34484 返信 「怒り」が支配する行動に、理はあるか。 URL 八木沢 2005/04/20 15:18

 inti-sol氏。

>映像で見る総領事館を襲う群衆の姿は、とてもじゃないが「怒り」が行動を支配しているようには見えませんでした。彼らは日本軍国主義に対する真摯な怒りから行動しているというよりは、ただ単にお祭り騒ぎの延長線上として、暴動を楽しんでいるように見えました。

 「怒りが行動を支配する」ことがあたかも正当なことであるかのような記述になっているが、要するにこれが左翼の基本的な発想なのである。以前、その行動の動機として右翼は「悲しみ」を、左翼は「怒り」を共有しようと考えると申し上げたところ梶村氏から、「どういう意味か」と質問があったがそのままになっていたので、それへの回答を兼ねて考えたいと思う。

 その行動が妥当なものかは、正確な事実認識に基づく論理的なものであるかどうかを最低限の基準として考えるべきであろう。およそ「怒り」などという感情によって支配された行動に多くの場合理はないし、それならむしろ「お祭り騒ぎ」であったほうが救われると私は考える。はっきり言って、日本人留学生を日本人であるという理由だけでビール瓶で殴るほどの怒りを我が国に対して感じているとしたら、その怒りは完全な誤解によるものと考えるのが常識である。

 「怒り」は他人と共有できない。しかし、これをやろうとするのが左翼である。しかし運動の動機としてそれを試みようとすれば、ただの「怒り」ではなく「激しい怒り」を呼び起こす必要がある。実は、激しい怒りとて共有など出来ないのだが、成功の可能性は高まるような感じはなんとなくする。日本のやったことは単なる植民地「経営」ではなく、植民地「支配」でなくてはならないし、さらに社会にあまたある支配・被支配の一般的で没個性な抑圧関係ではなく、そこに暴力や殺人や、略奪、レイプといった反社会的行為が多数介在したことにせねば、激しい怒りは呼び起こせない。こうして、「怒り」の拡大再生産のために多くの真偽不詳の種がばらまかれ、怒りを行動の動機にさせたい勢力と、怒りを行動の動機にするしか能のない単純な輩どもが連なる地獄絵図が展開される。こんなものがまともな社会運動に発展しないのは、火を見るより明らかである。にも関わらず、成功しないことからその原理自体を疑おうともしない彼らは、新たな種を次から次へと投げ入れて「怒らないのはなぜなんだ!」と逆上してみせているのが、今の衰退する日本の左翼運動であり、まんまとうまくいったケースが昨今の中国の狼藉である。

 左翼が致命的に馬鹿なのは、「北朝鮮による日本人拉致」をめぐる動きを、自分たちがやっている「怒りの拡大再生産活動」の右派版だと認識して的外れな反発姿勢を見せているところである。「拉致は許されません。しかし」というアレである。「在日朝鮮人に対する嫌がらせはあってはならないことです」。
 しかし、拉致を憎むあまりに無関係な朝鮮人を攻撃するという行動原理は、極めてイデオロギッシュなものであり、まともな右翼活動には本来なじまないものである。むろん、イデオロギッシュな動機によってしか行動できない馬鹿な右翼もいないではない。しかし、例外は何処までいっても例外だ。拉致への制裁として北朝鮮を空爆せよ、という主張がここに至ってもほとんど現実味を帯びた提案とならないのは、一部の馬鹿を除いて、右翼といえどもそれは拉致を許さないことと完全に矛盾することを知っているからである。人の存在が軽んじられることによって、家族が引き裂かれることによって、無数の「悲しみ」が生まれる。拉致を許さないからといって、無関係な北朝鮮民衆に同様の悲しみを強要していいのか、イデオロギーの奴隷でなければ答えは明白であろう。我々右翼は、国民にこの「悲しみ」の共有を呼びかけたい。そして、呼びかける相手は国民だけではない。北朝鮮当局者にも、君たちとこの悲しみを共有できないものか、と呼びかけたいのである。

 悲しみは、共有できる。少女が誘拐されて殺害された、親は深い悲しみの底にいる。これを笑う奴はいないだろう。しかし、怒りや喜びは共有できない。総理の靖国神社参拝に、激しい怒りをぶつける者がいる一方でこれを喜ぶものもいる。怒りや喜びは、極めて個人的なものなのである。我々は、中国人とは怒りを共有できない。しかし、悲しみは共有できる。戦後60年、現実の戦争被害に遭った老人たちは次次と姿を消している。中国の老人も、日本の老人も、かけがえのないものを失い、共有できる悲しみの記憶がある。しかし、暴れまわる中国の若者たちと、当惑する日本の若者たちにそれはない。一方は、怒る。一方はその背景すら理解できない。ここでいう「背景」とは「日本と中国の不幸な歴史」のことではない。「日本と中国の不幸な歴史」がなにゆえ怒りの種として何度も何度もばらまかれねばならないのか、それをやらなければ権力の維持自体が危うくなる国があるのだということが「理解できない」といっているのである。理解できるわけがないではないか。我が国は、「怒り」の衝動を利用して権力を維持したことなど歴史上一度もないのだから。戦後の経済発展は、多くの悲しみを抱えて歯を食いしばってがんばった老人たちの手によるものである。いわば、靖国なるものはその象徴である。一方が悲しみ、一方が怒りの対象としている不幸なる存在、それが靖国である。だから、私は望む。連中はすべて分かっているということを。その上で「お祭り騒ぎ」として我が国をまな板に載せて楽しんでいるのだと。それなら、今回のことは目をつむろう。しかし、どうやらそうではなさそうだ。真に「怒り」に基づく行動である限り、私は彼らを許さない。

 左翼はいう。強制連行、南京大虐殺、えとせとらえとせとら…認めないのは、許さないと。申し訳ないが、絶対に認めない。認めないことは不正義ではない。認めた上で「たいしたことではない」と強弁することこそ、不正義である。泣き叫ぶ女性を無理矢理トラックに乗せて運んで、売春婦にした。罪も無い市民を30万人も殺した。そんなことが現実にあれば非道であることをわかってなおかつ、認めないのである。何が反省だ。中国、韓国、北朝鮮…彼らは日本の受けた被害を認めた上で「たいしたことではない」というではないか。一体不正義はどちらだ。人の存在が軽んぜられる社会を悲しむ心をかの国々が持てない限り、我々との共存は極めて困難であるといわざるをえない。