34538 返信 Re:「怒り」が支配する行動に、理はあるか。 URL inti-sol 2005/04/22 23:30
八木沢氏

> 「怒りが行動を支配する」ことがあたかも正当なことであるかのような記述になっているが

私は怒りがあれば暴力を振るってもよいなどとは書いた覚えはなく、また例によって八木沢氏の揚げ足取り作戦が始まったかと思うと、いささかうんざりなのですが、ただ、怒りという感情が暴力に結びつきやすいのは、人間にとってごく自然な行動原理なのです。これは、善し悪しの問題ではありません。怒りのあまり暴力を振るうことは、良いことではないかもしれない、しかし、よくあることなのです。

> およそ「怒り」などという感情によって支配された行動に多くの場合理はないし、それならむしろ「お祭り騒ぎ」であったほうが救われると私は考える。

というのは、八木沢氏の価値観ですから、それはそれで一つの考え方ではあるでしょう。ただし、私は、「お祭り騒ぎ」の楽しみで人に暴力を振るったり石を投げる方が「救われる」とは、まったく思わない。暴力を振るうことが楽しいことである、おもしろいことであるという感性の方が、他者にとってはるかに不気味であり危険だからです。

> 左翼が致命的に馬鹿なのは、「北朝鮮による日本人拉致」をめぐる動きを、自分たちがやっている「怒りの拡大再生産活動」の右派版だと認識して的外れな反発姿勢を見せているところである。「拉致は許されません。しかし」というアレである。「在日朝鮮人に対する嫌がらせはあってはならないことです」。
> しかし、拉致を憎むあまりに無関係な朝鮮人を攻撃するという行動原理は、極めてイデオロギッシュなものであり、まともな右翼活動には本来なじまないものである。

「まともな右翼」なるものは、いったいどこにいるのか。自分にとって都合の悪い行動をとる右翼を一生懸命「例外」扱いしているだけではないか。
たとえば、「自由主義史観」で一世を風靡した藤岡信勝の発言などを読むと、「自虐史観」の教科書に対する「怒り」が行動原理になっていることが明らかです。本当に怒っているのか、怒っているポーズを取ることで支持を集めようとしているのかは、議論の余地のあるところでしょうが、おそらくはその両方なのでしょう。
産経新聞(八木沢氏はこの新聞を「右翼紙」とみなしていないかもしれないが)の報道なども、基本的には右翼系、保守系の読者の怒りの感情を焚き付ける方向性が容易に見て取れます。
更に、北朝鮮の拉致に対して日本中を吹き荒れた感情は、ただの「悲しみ」だったのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。拉致被害者の家族は北朝鮮に対して強い怒りを表明してきたし、少なからぬ日本人がその「怒り」を共有した、あるいは少なくとも共有したつもりになったことは明らかです。

そもそも、「悲しみ」と「怒り」は、別々に語れるほど異なった感情なのでしょうか。人間の感情を、大雑把に「喜怒哀楽」と言います。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。このなかで、「喜び」と「楽しみ」、「怒り」と「悲しみ」は、強い親和性があります。楽しみは喜びにつながるし、悲しみは怒りにつながる。
悲しみは、その悲しみの原因となったものに対する怒りに、容易に転化するのです。拉致問題もそうです。拉致被害者家族の、子どもを奪われた悲しみは、子どもを奪った北朝鮮政府の暴虐に対する怒りに、容易に転化したし、少なからぬ国民の感情の同様でした。
それに比べると、「悲しみ」や「怒り」と「喜び」や「楽しみ」の間には、通常あまり親和性がない。まったくない、とは言えませんが、かなりまれで、異常なことです。

> 悲しみは、共有できる。少女が誘拐されて殺害された、親は深い悲しみの底にいる。これを笑う奴はいないだろう。

「怒りは他人と共有できない」と、いとも簡単に決めてかかる、その程度の安易さで言えば、悲しみも他人と共有などできません。
残念ながら、「少女が誘拐されて殺害された、親は深い悲しみの底にいる。これを笑う奴」は、いくらでもいる。対立者の不幸を喜ぶような側面もまた、人間というもののもつ本性の一つです。だから、殺されたわけではないがイラクで人質になった3人の家族に対して、心ない誹謗中傷が飛び交うこともあったし、9.11の際にパレスチナではこの不幸な事件に対する歓喜の声もあったと言われます。

だいたい、「笑う奴はいない」ことと「悲しみが共有できる」ことは、イコールではない。なるほど、良識ある人なら、他人の不幸を面と向かって笑うようなことはしないでしょうが、だからといって、悲しみを共有しているとは限らない。

> 拉致への制裁として北朝鮮を空爆せよ、という主張がここに至ってもほとんど現実味を帯びた提案とならないのは、一部の馬鹿を除いて、右翼といえどもそれは拉致を許さないことと完全に矛盾することを知っているからである。

どう考えても違うと思います。現実味を帯びないのは
1右翼が日本の世論をそこまで支配しているわけではない
2現実に、北朝鮮に対して打撃を与えられるような空爆を行う能力が日本にはない
というふたつの事実があるからです。

> 左翼はいう。強制連行、南京大虐殺、えとせとらえとせとら…認めないのは、許さないと。申し訳ないが、絶対に認めない。認めないことは不正義ではない。認めた上で「たいしたことではない」と強弁することこそ、不正義である。

これまた、八木沢氏の個人的信条の発露ですから、ああだこうだと論評しても始まりませんが、「認めた上で『たいしたことではない』と強弁すること」も、認めないから認めない、というのも、私の目から見れば不正義の程度はたいして変わらない。

それから、34485について言えば、そんなご丁寧な解説などいちいちしてれなくとも分かっておりますが。

> 憲法第49条は、国民主権を名実ともに具体的なものとして実現ならしめる肝の部分であるが、上記記述からはそれに対する理解は全く伺えない。

伺えるも伺えないも、客観的に何が憲法の「肝」であるか、などまったく問題にしていないのです。客観的に見れば、憲法に無駄な条文や無意味な条文など、ただの一つもない。もちろん、憲法自身に「この条文は重要だがあちらの条文はそれほどでも」などということは、ひとことも書いていない。そんなことは当たり前であって、その前提の上で、私個人の主観として、どの条文をより大切に思うか、という話をしているに過ぎません。

たとえば、国会に関することで言えば、私は
第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第43条1両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
第44条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。


などの規定こそがもっとも大切なものであると考えています。49条が最も大切だとは、思わない。