32759 返信 Re:「ドイツ語」を話すユダヤ人:ヘブライ語を教えるパレスチナ人 URL 水原文人 2005/02/07 08:55
梶村様、

> > むろん「パレスティナ人」の定義にもよりまして、イスラエル市民権を持つ者を「イスラエル・アラブ」として「パレスティナ人」に入れたがらない人々が主にパレスティナの外、たとえば日本に存在するわけですが、「イスラエル・アラブ」の民族的な自己認識は基本的にパレスティナ人です。イスラエル国内で現実には差別があるとはいえ職業選択の自由は保証されているわけですから教師になるかも知れませんし、また軍隊に徴兵されたときに戦闘部隊に入りたくないときのひとつの選択肢は教育部隊(新移民の新兵などにヘブライ語と英語を教える)です。
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> > どっちにしろ「イスラエル・アラブ」はもちろん、パレスティナ人のかなりの部分は、ヘブライ語ができます。下手すれば、こと専門性があったり高度にインテリ的な会話の場合、アラビア語よりもヘブライ語の方ができる人すらいます。高等教育を受けようとしたら、基本的にイスラエルの教育システムに入らなければならないからです。アラブ文学、とくにパレスティナ文学の世界で最も充実した研究機関のひとつは、エルサレムのヘブライ大学ですし。ちなみにパレスティナ人の教授も多数います。
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> そうですか、すでにそこまでいっていますか。

どちらかと言えば「前からそうだった」に近い話で、今更「すでにそこまで」というほどのことでもないと思いますが。

> であるとすれば、すばらしいことです。

そうでしょうか? 割と当たり前のことであり、むしろそれが「すでにそこまで」とか「すばらしい」と見なされてしまう背景にあるステレオタイプの方が困ったものであるような気もしますが。

たとえば世界各地で発達した様々なベーグルの焼き方・調理法をあの地域で継承しているのは、主にイスラエル・アラブ、というかパレスティナ人のパン屋です。

> 歌謡や演劇の話に結びつければ、山口百恵や松坂慶子が韓国ないしは朝鮮系で、古くは原節子がドイツ系、新しくは宮沢えりがデンマーク系であって、同時に日本を代表するようなことと同じですね。

原節子と宮沢りえについて言えば「混血」です。岡田茉莉子もロシア人のクォーターになります。

> > > アメリカでは、前にも述べましたがイディッシュの新聞もあったり、また文学、演劇も盛んでした。ところが、次第にアメリカ英語に駆逐されました。
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> > 逆に言えば、ユダヤ人の社会的ステータスが上がり中産階級化した結果、ユダヤ人がイディッシュを捨てた、とも言えるでしょう。
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> さらに逆にいえば、イディッシュでは飯が食えなくなったのでしょう。新聞は売れないし顧客は来ないし。

あの…。別にイディッシュ語を使っていたユダヤ人がイディッシュ語新聞を発行する側だけであったなんてことはないと思いますが…。「新聞は売れないし」はあまり関係ないのでは? どうせ英語とのバイリンガルないしトリリンガルになればいいだけの話であれば、コミュニティの言葉として残ったとしても不思議はないと思うのですが…

> それに、見過ごしてならないことは、アメリカではイディッシュがそれほどには差別されなかった(ドイツ系移民からは差別がありましたが)ことです。

アメリカ合衆国の社会における反ユダヤ主義もまた激しいものがありましたが。戦後アメリカでの反ユダヤ主義は、地方にもよりますがナチス以前のヴァイマール時代のドイツとどっこいどっこい、といったレベルではないでしょうか? 

> つまり、であるからこそ便利なアメリカ英語に移行することができたのではないかとおもいます。

既に申し上げたように、バイリンガルなりトリリンガルになれば済むことであり、イディッシュ語がなくなることにはならなかったように思えますが。移行することもないでしょう。

>移民国家ならではのアメリカ社会の包容力が背景にあると思います。

アメリカ社会をそこまで理想化するのもいかがなものかと。多くのユダヤ人がユダヤ系であることを隠して生きて来た現実もありますよ。まあこの場合はアメリカに来る前に改宗してますが、カトリックでアイルランド系ということになっているジョン・ケリーも先祖はユダヤ系ですし。

