34609 返信 Re:教科書、靖国は国内問題か?あるいは教科書、靖国へのクレームは内政干渉か? URL 水原文人 2005/04/25 03:29
芥屋さんに横レス、

> だって中華人民共和国はサンフランシスコ講和条約の締結国じゃないでしょう。極東軍事裁判に関する部分も締結国でない以上、法的に拘束はされないと思いますよ。ですから、こうお尋ねしているんですが。

お言葉ですが、拘束されます。

サンフランシスコ講和条約の延長上にある現代の国際社会(国連を含む)によって、中華人民共和国は当時の中国の政権である中華民国にとって代わった中国の正統の政府として認知されていますから、その権限や権益は国際法上継承されていることになります。国際連合でも中華民国を引き継いで安全保障理事会の常任理事国になっています。

> いわゆるA級戦犯に限る、とのことですね?お答えしましょう、全員です
> 理由は、あれは“裁判”ではないからです。法廷開設の法的根拠すらありませんから。

国際法上は裁判としての権限が認められ、戦後の世界秩序がその継続性の上に成り立っている以上、極東国際軍事裁判も(たとえ現代の視点から見て批判点がいくらでもあっても)一定の拘束力は持っています。

ただしそれは国家間という約束事の範疇であり、戦死者の慰霊であるとか信仰であるとかの、根源的には個人の感情のレベルの問題にまで拘束力が派生するかどうかは、微妙な問題でしょう。

> > しかし、靖国神社は「戦争犯罪人というぬれぎぬ」としているのですから、この部分に全く反対の立場なのは明らかなのですね。
>
> 当然です。主張すべきことを、靖國神社は必死になって訴えてきました。

うーむ、それを必死になって訴えている宗教施設に参拝するのであれば、若干中国の言い分にも正当性は出て来ますね。

> > 2 罪状認否もヘチマもなく、彼らが有罪であったこと(侵略戦争であったこと)は、日中共
> >   同宣言で相互に確認していることなのです。
>
> 支那事変が侵略戦争であったことを認めることと、戦時指導者が有罪

有罪かどうか以前の問題として、侵略戦争であったことを反省するのであれば、その侵略戦争の指導者(戦後国際秩序の前提として「戦犯」とされている)が「神」としてまつられている場所に日本国の政治指導者が参拝するのは、形式論理上いささかの問題をはらんで来ますね。

あくまで国家というレベルでの問題に過ぎませんけどね。

> > >戦前の反省なんかどうでもいいから、烏龍茶さんは文化大革命の反省でもして、中国にも求めてはいかがでしょう?w
> > なんですかこれは。そもそも日本語としても成立していないではありませんか。

文化大革命の反省は一個人の日本人(でも何人でもいいんですけれど)が中国政府を批判する動機として完全に正当ですが、国家レベルとしては問題になるでしょう。

> >【烏】A級戦犯が合祀されている靖国に参拝し慰霊することは、上記のように【侵略戦争の指導者ども】をどのように認識するか、即ちかつての戦争をどう評価するかに直接関わるものでありますから、即ち戦争の美化なのですよ。

…と、対外的に見られる可能性が高いことは確かです。逆に言えば日本政府が対外的にこれをどう説明できるかの問題であって、ちゃんと説明できれば問題にすべきでないことにはなりえます。

> >【芥】祭祀されている霊の中には、生前の所業が宜しきを得なかった人も含まれておりましょうが、靖國神社は「ゴッドによる最後の審判にて善良なる魂として選ばれた霊の赴く天国」にあらず、「閻魔大王により生前の罪状を問われて地獄に堕とされた亡者を除く」にもあらず。そういう死後の幽界における人智を超えた選別は、生きて地上にある者のなすことではない。キリスト教でも仏教でも、それは神仏のなすことです。

…と言うことをですね、つまりはちゃんと対外的に説明する必要があるということです。自国の文化的伝統を守ると言うことは、そういう問題です。

> > もう一ついえば、国際信義を語っているところに
>
> それって信義違反じゃないか?と言われて、ハイさようでございます…というようなものは信義とは言いません。それは服従です。

ま、要するにちゃんと説明もせずに今にいたるまでそういう対応しかして来れなかった日本政府の外交姿勢の問題なんですけれどね。

>烏龍茶さん、

> > 中国人の感情を傷つけ、相手の痛みを理解せず、被害者を踏みにじった過去をさらに美化しておいて、自己の信仰への「冒涜」のみを問題にするような恥知らずな真似は、私にはできかねます。「自己中心」「相手の痛みを理解できない」とは、あなた自信が口にした非難の言葉ではないのですか。

しかしですね、「中国人」「日本人」という区分けだけで「相手」ないし「他者」と「自己」という区分けをするのならそれも成立するかも知れませんが、それって国家主義的な全体主義の枠組みを出ない発想ではないでしょうか?

日本人もまたあの戦争で傷つき、大きな国家的枠組みとしては戦前を「軍国主義」として断罪することであたかも民主主義・平和主義日本として生まれ変わったかのように振る舞って、60年が経過しているわけです。しかし人間というのはそんな簡単に、たとえば昭和20年8月15日という日付だけで突然変われるものなのでしょうか?

その時に切り捨てられたのが、国のため…というか実のところ親兄弟とかのためを思って決死の覚悟で戦争に行った人や、その死んだ家族のことをそう簡単に割り切れない遺族の人々ではあると思いますよ。

ある意味、「戦後民主主義」というものそれ自体が、戦前・戦中のかなりの部分をフィクショナライズした上での断罪によって成り立っている、その実二項対立を裏返したに過ぎない偽善・欺瞞という面も持っているのではないでしょうか? そのフィクションや偽善・欺瞞が完全に悪いことだとはいいません。国家とか政府とかが機能するためには、そうした虚構性・欺瞞性や幻想性は不可欠なものでもあります。

だいたい「国民国家」という枠組み自体がフィクショナルであり欺瞞も偽善も内包したものではあります。実際のところ、今中国の「反日デモ」の主体となっている若い層と、今もなお生きていてたとえば靖国にある種の精神的支え(自分たちのために命を落とした息子、兄弟、父、夫、同級生、戦友その他の魂があるとされる象徴的な場所)としている世代の方々と、どっちが「他者」かといえば、僕個人にとっては後者の方ですしね。

その意味では、現代の日本という国全体の利益のために対中関係の維持を考えて靖国参拝はやめるべきだという考え方は、全体の政治的な理由をタテに個々人の(それも比較的少数者の)感情を踏みにじってることには、なります。僕自身は首相の靖国参拝はやめるべきだと思いますし、こと選挙目的なのがミエミエな自民党政治家の参拝は、それはそれで人々の感情を弄んでいるんじゃないかとも思いますが、一方で現実政治上の日本全体の利益のために遺族などなどの感情を無視することに、一抹の後ろめたさぐらいは感じるべきだとは思いますよ。少なくとも、あたかも絶対的な正義であるかのように論じることではないと考えます。

僕自身の個人的な感情としては、そもそも靖国神社は地形&建築的に美しくないし、あのあまりにキッチュな作り自体が日本の建築的伝統に対する冒涜だとすら感じられて、好きな場所ではありませんけどね。大きけりゃいいってもんじゃないだろう? 日本の建築的伝統というのは、むしろその逆の美意識で成り立っているはずだし。