ、水原さんの発言は論理になっていないとは言えても、厳密に論理の形式を考えれば「逆さま」というのは不正確ですから、「論理になっていない」に訂正させていただきます。

科学と価値観、「正常」と「異常」についてもう少し述べます。
性同一性障害者が自らの生物学的性と心の中の性意識の葛藤の間で心的な苦痛に苛まれている状態の有無やその評価、解消については、科学的、医学的な「作業」の出番があると言えるでしょう。今では性同一性障害者と同性愛者を全く同質に見ることはできないと考えられていますが、同性愛者が何らかの心的苦痛を抱えているとしたら、その原因の議論は別として、そういった苦痛の評価や解消に対しても科学的、医学的な守備範囲が果たす役割は少なくないと思います。
そして大雑把に言ってしまえば、そのような苦痛、心の健康の問題に対してどこからどこまでを「障害」と捉えて治療の対象とするのかが、社会的な価値観を反映した「正常」と「異常」という区分けになってくるのだろうと思います。つまり、そこで治療が求められる苦痛--「障害」のレベルを「異常」、「正常」という言葉で語ることになるのだろうと思います。
突っ込みを予測して補足しておきますが、病識の乏しいような例えば分裂病の場合では、本人自身の苦痛や自傷の恐れの問題だけでなく、他者に対する暴力的言動や他傷の恐れが「正常」、「異常」の判断基準に加わってくることになると思いますが、そこでもその判断の基礎となる起因やその可能性評価にも医学的的、科学的な観点からのアプローチが必要になってくるだろうと考えます。

> > 「価値判断」化してしまったとも言える「同性愛は精神的な障害、病理」という信念に対して、それに相対する価値判断を単にアプリオリなものとして対峙させるのではなく、その価値判断を支えている「事実」や「根拠」を問い直し、洗い直していくことのほうが意義や有効性のある議論を展開できるということを、「同性愛に対する精神医学界の対応の歴史」を概観する形で私は示したかったわけです。
>
> まったく示しておいでではありません。

「幼児期の親子関係によるトラウマ」が原因ではないということを科学的な根拠を通じて示したことは当時の情勢を考えれば大きかったと思います。
「精神分析」的な「トラウマ」や「抑圧」は「精神的な障害」という考え方と原理的にセットにされた概念ですから、それが退けられただけでも、偏見が取り払われることに貢献したと言えるでしょう。そして「障害」という概念が否定されれば基本的に「病理」という概念も否定されることに繋がります。

もちろん、科学的真実がそのまま自動的に人々の差別や偏見といった価値判断、価値観を変更させることができないのは原理的にも当然の話です。間違った科学的事実を訂正させることができるのは正しい科学的事実ですが、ある価値観念を変更させることができるのは、直接的には科学ではなく新しい価値観と言うべきです。しかし科学的方法や科学的真実は、その新たな価値観を側面から支えることに大きな役割りを果たすことができるというのが私の考えです。実際にはそれらが複合的に複雑に絡み合い影響しあうことになると思いますが基本的にはそういうことだと思います。

> なお同性愛の「原因」は、先天的であるかどうかも含めて、未だにまったく明らかにされていません。一時はAIDSで死亡した同性愛者の遺体を解剖した結果に基づく海馬の縮小説があたかも定説のようにまかり通っていましたが、この説が疫学的な見地から相当に不確かなものであることは今では常識です。

私は同性愛の「原因」は100%「先天的」であるなどとは言っておりませんので、その辺は誤解なきよう願います。
《疫学的な見地から相当に不確かなものであることは今では常識です》については、ソースの提示を願います。

> > つまり、私の「同性愛は精神的な障害、病理ではない」という見方は、事実と合理的、科学的な知見によって支えられているのであって、
>
> 性愛を対象を誰にするのかに「事実と合理的、科学的な知見」を持ち出さなければ判断できないこと自体が、「同性愛」を「異常」とみなす前提がなければ、必要ですらありませんな。

これは相手の論旨の強引な捻じ曲げというか論点のすり替えですね。上に書いたことをよく読みとっていただければ幸いです。

> > J.Marmorらが寄せた報告や多くの精神科医の意見が掲載された米国の当時の雑誌には、「私は同性愛(者)に対する差別的偏見を持っているとは思わないが、彼らの中には生得的に不幸にも抱えてしまった精神的な障害に苦しんでいる者が確かにいると思われる。」という意見を公にする精神科医が少なからず存在しました。このような「差別的偏見を持っていない」と自認していまう医師の意見にはどう対応したらいいのでしょう。
>
> 医師に限りませんが、「自分は差別的偏見を持っていない」と主張しない差別主義者がいたら、お目にかかりたいものです。ヒトラーですらユダヤ人を差別するのに「科学」や「歴史」を持ち出しましたからね。不当な差別なのではなく、ユダヤ人が劣等民族なのは「科学的」かつ「歴史的」な事実であると、アドルフおじちゃんも主張してました。
>
> 差別主義を糾弾するのに、石原慎太郎やヒトラーと「医師」や「学者」のあいだで区別をする必要があるかのようななな様の認識自体が、僕には極めて異常なものに見えますが?

身分や職業で差別意識、観念の有無を区別できるなんてバカげたことを私は言いたいのではありませんよ。
上記のような自らの専門的見解を述べる医師に対して、水原さん自身が何と答えるのかと知りたくてお尋ねしたんですけどね。今回の投稿で私が論じたようなことを少しでも頭に置かれて発言されているのかなと・・・。「精神的な障害に苦しんでいる者が確かにいると思われる。」という臨床に携わる精神科医の真剣な意見にどう応えられるのかというのが、貴方に対する私の根本的な問いかけでもあったのです。やっぱり「差別主義者」一本槍の「論理」でその医師を糾弾することになるのでしょうか?

もしこの質問に水原さんが正面から応えることができないとしたら、それは、例の「憐憫」発言をめぐる議論において、「精神障害」という言葉を用いただけで安易に「差別主義」のレッテルを貼ることの問題性を強く質した水原さんの主張や考えと矛盾するようなものになると思います。