> > ただそれを言ってしまえば、ナチスの虐殺がなければイスラエルは存在していなかったとか、アメリカにあれだけユダヤ人はいないだろうとか、もっとスケールの大きな話になってしまいますし、「歴史のもし」を語ることにしかならないと思いますよ。
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> よく、歴史修正主義の歴史の脈絡の説明でごまかされるのが、ホロコーストとイスラエルの建国との関係です。シオニズムのパレスチナ移住運動は、ナチスよりもはるかに古く

それはその通りで、シオニズムの勃興はむしろ19世紀末のポグロムの激化と密接な関係がありますが、社会主義で無神論世俗主義のシオニストは、当時のヨーロッパのユダヤ人のあいだでは一部の中産階級出身の理想主義的なインテリが主で、そこまでユダヤ人コミュニティ全体から受け入れられた運動ではありませんでした。

> ホロコーストがあろうがなかろうが、イスラエルは成立していたことは確かです。

少なくとも今の形で、1947年に国連の承認を受け、48年5月に独立ということはなかったでしょう。国連が、とくにアメリカのイニシアティヴでイスラエル独立を承認したことは、やはりナチス時代と第2次大戦におけるユダヤ人の悲劇と無関係ではないでしょう。

またパレスティナへのユダヤ人移民が爆発的に激増するのは30年代のナチス政権移行と、戦後45年以後です。そして社会主義で無神論・世俗主義で、正統ユダヤ教からすれば異端であり冒涜であったイスラエル建国に、どちらかといえば宗教的であったあれだけ多くの移民が関わることになったとは、ナチスとホロコースト抜きには考えにくいです。

> それどころか、ヒムラーはイスラエル建国を促進しようとしたのです。
> この複雑怪奇な問題については、ひょっとしたらご存知かもしれませんが、

ご存知ですし、もう一人の悪名高き反ユダヤ主義独裁者、ヨシフ・スターリンのユダヤ人自治共和国構想というのもありますよ。そこまで複雑怪奇でもないでしょう。要は自分達の社会のなかにユダヤ人がいなくなればいいのですから。


> > そういった傾向があること自体を、tpknさんは問題にしているのではないかと思いますが。ちなみに僕も問題視していますし、ことユダヤ人のホロコーストの記憶を背負ったパラノイアには、時々うんざりします。本気でアラブ人が、ナチスがやったようにユダヤ人を皆殺しにするつもりなのだという妄想は、そう思ってしまうことを理解はできますが、本当にあの土地で生き続けたいならある程度は忘れた方がいいでしょう。少なくともその選択肢は考えた方がいい。
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> それは、第三者はだれでも考え、感じることです。出口がありませんからね。

当のイスラエル人でそれを主張している人も決して少なくありませんよ。そうでなければ第三者である僕が思ってはいてもそう易々と口に出せることはできませんから。

> しかし、第三者がこれを「パラノイア」と決めつけることは出来ないと思います。

本気で「地中海に追い出される」と未だに思っているとしたら、パラノイアです。

> イスラエルの孤立感は歴史的な体験からしても、当然ながら私たちには理解できない深刻なものがあります。

だからその歴史的体験から一定の距離を置くことも、今のイスラエルが置かれた現状では必要だということです。まさにイツハーク・ラビンが主張したことの根っこもここにあります。もちろんサブラであったラビンは、ホロコースト体験者ではありませんが。

なんだかラビンにナチスのゲシュタポの制服を着せたカリカチュアを流通させたイスラエル内の右派を彷彿とさせる御発言にも響きます。

それに実際的な生活上の体験では、建国以来よくも悪くも「孤立感」は現実レベルではさほど存在しないはずなのです。あそこまでアラブ人世界との相互依存があれば。

> イスラエル人ならば「忘れられるものなら忘れたい」と答えるでしょう。

誰も記憶そのものを消し去れ等とは申しておりません。ただ自らを「被害者」としてのみしか規定できない歴史観そのものの問題性を認識しなければならないのではないか、ということです。ちなみにシオニズムがすでにこの思想的・歴史的大転換を内包した政治思想でもありました。

