34635 返信 Re:教科書、靖国は国内問題か?あるいは教科書、靖国へのクレームは内政干渉か? URL 水原文人 2005/04/26 03:48
烏龍茶さん、

> > 日本人もまたあの戦争で傷つき、大きな国家的枠組みとしては戦前を「軍国主義」として断罪することであたかも民主主義・平和主義日本として生まれ変わったかのように振る舞って、60年が経過しているわけです。しかし人間というのはそんな簡単に、たとえば昭和20年8月15日という日付だけで突然変われるものなのでしょうか?
> いや、実は戦前とほとんどなんにも変わっていないのではないか、というのが私の考えです。
> 変わった気になって必死で働いてきた、というところではないでしょうか。

自分が「変わった気」になるために一部の人間を切り捨てるなら、それはその点では偽善じゃないですか?

> もっとも、日本人には変わった気になる、というのは実は重要かもしれないとは思うのですが。

そうでしょうか? その「変わり方」が表面的に過去を切り捨て否定するだけであれば、結局なにが重要なのでしょう?

> > その時に切り捨てられたのが、国のため…というか実のところ親兄弟とかのためを思って決死の覚悟で戦争に行った人や、その死んだ家族のことをそう簡単に割り切れない遺族の人々ではあると思いますよ。
> そうですね。国内的に見れば、戦争にかり出された人たち、あるいは空襲などの戦災に遭われた人たちは「被害者」です。
> 当然「終戦の詔勅」で茫然自失に陥った人も大勢いたでしょう。

つまり「無駄死に」して可愛そう、ということでしょうか?

> しかし、アジアの侵略戦争の被害国の人々を相手にしたとき、「俺たちだって被害者である」というのはどうかとも思います。

すみません。誰がそんな話をしているのでしょうか? 僕は「日本人被害者論」なんてしてませんが? 「国のため…というか実のところ親兄弟とかのためを思って決死の覚悟で戦争に行った人や、その死んだ家族のことをそう簡単に割り切れない遺族の人々」が仮に被害者であるとしたら、それは戦前の「軍国主義」(という、多分に戦後のフィクション)の被害者であるのではなく、戦後民主主義の被害者であるという話をしてるんですが?

> 今現在私が論じ、批判しているのは、日本国内の話でも日本人の宗教やら信仰やらの話ではなく、アジアの被害者たちを相手にするときの日本政府の態度なのですね。

最近とある異国の映画監督が遠藤周作の『沈黙』の映画化を準備していて、たまたま知り合いなもんで(←たまたま、というのは嘘ですが)非公式にアドバイザーみたいな感じで手伝っている関係上、遠藤周作を読み直しています。

『海と毒薬』はものすごい小説であるのですけれど、遠藤文学の前期のテーマ(その後『沈黙』のクライマックスで別の主題性が『深い河』に至るライフワークになる)であって、『海と毒薬』がその頂点だとされる「日本人は倫理なき民族ではないか?」という問いかけは、以前読んだときにはすごい違和感があったんですね。

現に『海と毒薬』は少なくとも十数ケ国語に翻訳されて高い評価を得ているし、亡くならなければ大江健三郎ではなく彼がノーベル文学賞をとっただろうとも言われているくらいで、その代表作のひとつですから、そのなかでももっとも人気がある『海と毒薬』が「日本人の特異性」についてのものであるはずがないじゃん、という素朴な反感。あれはあらゆる人間にとって普遍的な倫理の問題に突き刺さる小説じゃないか、と。

しかしですね、ついでに熊井啓監督による映画版『海と毒薬』を見てみたら、遠藤周作の「日本人は倫理なき民族ではないか?」という問いがもしかしたら当たってるかも知れないと思わざるを得なくなって来てしまうのでした。あれは戦時中の、確か九大だったかの、捕虜を生体解剖した事件に想を得た小説なんですけれど、遠藤の世界観があくまで「人間としての倫理」を問いかけるものであるのに対し、熊井啓の解釈と演出は、結局のところ「軍国主義批判」に落ち着いて、生体解剖に参加する主人公を、それこそ「軍国主義の無自覚な被害者」か「軍国主義の狂気に染まってしまった」レベルに貶めてしまってるんですわ。

