34040 返信 日本軍の残虐・暴行写真 (1)多数の写真の出現は1938年限りの現象 URL 渡辺 2005/04/01 00:11
この投稿は、日本軍の残虐・暴行写真の一部で、
30424『日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期』2004/10/29
への追加記事です。
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日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期
多数の残虐写真の出現は1938年限りの現象

 前稿の「(1)写真の出現した時期」で述べたように、日本軍の残虐・暴行行為を写した多数の写真が現れたのは、1938年であり、China Weekly Review 10月29日号を境に、新しい残虐写真が雑誌や新聞に掲載されなくなった。
 まず、写真が1938年1月から掲載され始めた理由は、南京が陥落し、戦闘が一段落して写真を撮影したり現像する余裕がでるようになり、その写真処理の過程で斬首などの残虐写真が写真店から流出したり、あるいは販売された結果である。
 次に、1938年10月末以降に新たな残虐写真が現れなくなった最も大きな理由であるが、日本軍の残虐・暴行写真が海外のメディアに掲載されたので、日本軍でなんらかの対策がとられた結果、写真が現れなくなったものではないかと前稿では書いた。その根拠の一つは、上海で当時ニューズキャスターをしていた Carroll Alcottが、日本軍当局によって残虐写真の販売が禁止され、後に撮影も禁止されたと著書に書いていることであった。[1]

 その後、日本の公文書の中に戦地での写真撮影に関するものがないか調べたところ、1938年10月24日付で「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」が中支那派遣軍によって定められたことが分かった。[2]
 この規定では、戦地で軍人軍属が撮影した写真により軍機が漏れることを防ぐ目的だけではなく、「 殘虐性ヲ感セラルル寫眞」、「不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞」、「國際法違反ト感セラルルモノ」などを「逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ」として撮影禁止している。その上、現像焼付の項を設け、憲兵指定の邦人の写真店で必ず日本人が処理を行うことや、没収された写真の費用負担、あるいは規定違反の写真の発見者には通報義務だけでなく、その写真が「散逸」しない責務があることなど、こと細かく規定している。
 規定が、写真店の現像焼付処理について細かく規定していることから、戦地で撮影された写真が写真店から流出していたこと、写真店で働いていた中国人が余分の写真を持ち出していた事実が背景にあったことが推察される。
 Carroll Alcottは、残虐写真の禁止という側面のみから見ているものの、1938年当時の状況を正確に記述していたわけである。また、この規定が10月末に定められたことと、China Weekly Review の同じ月の29日号を最後に同誌が残虐写真を掲載しなくなったことは、偶然の一致ではなく、残虐写真が10月末に上海から消えた結果と言えよう。
 結局、日本軍の残虐写真が多数現れたのは、1938年限りの現象であり、戦地での写真撮影の規制や現像処理への取締りにより、あらたな日本軍による残虐写真が生産されなくなった事実が、Carroll Alcottの証言と中支那派遣軍の取締規定によって説明されるのである。

-- 脚注 --
註:[1]Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, p.304
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 写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。
 彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。
 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。
<一部省略>
 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。
 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。(引用者訳)
[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]
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註:[2]「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」(昭和13年「陸支密大日記59号」)
出所:アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04120598600
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陸軍省受領 陸支密受第一二一六五号
昭和十三年十月二十四日
<一部省略>
軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締
規定本冊ノ通定ム
昭和十三年十月二十四日
中支那派遣軍司令官 畑 俊六