> > 当事者の世代であればやむを得ないとは思います。でもトラウマの歴史を民族アイデンティティの意識/無意識の中枢に据えてしまうことには、大きな問題があります。イスラエルとパレスティナの50数年の歴史は、お互いの歴史的トラウマを強調することで自らの正当性を確保しようとする不毛な競争になりつつあります。この対立の構図自体をなんとかしなければ、共倒れになるしかない。歴史は歴史として、それを冷静に受け止めながら未来を志向すべき段階に来ていると思います。
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> 面白いのは、唯一の生存者の議員(野党党首)が歓迎のあいさつで「ドイツ語はナチだけの言葉ではない。へルツェルは『ユダヤ人国家』をドイツ語で書いたし、ハイネの詩もそうだ。言語に罪は無い」とさとしました。彼の演説は非常によいものでしたから
> ビデオに撮ってあります。わかっているひとはちゃんといます。

実をいえばホロコースト生存の当事者の方が、よりよく分かっていることが多いのです。むしろ実体験でなく教育的環境のなかで「被害者の歴史」を刷り込まれた世代の方が、より教条的なパラノイアに陥っている場合が少なくありません。

個人の記憶を民族の集合的な記憶へと読み替えようとする国民国家的な運動性のなかで起こりうることであるのが問題なのではないか、と考えますがいかがでしょうか?

> > 少なくとも退場しなかった議員たちや、イスラエルではじめてヴァーグナーを生演奏したダニエル・バレンボイムのような人々の側に、僕自身は自らの政治的立場を置きたいと思います。
> >
> > もっとも、ヴァーグナー自体が音楽的には嫌いなんだけど…
> >
> 丸山昌男は大好きだったようですが、わたしも嫌いです。バイロイトなぞ行きたくもない。

そうですか? ヴァーグナーが嫌いなのはブラームスが嫌いなのと同程度のことで、反ユダヤ主義とかの表層的な政治性の問題で嫌いなのではないのですけど。あの音楽の構造、ライトモティーフをやたら繰り返す物語音楽というのは、人間関係の単純化した理解につながるのであまり好きではないですけど。

ただバイロイト祝祭劇場は建築的には興味深いので、一度見てみたいと思いますけれど。

> > イディッシュ語の消失までナチスのホロコーストにその原因を一元的に求めてしまうのは、極端に過ぎることだと思いますし、イディッシュ語を第1言語として来たユダヤ人自身がその言語を捨てようとした、あるいは捨てざるを得なかった現状を無視していることになると思います。
> >
>
> 上述のように、ホロコーストは決定的であったと思います。

しかしユダヤ社会自らがディアスポラであり続けた時代、あるいは抑圧され続けて来たユダヤ人の言語であったイディッシュを否定しようとして来たことは見落とせないと思いますよ。「決定的」な理由だけに原因を一元化する発想は、多様な個々人によって構成されている「民族」というものを誤解し、全体主義的な理解に陥ってしまう可能性を常に内包していると思います。こと被害者であること/被害者であったこと/被害者になる可能性」を潜在的な動機としてそこに求心力を求めるナショナリズムの文脈にかっこうな言い訳をあたえるという点では、あまり組したくない単純化であります。

> > だいたいポーランド人がヨーロッパ、とくに中欧では「バカ」の代名詞のようになっていることのパラレルとして、アシュケナージでありながらポーランド系ユダヤ人はイスラエル社会において必ずしもエリートではありません−−というか、バカにされているところがあります。まあ確かに、ポーランド人というのは困った”人種”なんですけど(いいかげん、単純、やたら感情的、すぐ泣く、被害妄想、なんでも人のせい、なんの根拠もなく自分達は世界一だと思ってる、狂信的なカトリックで狂信的なナショナリスト、などなど)←あくまでステレオタイプです。
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> これは、水原さんらしくない。まるで、韓国の嫌いな日本人の感覚と瓜二つではないですか?

そうでしょうか? 現にポーランド人が狂信的なまでのナショナリズムを持った社会を構築していることは、フランス同様ヨーロッパのなかでかなり困った傲慢な存在であると思いますが。むろん個人レベルではそういう人が多いというだけで、例外はいくらでもありますが。

> ポーランドと韓国、朝鮮との歴史が似ていることは確かですが、だからといってステレオタイプな先入観は止めた方がよいでしょう。

先入観ではなく実際にいいかげん、単純、やたら感情的、すぐ泣く、被害妄想、なんでも人のせい、なんの根拠もなく自分達は世界一だと思ってる、狂信的なカトリックで狂信的なナショナリストはありますし、ポーランド文化自体がそこに開き直ってる面すら、国民的叙事詩である『パン・タデウシュ」などに見て取れますが。