32525 返信 Re:無防備地区宣言とは何か URL てるりん 2005/01/27 19:46
無防備地区宣言運動とかいう名の内容のないお遊びをしている人が世の中にはいるらしい。何を目的にどんな運動をしようが自由だが、本人がその無内容さに無自覚で、それを本気にしてしまう人が出てくると始末に悪い。今のうちに退治しておかなければ。


> 1 守られない刑法
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> 日本国家には刑法199条があり、殺人罪が規定されています。人を殺してはいけないという行為規範は、ほぼ間違いなく世界中のどこの社会にもあり、法規範はどの国家にもあります。しかし、日本では過去百数十年間、毎年必ず多数の殺人事件が起きています。殺人・強盗殺人・強姦殺人などの被害者は毎年千人を超えます。ほぼ間違いなくどこの社会でもどの国家でも殺人事件が起きてきましたし、現在も起きていますし、将来も起きます。つまり、日本でもどこでも「人を殺すなかれ」という行為規範はおよそ守られたことがないのです。
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> それでは「刑法なんて守られないから意味がない」と主張する人はいるでしょうか。よほどの変わり者以外にはいません。ところが、「国際法なんて守られないから意味がない」という発言は実に多くの人の口から出てくるのです。

法は守られないこともある、国内法でも国際法でも同じだ、というのはちょっと思慮の足りない者がよく使う議論である。国際法と国内法では、「それが守られない程度と理由」が違う。国際法が、特に戦時に守られない理由は、結局法を守らせる力がないからである。刑法が守られない場合があるとしても、警察とその背景にある国家の力が秩序を維持できている限り、われわれは刑法に一定の信頼をおくことができる。しかし、国際法を守らせることができる実力は結局のところ、大国の力だけである。さらにその大国の力が法によってコントロールされているとは必ずしもいえないのだから、刑法と国際法を一緒に扱うわけにはいかない。例えば第二次大戦中の戦争法規に対する違反は、それを犯したのが連合国だろうと枢軸国だろうと等しく裁かれたといえるだろうか?


> 2 法の拘束力--規範・制度・機能
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> 法意識というレベルでは守られていなくても、「警察・検察・裁判所・拘置所・刑務所という刑事司法制度によって担保されているから刑法には意味がある」という説明はもちろん可能です。実際、そういう意味で発言している人が多いのでしょう。また、多くの事件については被疑者を逮捕し、起訴し、有罪となれば刑を執行しているから、それでいいのだという説明が続くことになります。しかし、すべての事件が解決するわけではありません。膨大な殺人事件が未解決のまま放置されています。その事件で殺された被害者から見れば、「刑法なんて意味がない」ことになるはずです。
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> 国際法の場合はまだまだ形成途上ですが、アドホックな刑事法廷(ニュルンベルク、東京、旧ユーゴ、ルワンダ、カンボジア、東ティモール、シエラレオネ)が活動して実績を積み上げてきましたし、普遍的管轄権を持った国際刑事裁判所も発足しました。その意味では司法制度の担保ができ始めたのです。ならば、それを充実・発展させることこそ重要です。ところが、議論がそうした方向には向かわずに、「国際法なんて意味がない」という方向に向かうことが多いのは面白い現象です。国内法でも国際法でも、多くの犯罪者が責任を問われずに逃れているとすれば、どちらであれ真に処罰すべき者を処罰せよと主張するべきなのに、そうはならないのが不思議です。

これも思慮の足りない議論である。アドホックな刑事法廷は、「力を持つ側」「勝利をおさめた側」が作ったものであり、だからこそ裁判が可能になったのである。ニュルンベルクや東京の国際軍事法廷の政治性についてはいうまでもない。だからこそ「国際司法制度を充実、発展させる」ことに対する根強い懐疑と反対があるのだ。国際法に意味がないというのは極論だとしても、所詮国際法は力関係の反映以外のものではありえない。国内法と国際法を混同する幼稚さは、法を成立させる社会の構造の違いがわかっていないことの反映である。


> イラクのアブグレイブ収容所等における拷問・虐待も、ジュネーヴ諸条約違反であるという世界中からの厳しい非難があってようやく、アメリカで一部の軍法会議が開かれ、有罪判決も出たのです。実際に行なわれたことの責任がきちんと問われたとは思いませんが、少なくとも、国際法違反があり、それが発覚し、国際世論が動くことによって、それまでもっとも国際法を無視してきたブッシュ政権でさえも国際法遵守の姿勢を見せなければならなかったのです。それでも「国際法なんて意味がない」と主張する人は、アブグレイブの拷問・虐待の裁判が行なわれず、犯人が逃れたほうが良かったと主張するのでしょうか。

