32326 返信 「戦後ドイツにおける報道と国家」その1 URL 梶村太一郎 2005/01/22 07:18

「戦後ドイツにおける報道と国家」その1

 はじめに:
 
 以下は、現在進行中の「NHK特番改ざん問題」を考えるうえで、日本のみなさまの参考になるようにと考え、「問答有用」に数回に分けて投稿します。

 戦後ドイツでは、民主主義実現の媒体であるべき公共放送が、現在、NHKが連日醜態をあらわにしているように、国家の干渉に奴隷のように服従してしまう無惨な状態は、これまでもありませんでしたし、これからもないでしょう。

それは、なぜなのかを考えていただくための、ひとつの参考にと考え、これから数回に分けて、戦後ドイツの報道のなかでも「公共テレビと国家の関係」に重点をおき解説します。

残念ながら,NHKは、すでに公共放送ではありません、国営官報放送です。公共放送を取り戻したいと願うみなさまのご参考となれば幸いです。

             ベルリン 2005年1月

                              梶村太一郎

(なを、この投稿に関しては、転載していただいても結構ですが、問答有用への梶村の投稿であることを、明記してください。よろしく。)


第一章:前史

 報道の自由をめぐる歴史的、社会的な背景は、よく似た近代史をもつドイツと日本といえども、異なる面が多い。このことは、たんなる程度の差にとどまるものではない。良きにつけ悪しきにつけ、ドイツ人には何事を行うにも一種の徹底性(いわゆる deutsche Grunds閣zlichkeit)があることは間違いない。テーマであるメディアにおける表現の自由に関しては特にそうである。その背景としては以下のような史実がある。本論の理解の補助のため、まずこのことについて簡単に述べる。

第一時世界大戦後のワイマール憲法が、当時の世界では最も民主的な憲法であったことは良く知られている。ところが一九三三年のナチ党による政権奪取によりこの憲法は短命におわり、以降、第二次世界大戦終結までは、対極ともいえる一党独裁政治により報道の表現もナチスのイデオロギーに統制一元化(Gleichschaltung・グライヒシャルトゥングというナチスの特殊用語があった)がおこなわれ、表現の自由はほぼ一挙に完全に失われた。
ヨセフ・ゲッベルスの帝国国民啓蒙宣伝省による出版と報道への徹底した仮借ない検閲と、ハインリッヒ・ヒムラーのゲシュタポ(秘密国家警察)による監視により、民主的な言論の自由を主張する者は出版、報道機関から追放され、あるいは予防拘束されて強制収容所に送られるか、あるいは亡命を余儀なくされた。さらに国家反逆罪を裁くために一九三四年に設けられた特別法廷である国民裁判所(Volksgerichthof )では、敗戦までに多くの報道関係者を含むドイツ人市民の約五千二百(5200)人が、死刑判決を受けている。開戦一週間後、一九三九年九月七日に施行された戦時法規命令で敵国の短波放送を聴いただけで懲役刑、その内容を他に伝えた場合には死刑が科せられ、ギロチンで処刑された市民もいた。これは放送罪(Rundfunkverbrechen)と名づけられ、みせしめのため街頭に死刑の執行を告知する張り紙がなされた。

このようにナチスによる言論統制は、当時の日本の戦時の言論報道統制よりも長期で徹底したものであったために、当時の主要メディアであった新聞とラジオは壊滅的な打撃を受けた。
新聞は一九三三年のナチスの権力掌握時には大小含めて約三千四百(3400)紙もあり、それ自体がワイマール時代のメディアの多様性を示していた。リベラルなクオリティーペパーでは、最も伝統のあったフランクフルター・ツァイツング(Frankfurter Zeitung)だけがかろうじて命脈を保っていたが、これも一九四三年の夏にゲッベルスによって発行が禁止された。一九四四年末に民間紙として残っていたのは六百二十五(625)紙で、発行部数で17,5%を占めていたにすぎず、それも内容は徹底的に検閲統制されたものであった。残りの82,5%はナチ党の機関により発行され、その他の月刊誌など定期刊行物は100%が党の支配化におかれた。

電波放送と映像に関しては、これらを当時の新しいマスメディアとしてナチ党が完全に統制しただけではなく、徹底的に利用した(そして成功した)ことは良く知られている。帝国国民啓蒙宣伝省の第三部は放送担当部門であり、ここからラジオ番組の内容を統制した。放送部長のホルスト・ドレスラー=アンドレスは「ラジオはナチズムの統一された世界観を通達する媒体であり、それを聴くことは国家政策上の義務である」と規定した。すでに一九三三年から価格の安い国民受信器(Volksempf穫ger)を生産することが業界に義務づけられ、毎年50万台以上の売り上げがあった。全世帯におけるラジオの保有率は一九三三年の25%から一九四一年の65%まで高められた。その一方で、学校、役所、職場、レストランなどでは重要な政府の放送を集団で聴取することが政令で義務づけられた。この受信器は外国の短波放送を受信できないように製作されていたこともあり、「ゲッベルスの口先 Goebbelsschnauze 」というあだ名がつけられた。一九四〇年の五月からはラジオ放送は国営の「大ドイツ放送」一局に統制され、占領地では軍が放送を直接管理した。

ゲッベルスが直接に手がけた映像の利用に関しては、2003年、百一歳の高齢で死亡したレニ・リーフェンスタールのナチス党大会とオリンピックの記録映画の存在を指摘するだけとする。亡くなるまで彼女はナチスに利用された「無実の被害者」として自己主張を続けたが、ずば抜けた彼女の才能がナチスにとってかけがえの無い宣伝手段とされたことは否定できない。これらの彼女の映画はナチ党と第三帝国を驚くべき映像の効果で、当時の誰の追従をも許さないほど美的に表現したのである。彼女の栄光の陰で、亡命した監督俳優などは約千五百(1500)人に及び、ドイツはこの損失をいまだに回復できないでいる。世界の映画製作の中心はポツダムからハリウッドへ移ったのである。

なお、テレビの定期的放送は一九三五年ベルリンで始まり、一九三六年のベルリンオリンピックの際には実況放送が行われた。そのとき使用されたテレビカメラはベルリンの博物館に保管されている。またベルリンに本社があったAEG社は引き続きブラウン管製造の特許権を保持している。

以上のように、わずか十二年のナチスの歴史によってドイツの言論、表現の自由は致命的な打撃を受け、ほぼ完全に破壊されたといえる。戦後、出版も放送も連合国占領下で全くのゼロから築きあげなければならなかったのである。出版社のなかには亡命から帰還して会社を再建したものもあるが、新聞と放送は、ある程度の人脈は残ったとしても法人としては全く新しいものとして出発している。このことが戦後ドイツのメディアと世論形成の性格を大きく規定しているといえる。

戦後のジャーナリストのあいだでは、ワイマール時代を「民主主義者の不足した民主主義体制」であったとする認識が一般的である。それがナチスの台頭をゆるしたとするのである。
この「民主主義の欠乏をめぐる歴史認識」が戦後のジャーナリズムのテノールとしてあることだけは間違いない。