| 34146 | 返信 | Re:黄緑色のランドセル。及び犬儒派。 | URL | 八木沢 | 2005/04/09 05:15 | |
tpkn氏。 >この話は面白いですね。本来ならこれは左翼の主張であるはずなのだが、それがこの場で、このタイミングで右翼である八木沢さんからなされることによって、竹島問題その他に関する左翼陣営の思想的ねじれを的確についていると思う。 「左翼陣営」にとっての鬼門は「自由」と「原爆」だと私は思う。この二つについて議論するとき、連中はしばしば馬脚を現わす。原爆については、tpkn氏も覚えておいでだと思うが、かつて高橋なんとかというイタいおっさんがトンチンカンなことをくっちゃべった挙げ句に大恥をかいてこの掲示板から逃亡する羽目になったし、最近だとinti-sol君によって戦後60年の核廃絶運動が水泡に帰すような珍説が披露され、その二の舞がまさに演じられようとしている。 「ランドセルの色」が「個人の信条」の暗喩であることをtpkn氏が唯一見抜いたことを、私は光栄に思う。一方で、「小異をおいて大同につこう」と叫ぶ左翼運動家がいる。より大きな目的のためなら個人の小さなこだわりを捨てるべきだという意味であるが、いったい何が小で何が大なのかを考えることも含めて自分と他者との違いを追求し、全肯定するのがまさに自由の根幹をなすものであり、それを捨てよという左翼運動には、入ったが最後、自由がないということが図らずも露呈したわけだ。私はあえて言いたい。大同はさておき小異にこだわれ、と。グローバリズムより、ナショナリズムを、ナショナリズムより、リージョナリズムを、と。そして行動の決定権は最終的には家族へと、個人へと戻すべきであろう。個人の小さなこだわりこそが人間が生きる上でどれだけ大きな支えになるか、全体主義者の自覚を持たない運動家の薄ら寒いスローガンに、しかし誰も乗らなくなって来ているのが幸いだが、根本の勘違いに気づかぬ愚鈍な輩が、さらに「小異を捨てよ」と絶叫して悪循環を繰り返すのが、「運動」冬の時代の現実である(まあ、正直どうでもいいんだけどね)。 梶村氏はtpkn氏を罵倒した。「シニシズムを憎む」「シニシズムだけは敵だ」と。通常「犬儒主義」と訳されるこの魅力的な言葉が、こうまであからさまに「悪口」として使用された例を、私は他に知らない。2002年上半期の半年間、日本の代表的な犬儒主義者・呉智英が毎日新聞夕刊に連載したコラムは一冊にまとめられ、そのまま「犬儒派だもの」というタイトルで出版されている。プラトンの時代の、同時代の哲学者ディオゲネスは樽の中に住んでいた。ある日、ディオゲネスに興味を持ったアレキサンダー大王が彼のもとを訪れ、お前の望みを述べてみよと言うと、そこをどいていただくのが望みです、日光浴の邪魔ですからと答えた。シニク(キニク)の語源は、その中心地がキノサルゲスであったことからという説と、ディオゲネスら同派の哲人の生活スタイルからという説がある。それゆえ、明治期にこれに「犬儒」という漢字があてられたが、ディオゲネスは実際に自らを犬に喩えたことがある。野良犬の如く、自らの求めるスタイルにのみ忠実で、世間の動きに距離を置く人間が、梶村氏には「憎むべきもの」「敵」に見えるらしい。 梶村氏はtpkn氏を罵倒した。「シニシズムを憎む」「シニシズムだけは敵だ」と。通常「犬儒主義」と訳されるこの魅力的な言葉が、こうまであからさまに「悪口」として使用された例を、私は他に知らない。そして、こうまであからさまに恥ずかしい「ジャーナリスト」を、私は他に知らない。 |
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