| 34547 | 返信 | 永遠に謝罪を続けなくてはならないのか?(2) | URL | とほほ | 2005/04/23 15:03 | |
| 私は****さんのご意見にほぼ全面的に賛同し支持を表明します。****さんのご意見は正論であると同時に私の主張ともいささかも矛盾しておりません。 ただ****さんのご意見を理解するうえできちんと認識しておかねばならないことがあります。それは自己のアイデンティティーというものをどこにおくか?と言う視点での認識です。 ****さんの言うとおり、我々は戦後に生まれてますので我々が生まれる前に行われた戦争犯罪に対して一切の責任はありません。我々にはどうしようもない事です、それを我々に謝罪しろと言うのは理不尽な要求そのものです。 しかしこれは、 1、自分個人と国家は関係ない、私は私というアイデンティティーがあれば十分で「日本人」などというアイデンティテイーなど必要ない。つまり国家は国家、自分は自分、と言う事。 と言う考え方の上に成り立つ論理であり、私自身も基本的にはそのように考えております、このような立場に自己のアイデンティテイーを規定できるのであればこそ、日本が過去に起こした罪は己とは関係ないし、だからこそ徹底批判が出来るわけですしそのことにいささかも「自虐」などという論理が成り立たないのは当然です。 さて一方で 2、アイデンティティーと言うものは人間は一人で生きるものではない、ある社会の中でこそ生存出来るのでありその社会性をどこに置くか、と言う議論こそアイデンティティーと言う言葉の原理であり社会への属性があるからこそそこにあるのである、そのアイデンティティーを国家に求める事そのものは間違いではない。 と言う議論もあります、これもまた正論でしょう。しかしこれを言うのであれば1の議論と言うのは国家と言う狭い社会にアイデンティティーをおいているのではなく「人間社会・人類」に自己アイデンティーをおいているのであって、小林ヨシノリが言うような個人主義=自己中心主義、無政府主義=刹那主義・放蕩主義となる議論の正当性を認めるものではありません。現実的には小林ヨシノリや自由主義史観こそ刹那主義であり放蕩主義です。 私自身は私を1の立場に置いて考えてますが、かといって2の立場を認めないと言うわけではないです。これはある意味自分自身の宗教の問題であって他人がとやかく言うことではないと考えています。 2、の立場に自己を規定する人にとっては当然ながら戦争犯罪に対して自分自身のアイデンティティーそのものに関わる問題です、これを己の罪、己のアイデンティティーの罪、として明確に理解し謝罪する必要があるのです。そしてこの立場に自己を規定する人にとってそれは決して自虐ではなく己を成長させることであり、それは決して【反自己】ではなく【親自己】なのです。 それともうひとつ、責任者が謝罪すればそれで良し、とする文化は日本文化に根強くあります。しかしこの考え方は「上司の命令なのだから責任は上司にある」として日本社会の中で行政犯罪、企業犯罪が盛んに行われる原因でもあります、反省の必要があると思います。 |
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