そりゃ政治的な問題に過ぎず、高度に倫理的な問題であったはずの主題性がどこかに消えてしまってるじゃないか、ってわけです。ではなぜ、“代々木系”熊井の手にかかるとそうなるのか? 遠藤がカトリックで、熊井が代々木系だから? そんな単純な政治的ステレオタイプの問題で納得はしたくないですね。

なんでこんな話を持ち出すのかと言うとですね、侵略戦争という日本がやったことが歴史的大罪であるのなら、それを謝罪なりなんなりで精算するのは我々日本人自身、というかまあ我々はその当事者の世代ではないのですが、しかしいずれにせよ日本国にとっての倫理的課題であるはずです。

そりゃ「アジアの被害者たちを相手にするとき」の態度だとかが、日本国がその倫理的課題とどう向き合っているかが表出する場であるのは確かであるとしても、それは本質や根幹ではなく、あくまで表出したことでしかないんですね。

それを烏龍茶さんのように「アジアの被害者たちを相手にするとき」だけを問題にするのであれば、それって自分自身と向き合うという倫理的課題ではなく、ぶっちゃけた話ただの表層的な外交辞令ってことにしかならんでしょう?

> >ある意味、「戦後民主主義」というものそれ自体が、戦前・戦中のかなりの部分をフィクショナライズした上での断罪によって成り立っている、その実二項対立を裏返したに過ぎない偽善・欺瞞という面も持っているのではないでしょうか? そのフィクションや偽善・欺瞞が完全に悪いことだとはいいません。国家とか政府とかが機能するためには、そうした虚構性・欺瞞性や幻想性は不可欠なものでもあります。
> 例えば戦後一時はやった「東条英機一人が悪者」というような部分のことでしょうか?あるいは「軍国主義者や軍部に騙されて」という部分でしょうか。

いえ、それだけではなく、烏龍茶さんの論理そのものです。

> 確かに戦後の日本が復興し機能していくためには、そういう欺瞞も必要だったかもしれません。
> しかし、これはなんとなく思うのですが、そういうフィクショナライズって、一種の麻薬みたいなものなんじゃないでしょうか。
> ある一部分に都合が悪いことを押しつけてしまうことで、我々は本質的な改革の機会を逃してしまったのかもしれないなぁ、と、ふと思ったりすることがあります。仕事をしているときなど、とくにそうですね。

そりゃ「アジアの被害者たちを相手にするとき」のことしか考えられないのなら、本質的な改革なんてできるわけがありませんがな。

> > その意味では、現代の日本という国全体の利益のために対中関係の維持を考えて靖国参拝はやめるべきだという考え方は、全体の政治的な理由をタテに個々人の(それも比較的少数者の)感情を踏みにじってることには、なります。僕自身は首相の靖国参拝はやめるべきだと思いますし、こと選挙目的なのがミエミエな自民党政治家の参拝は、それはそれで人々の感情を弄んでいるんじゃないかとも思いますが、一方で現実政治上の日本全体の利益のために遺族などなどの感情を無視することに、一抹の後ろめたさぐらいは感じるべきだとは思いますよ。少なくとも、あたかも絶対的な正義であるかのように論じることではないと考えます。
> で、国際的に問題にされているのは、実は「首相の公式参拝」であるのにもかかわらず、それを日本人の信仰の問題にすり替えようとする人が多すぎるというのが、私が感じていることです。

少なくとも、小泉純一郎という一人の日本人の信仰の問題にはなりますよ。

>  遺族の方々の心情を、全く理解しないではない私ですが(右の人々には信じてもらえないでしょうが)、首相が公式に参拝しなければ傷つくというものでもないと思うんですが。

首相が公式参拝するということは、遺族の方々にとっては戦死した家族が「被害者として犬死に」したのでもなければ「軍国主義に踊らされた愚かな罪人」でもないことを国が保証する、という意味を持ちます。それを「アジアの被害者たちを相手にするとき」、つまり中国の機嫌をとるためというだけでとりやめにされれば、そりゃ頭に来るのは当然じゃないでしょうか?