アブグレイブの残虐行為は違法行為として裁かれても、イラク戦争自体の合法性を裁判で問うことはできない。それが国際法の本質的な限界である。


> 人を殺すなという行為規範に違反すれば、国内警察等の捜査機関により捜査が行なわれ、その司法制度の中で裁かれるかもしれないという法規範と法制度のシステムが作動します。同様に、無防備地区を攻撃すれば戦争犯罪ですから、警察等により捜査が行なわれ、国際刑事裁判所が予定している国際協力体制の下で、訴追と処罰が行なわれるよう法規範と法制度のシステムが作動します。そこに基本的違いはありません。あるのは、拘束力の強さの違いに過ぎません。

この文章にも巧妙なごまかしがある。「無防備地区を攻撃すれば戦争犯罪ですから、警察等により捜査が行われ」というが、その警察とはどこの国の警察なのか。結局は勝った国の警察、戦争の一方の当事者でしかない。刑法違反と戦争法違反は根本的に違う。国際刑事裁判所など、条約に加入しなければ何もできない。法の構造が違う。拘束力の程度が違う。法執行機関の公正さが違う。違うことだらけである。この点をごまかしても、議論はむなしくなるだけである。

> 3 宣言の効力と無効
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> 「無防備宣言をしても守られなかった例がある」ということが何かの理由付けの根拠になると考えている人がいること自体、摩訶不思議です。ならば、「刑法は意味がない」と主張するべきでしょう。法意識レベルでも、法規範レベルでも、法制度レベルでも、問題の所在は類比的なのですから。そして、この問題の立て方自体がそもそも不適切であることに容易に気づくことができるはずです。こうした問いのレベルで物事を議論するのであれば、問われるべきことは、「無防備宣言をしなかったおかげで助かった例はあるのか?」でなければなりません。

ここにもごまかしがある。無防備地区宣言をして、それが仮に守られたとしても、当該地区は占領下におかれ、占領軍の支配に服するのである。無抵抗で降伏したことで助かった、それは結構だ、で問題はすまないのである。無防備地区宣言運動の当事者は、この問題に対して何も答えていないのである。



> 4 日本政府は国民を守らない
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> 無防備宣言運動は(すくなくとも私たちは)、こうした議論をするために運動をしているのではありません。21世紀初頭の戦争とテロリズムの時代に、非暴力平和主義をどのように復権・活性化するか、地域からどのようにして平和運動を作り出せるかを考えるための、一つの、しかも最新でユニークな論点として押し出すために運動を展開しています。別の言い方をすると、国民保護法が実際は国民保護を放擲し、国家責任を全面解除し、地方自治体で国民保護計画という無惨で無内容な保護計画(実際は戦争協力強要計画、つまり戦時動員体制づくり)だけが進められていることへの警鐘として意味があると考えています。

非暴力平和主義なるもの自体が、ある種の熱心主義的心情の表明でしかない。国民保護法批判は自由だが、無防備地区宣言運動は、単に無抵抗で占領軍の支配に従う運動をしているにすぎないのであって、それ自体は全く国民を保護するものなどではない。要は、有事法制に反対する政治的手段として、無防備地区宣言が利用されているだけである。無防備地区を宣言すれば、有事法制などいらないというすりかえにすぎない。


> 5 2種の無防備宣言
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> 条例案をごらんいただいた方にはご理解いただけたことと思いますが、私たちが提案している無防備宣言は実は2本立てになっています。
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> A ジュネーヴ諸条約第一追加議定書59条の意味での無防備地区宣言
> B 条例で創設する平時における無防備地区宣言
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> 条例案では、まずBを宣言し、これを国連機関、各国政府、世界のメディアに通告します。これは条約には根拠はありません。日本の運動グループが考えたものです。日ごろから無防備宣言都市となり、そこにおいて平和行政、平和自治体外交、平和教育を実施しようという趣旨です。その上で、もし万が一というときには、改めてAの無防備地区宣言を行い、条約に従って相手国に通告するとともに、Bと同様に、国連機関、各国政府等に公表することを考えています。AにしてもBにしても前例はありません。

Bには法的な意味はまったくないし、Aを国の防衛に対して法的責任をもたない自治体が勝手に宣言することはできない(国家が崩壊して、国家的に統一された意思の表明ができないようなケースは別)。そもそも攻撃してくる相手国は、自治体の長が無防備地区宣言を行い、日本政府がそれを否定した場合、当然後者を有効なものとみなすだろう。またそうみなしたとしても、相手国政府をジュネーブ条約違反には問えないだろう。根本的に中央政府の意思を無視して、自治体だけで無防備地区宣言をできるという考え方自体が無意味であり、破綻しているのである。


> いずれにしろ、無防備地区宣言運動は地域で戦争と平和について考え、議論をしていく運動です。これまでの反戦運動が「**反対」としか唱えてこない傾向があったのは事実ですから、私たちは「**をつくろう」と一歩前に出ることを様々に工夫していこうと思っています。

考え、議論するのは自由であるが、無意味なことをしても「一歩前に出る」ことにはならないのである。戦争と平和の問題について、無意味な幻想をふりまくことは有害なだけである。