| 32805 | 返信 | にせユダヤ人 | URL | スクイボン | 2005/02/09 17:54 | |
| 最近聞きかじった「日本教」という概念についてダラダラと書いてみました。長文ですいません。 食堂で手の届かない位置にある醤油を友人にとってもらったとき、自分の失敗の尻拭いを上司にしてもらった時、探し物を他人に手伝って貰った時、「わりぃ」とか「申し訳ありませんでした」とか「すいません」とか口走ったことは無いだろうか。もしあるのなら、それは貴方が「日本教」の敬虔な信者であると信仰告白をしたに等しい。 そもそも宗教、特に一神教社会における宗教とは、価値観であり世界観であり倫理観である。決して死の恐怖を緩和するための鎮痛剤ではない。それはによって社会に秩序をもたらすと同時に人の行動を決定することで国家・文明の進路を規定してしまうものなのだ。 人は他の生物とは異なる。言葉を持つことで文化を継承し、歴史を積み重ねてゆく。だからこそ人は過去数百万年にわたって祖先が蓄積した知識と技術を己の物として活用でき、それ故すべてをただ一匹で考える他無い他の獣達を圧倒し、地球を征服することに成功した。人の知性とは、ただ巨大な大脳にのみ依存しはしないのだ。 しかしそれ故、人の中の文化や歴史という名の情報は肥大化を続け、今や本能を圧倒するまでになってしまった。その中でも、本能に代わって人の行動を支配する文化。それが一神教社会における“宗教”なのである。神や死後の世界を語らぬ儒教が“教”なのも、儒教が行動を支配する宗教の一種であるからだ。 そしてこのような宗教は無論、日本社会にも存在している。ただ、聖典も教義も聖像も無いが故に、人々の目に触れることが無いだけである。先に上げた“信仰告白”はその見えざる信仰が日本人の行動を支配して言葉を吐かせている、一つの例証なのだ。 日本人の子供はまず、「他人に迷惑をかけるな」と教育される。人様、世間様に迷惑をかけないことが、“日本教”の根本原理の一つであるからだ。そして他人に親切にされた時、異民族であれば「サンキュー」と発言すべき場面で日本教信者は「すいません」と口走ってしまう。これは他人に迷惑をかけることを最も忌むべき罪悪の一つと考える日本教徒の思考の中で、親切にしてくれた相手に対し、感謝の念よりも「手を煩わせてしまった」「人様に面倒をかけてしまった」という罪悪感が先行してしまう為である。「サンキュー」というべき場面で「すいません」と言ってしまう。それはその人物が日本教を自らの血肉として完全に体に染込ませている査証なのだ。 大いなるユーラシアでは諸民族が激しく移動する。そのような世界で秩序を維持するには、善悪の規範を聖典や教義として明文化する必要があった。一方小さな島国であり巨大な“ムラ”でもある日本では、ハッキリとした教義や聖典など無くても何となく善悪の基準を皆が共有できた。共有できない奴はムラハチブすればそれでよかった。 様々な民族が入り混じるユーラシアで教義を権威付けるには人間を超える存在、ゴッドやアッラーや孔子といった聖人・超越者が必要だったが、狭い日本では一々権威付けなどする必要は無かった。それ故、一神教社会の神は人の精神の血肉を創る“肉やパン”であったが、日本のそれは単なる飴玉にしかなれなかった。日本において神とは、現世利益や死後の平安を期待しクリスマスなどのように祭りを楽しむ口実として利用する、いわば嗜好品に過ぎなかった。 そして日本人は、異教徒の信ずる神も、栄養にならなぬ飴玉に過ぎないと大いなる誤解をし続けているのだ。少なくともつい最近まで自分もそうだった。 しかし日本には断固として宗教が存在する。そして日本教徒は目に見える宗教を常に軽視し、あるいは自らを無神論者だと思い込むことで、消極的に、しかし徹底的に外来宗教を弾圧し続けている。日本における宗教的無関心は、同時に見えざる宗教=日本教の日本列島内における優位性を絶対的なものにしているのである。 日本は江戸時代以来四百年、内戦らしい内戦を起こしていない。幕末維新でさえささやかな混乱であった。あの戦争で大量の難民が出たとは聞かないし江戸の町も焼けずに残った。勝ったほうも負けたほうも、実にあっけなく戦争をやめてしまった。 このあまりに平和な日本の状況を、多神教の寛容性から説明しようとする言説がある。しかしそうだろうか? 大日本帝国時代、植民地への徹底した同化政策を実施した日本に、果たしてそのような寛容さがあるだろうか? 日本の平和は他でもない、日本国内に異教徒がおらず、宗教対立が存在しないおかげだ。安土桃山から江戸時代初期までは積極的に、その後今日に至るまでは消極的に、しかしいずれにせよ徹底して異教徒を弾圧して国内の日本教徒率を100パーセントに近づけてきた。幸い海のおかげで異教徒が武力を背景に大挙進入してくる事も無い。その成果として今の日本の平和があるのではないか? 仮定の話だが、もし日本が太平洋戦争に勝利し、その後民主化したとしよう。アラビア海から中部太平洋に至る広大な領域とその沿岸諸国に“大東亜共栄圏”が建設され、その上で民主化した日本。そのとき世界はどうなっていただろうか? 一神教を奉ずるアメリカよりも日本はアジアを上手く統治できただろうか?(因みに、日本が自力で民主化した可能性は太平洋戦争勝利の可能性より遥かに高い) 答えはNoだろう。日本教徒は他者に自分の価値観を押し付け、同化させようとする傾向が極端に強い。おそらく、キリスト教徒以上だ。巨大な“ムラ”日本がその証拠であるし、朝鮮・台湾という実例もある。台湾は最も成功した植民地統治という説もあるが、それを中近東に適応したらどうなる? ツィンタワーの代わりに東京都庁か東京タワーが崩れ落ちるのは、まず間違いなかろう。 しかしこの事を自覚している日本人は少ない。一般人は無論、知識人階級によって作成されているはずの新聞も、そして政治達もこの事に無自覚に過ぎる。そんな民族が、果たして世界の多様性を語り異文化の交流を推進する事などできるのだろうか。 少なくとも西洋には「神は死んだ」と叫んだ人物がいる。しかし日本人は、そもそも自分たちを支配する信仰に気づいてもいないので、殺すもくそも無い。自分達は何者かを自覚しない限り、この国は永遠に国際政治の舞台で重要な役割を果たすことは無い。 話し変わりますけど、“日本人”について面白いことを言う人ってクリスチャンが多いですね。 |
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