33535 返信 Re:左翼の方に質問です。 URL 渡辺 2005/03/11 17:11
これは、tpknさんの『32574 Re:左翼の方に質問です。』2005/01/29
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=32574&range=1 
に対する返信です。
元投稿に対する返信状況は下記urlでみることができます。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_thread?base=32565&range=1
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 遅くなりましたが、返信いたします。
 なお、返信が遅くなった理由は、諸事情で忙しかった他にも、まず元投稿を書いた なっちさん の応答を待つべきだと思ったからです。しかし、ご本人からは、誰の返信に対しても応答はなかったようです。
 もっとも、「初めて書き込みます。よろしくお願いします えっとですね。」という調子の書き出しの人は、あちこちに同種の投稿を書きまくるだけで、返信など見ていない可能性大なので、あまり期待はしていませんでしたが。

tpknさん:> 横レス失礼します。
> 「左翼の方」のことだと思いますが…。「左翼思想ではありません」と自称している人が、なんでわざわざ反問するの?(藁

 なっちさんの投稿内容に対して思うところがあったので返信しました。
 記事の宛先や対象になっていないはずの思い掛けない人から反応がくるという経験があるのですが、私はそういうことに疑問をもったことはありません。しかし、「左翼の方」に宛てた投稿に「左翼思想ではありません」という者が返信することに抵抗のある人がいることがわかりましたので、これからは、そういう点について説明をして本論に入りましょう。

 さて、なっちさんは「左翼思想の人は」としているのですが、その先に書かれていることは、「左翼思想の人」だけでなく、私を含めてもっと広い範囲の人たちに向けられていると感じました。そこで、返信をいたしました。

 以前、本宮ひろ志ファンの掲示板を荒らしている"ネット右翼"の一人について、他の掲示板でどういう投稿をして、どういうトラブルを起こしているか、少し調べたことがあります。
 その人物は、平和、人権、反戦に関する掲示板をターゲットに投稿していました。そういえば、小林マンガでは、「マルクス主義の影響のある者」を漢字で左翼とし、『無意識に「人権」などの価値に引きずられ反権力・反国家・市民主義になる者を「サヨク」とカタカナで書く』と分類されていました。「人権」「自由」「個人」「反戦平和」を掲げる「戦後民主主義」は「サヨク」だそうな。[1]どうやら、なっちさんのいう「左翼」には、『「人権」「自由」「個人」「反戦平和」を掲げる』私のような者も含んでいるようです。これは、物事を二極対立的に設定するという誤った思考に陥っている結果です。

> この板ではノンポリと森永さんですね。ちなみに、彼らのそういう言説を渡辺さんが批判しているところを見たことはありませんが、まあ目に入っていないのでしたらしかたありませんね。「自分の家族の不正を許しません。我が家の不正を正してこそ、よその家族にも強く主張ができるのです」という主張との乖離を感じます。

 tpknさんは、なっちさんと同様に物事を二極対立的に設定するという思考回路に陥っておられるようです。
 ノンポリさんと森永和彦さんは、私の「自分の家族」なのでしょうか(^^?
 私は、ノンポリさんと ほとんど対話したことなく、森永和彦さんについては意見の一致をみたことがありません。なぜ、この方々が私の「自分の家族」で、しかも、わざわざご両人を私が批判しなければならないのでしょうか?
 この方々を、私の「自分の家族」と感じるのは、物事を二極対立に設定し、ノンポリさんと森永和彦さんがtpknさんの側ではなく私の側に位置しているとの思い込みによるものです。

 そもそも、私は、「身内」=「日本」という、なっちさんの問題設定を否定しています。
 日本政府・軍や日本国民が行った不正について、それを行った彼らは私の身内ではありません。領収書偽造などの不正を行った官僚が、わたしの身内でないことと同様です。ですから、「自分の家族」論は「仮に、身内としましょう」となっちさんの認識に合わせて述べたものです。
 最後に、羽仁五郎が1946年に日本の歴史が批判的に扱われることについて書いていますので、どうしても「身内」=「日本」としか考えられないかたのために、参考として引用しておきます。

註[1]小林よしのり『戦争論』幻冬社、1998年、pp.24-25

-- 参考 --
日本歴史の特殊性 1946

   1
 現在日本の歴史がもっぱら批判的にとりあつかわれている。このことについて、日本の歴史上の罪過をあばくことを主とし日本民族の誇りをまったく失わせてしまうことは正しくない、という意見がある。この種の意見が、多くのひとびとの間で行なわれているようだが、はたして、そうだろうか。
 同じような意見が、まえに、日本で、クリスト教に対してもちだされたことがある。クリスト教は、人の罪ということをきびしくいう。しかし、自分にはべつにそうきびしくいわれるようなおぼえはない。それに、罪、罪と、そう罪のことばかりいわれると、人の心が暗くなる。クリスト教は罪人の宗教であるか。もっとあかるく説くべきではないか。――というような意見であった。
 しかし、クリスト教が宗教としてもっとも深い信仰をなしているのは、正にこの点にあるのではないだろうか。人が自分の罪をもっともするどく自覚するとき、人はもっともふかく救いを求めるのではないだろうか。自分に大した罪はない、と思えば、自分が救われねばならぬということを、そう深く感ずることもないわけだ。自分の罪の深いことを痛感するとき、人は何としても真実の救いを求めずにはいられないのである。
 歴史においても、正にそのとおりである。わが国民がいま自ら自己の歴史の罪過を果敢にあばこうとしているのはいいかげんな民族的誇りなどというものをなげすてて、真にわが国民の救いを求めているすがたなのである。いいかげんな民族の誇りなどというものに執着したり、民族の誇りが失われたなどといったりして、わが国民の罪過の真実の反省を阻止しようとしているひとびとは、わが国民の真実の救済をこいねがっていないのではあるまいか。
 (以下省略)

[斎藤孝編集・解説『羽仁五郎歴史論抄』筑摩叢書302、1986年、pp.220-221]
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