34625 | 返信 | Re:教科書、靖国は国内問題か?あるいは教科書、靖国へのクレームは内政干渉か? | URL | 芥屋 | 2005/04/25 22:35 | |
>水原文人さん > サンフランシスコ講和条約の延長上にある現代の国際社会(国連を含む)によって、中華人民共和国は当時の中国の政権である中華民国にとって代わった中国の正統の政府として認知されていますから、その権限や権益は国際法上継承されていることになります。国際連合でも中華民国を引き継いで安全保障理事会の常任理事国になっています。 新体制の旧体制からの継承の原則論はそうでしょう。日ソ間の条約も現ロシアが(破棄しない限り)継承しますしね。でも私が言っているのは、烏龍茶さんの法律論です。サンフランシスコ講和条約には、どちらの“中国”も参加しておりません。既に成立していた中華人民共和国でもなく、台湾の中華民国が締結国でもありません。中華民国とは別に日華平和条約を締結して講和(つまり法的な戦争状態の終了)しております。で、中華人民共和国と国交を結ぶに当たって、日華平和条約を中華人民共和国が継承するなら、あらためて日中平和友好条約の締結を交わす必要も無かったわけですから、法継承に関してこれは別の問題でしょう。 > 国際法上は裁判としての権限が認められ、戦後の世界秩序がその継続性の上に成り立っている以上、極東国際軍事裁判も(たとえ現代の視点から見て批判点がいくらでもあっても)一定の拘束力は持っています。 それは政治的決着としてでしょう。法律論としては国際司法裁判所に逆提訴なども可能であるから、講和条約でそうしたことのないように取り決めたわけで、水原さんの言われる「一定の拘束力」がそれを指すなら理解できまし、私も今さらに旧戦勝国の(故人を含む)戦時指導者や現場指揮官を司法の場で追訴すると言ったような、政治的な法廷闘争をなすべきではないと考えます。 > ただしそれは国家間という約束事の範疇であり、戦死者の慰霊であるとか信仰であるとかの、根源的には個人の感情のレベルの問題にまで拘束力が派生するかどうかは、微妙な問題でしょう。 水原さんがお考えになる、その「微妙さ」とはどのようなものでしょうか。ちょっとお聞きしてみたく思いました。それと言うのも私の考えでは、もしそういったことに国家間の約束事というものが法的拘束力を生じるのであれば、それは思想・信仰の自由もさることながら、戦後秩序に対する疑義批判が法的に拘束されることをも意味するのではないかということです。それは現状固定の論に接近するか親和性が生じるのではないでしょうか。 > うーむ、それを必死になって訴えている宗教施設に参拝するのであれば、若干中国の言い分にも正当性は出て来ますね。 靖國神社の神職さんは、宗教者として訴えるべきことを訴えておると思います。その訴えには、宗派を超えて十二分の理があります。中国の言い分の「若干」の正当性とは、何なのでしょうか。ちなみに、靖國神社に参拝する人は神職さんの訴えには拘束されません(教義ではないので)。まして靖國神社の神職さんの史論と一致している必要もありません。史論は史論でしょう。 > 有罪かどうか以前の問題として、侵略戦争であったことを反省するのであれば、その侵略戦争の指導者(戦後国際秩序の前提として「戦犯」とされている)が「神」としてまつられている場所に日本国の政治指導者が参拝するのは、形式論理上いささかの問題をはらんで来ますね。 ここで水原さんが言われる「形式論理上いささかの問題」とはどのようなものでしょうか。 > あくまで国家というレベルでの問題に過ぎませんけどね。 ここが、私が水原さんのご意見に「?」と思うところです。上記の見解「国家観の約束事」に関する「微妙な問題」と、どう整合するのだろうか、と。 > …と、対外的に見られる可能性が高いことは確かです。逆に言えば日本政府が対外的にこれをどう説明できるかの問題であって、ちゃんと説明できれば問題にすべきでないことにはなりえます。 > …と言うことをですね、つまりはちゃんと対外的に説明する必要があるということです。自国の文化的伝統を守ると言うことは、そういう問題です。 > ま、要するにちゃんと説明もせずに今にいたるまでそういう対応しかして来れなかった日本政府の外交姿勢の問題なんですけれどね。 このあたり、同感です。付け加えるなら、必ずしも政府のみの責ではないでしょう。そういう説明責任をきちんと果たせ、ではなく、ただ反省が足らぬ、靖國参拝は軍国主義だ、中国の要求はもっともだ、ドイツを見習え…そういうことだけを呼号してきた在野の言論にも重大な責任があると思います。つまり、この段においては、政府や外交当局が説明責任を果たせるよう叱咤し、支持し、激励すべきですね。 > だいたい「国民国家」という枠組み自体がフィクショナルであり欺瞞も偽善も内包したものではあります。 以前から感じていた私見なのですが、どうも「国民の代表として…」というフィクションが最大のネックになっているんじゃないかと思います。もちろん、行政機構上の代表権限や代表行為というのはあるでしょう。しかし歴任認識問題などで私が思うのは、例えば小泉純一郎が何ゆえに「国民の代表として…」それをなしうるか、つまり水原や告天子や烏龍茶や芥屋の史観や史論を小泉純一郎が代表しうるか、ということです。これは近代民主主義理念を支えてきた国民国家幻想が行き着いた果ての、何やら全体主義的な「正史」の王座争奪戦ではないのか、そう感じておるところです。 |
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