軍人軍属寫眞撮影製作取締規定
第一総則
一、本規定ハ軍隊及軍人軍属ノ寫眞(活動寫眞
ヲ含ム)撮影竝製作ニ關シ必要ナル事項ヲ
規定シ軍ノ機秘密ヲ保護シ且軍ニ不利
ナル宣傳材料ヲ外人ニ獲得セラレ若ハ
日本国内ニ配布セラルルヲ防止スルニ在リ
二、各隊長ハ部下ノ寫眞撮影及製作ノ取
締ニ關シ責任ヲ有スルモノトス
第二撮影禁止
個人ニ於テ撮影ヲ禁止スヘキモノ左ノ如シ
一、軍ノ機秘密ニ關スルモノ一切
イ、機秘密兵器資材ニ指定セラレタルモノ
<一部省略>
二、逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ
イ、殘虐性ヲ感セラルル寫眞
ロ、不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞
若ハ日本軍ノ戰意ヲ失ヒタルカ如キ感ヲ
抱カシムルモノ
ハ、國際法違反ト感セラルルモノ(外國権益地内ニ
於ケル行動等)
ニ、<省略>
ホ、戰死傷者ノ寫眞ニシテ悲惨ナル感情ヲ
惹起セシムルモノ
ヘ、支那軍ノ宣傳用傳単若ハ文章ヲ
撮影セルモノ
第三現像及焼付
一、現像及焼付ハ部隊内ニ於テ行フカ若ハ其
地ノ指定寫眞店ニ於テ行フモノトス
二、指定ノ寫眞店ハ軍人軍属ノ寫眞ハ必ス
日本人ノ手ニ依リテ處理(現像焼付)ヲ行フモノトス
三、部隊ニ於テ撮影セルモノノ中本規定第二ニ示
セル事項ニ該當スルモノヲ現像若ハ焼付ヲ
行フ場合ニ於テハ軍ノ寫眞製作所ニ於テ
行ヒ市井ノモノニ註文セサムルモノトス
状況己ムヲ得ス市井ノ指定寫眞店ニ依
托セントスル場合ニ於テハ必ス監視者ヲ製作
現場ニ配置シ監督セシムルモノトス
四、寫眞ノ處理ヲ依托セントスルモノハ所属部隊
及階級氏名ヲ寫眞店ニ告クルモノトス
寫眞店ハ右事項及處理事項ヲ記録シ置
クモノトス
五、寫眞原板ハ依頼者ニ全部返付スルモノトス
又焼付ノ過数ハ總テ焼却スルモノトス
六、寫眞店ハ原板中機秘密ニ属スルモノ若
ハ逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノヲ發見
セル場合ニハ直ニ最寄憲兵部隊ニ届出
テ其指示ヲ受クルト共ニ該寫眞ノ散逸セ
サルコトニ責任ヲ負フモノトス
七、指定寫眞店ナキ場所ニ於テ寫眞現像焼
付ノ處理ノ必要アル場合ニ於テハ部隊毎ニ
取纒メ確實ナル監視者ヲ附シ處理ヲ
監督セシムルモノトス
第四寫眞店の指定
一、憲兵ハ其地ニ於ケル日本人寫眞店中適
當ナルモノヲ指定寫眞店トナシ
之ニ其ヲ付輿ス
二、<省略>
三、指定寫眞店ハ見易キ位置ニ「陸軍指定
寫眞店」ノ標札ヲ掲クルモノトス
第五檢閲
一、指定寫眞店ニ對シテハ憲兵ハ随時檢
閲ヲ實施スルモノトス
二、取締上必要アリト認メタル寫眞ハ憲兵
ノ各隊長ハ製作ヲ禁止シ又ハ没収ス
没収セル寫眞中宣傳ニ利用シ得ルト認ム
ルモノハ憲兵ヨリ報道部ニ送付スルモノトス
三、指定寫眞店以外ニ於テ處理セル場合
ハ該寫眞ハ凡テ没収スルモノトス
四、没収セル場合ニ於テハ之カ證票ヲ寫眞
店ヲ通シ依頼者ニ交付スルモノトス
五、没収セラレタル寫眞ノ代金ハ没収ノ證ア
ルモノニ限リ依頼者ヨリ支拂ヲ受クルコトヲ得
第六報告(通報)
一、<省略>
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