| 34657 | 返信 | Re:教科書、靖国は国内問題か?あるいは教科書、靖国へのクレームは内政干渉か? | URL | 芥屋 | 2005/04/27 00:26 | |
| >水原文人さん > 政治的決着であるからといって、法的に無効だということはあり得ません…というより、法は政治によって決められるものですから、法それ自体はその意味では100%政治の枠内の問題ではあります。司法の独立とは、政治が自分で決めた法を自らねじ曲げたり恣意的に運用することを妨げるためにあるものではあります。 えぇ、水原さんがそういう話をしておられることは承知していますし、もとより私も同感です。私が言っているのは烏龍茶さんの「国際法上の拘束力」に関わる部分ですので。 > というか、法と言うのは、所詮はその程度のものなんですけどね。漢字文化圏では仏教の宗教概念の「法」と同じ文字が当てられているから、別のイメージがついて回るのかも知れませんけどね。 それも大いにありえそうですね。ただ、水原さんが念押ししている意味での「拘束力」というのは国際社会における不文律、「縛り」「制約」等々の意味合いだと思いますが、烏龍茶さんが持論で展開しているのは文字通りの明文化された「法的拘束力」=「強制的執行力」の意味ですので、純粋に法理論となると思います。 > 少なくとも民主主義と近代法治において法は個々人の内面の自由を保証しこそすれ、それを制約するものではないはずでしょう。その点で戦争の歴史をどう受け止めるのかの議論がなぜ国際法議論になるのか、そのこと自体が倒錯だとは思いますけどね。 全く同感です。そうでないと、「過去の反省」と言うこと自体が直ちに「自虐である」「反日である」「少なくともパージせよ」みたいな粗悪な言説に対抗することさえ論理的に出来なくなるわけですよ。自殺行為だと思いますけどね。全体主義どうしの権力闘争か?と。 > ただし国家や政府の行動は、法によって拘束されるのが当然ですが。 それがないといよいよ恣意的になりますからね。 > > 私も今さらに旧戦勝国の(故人を含む)戦時指導者や現場指揮官を司法の場で追訴すると言ったような、政治的な法廷闘争をなすべきではないと考えます。 > 同様に、では旧戦敗国の、戦犯として断罪された戦時指導者や現場指揮官の復権なり名誉回復なりについては、いかがお考えでしょうか? 「同様に」の意味を図りかねたのですが、私の上記の言は、冤罪再審訴訟をするなという意味でないのは言うまでもありません。 > 個人の内面、つまり思想信条や信仰、感情が拘束され得るのかどうかの問題です。公職にあるわけではなく、公的な権力を持たない我々であれば拘束されるはずもないのですが、公職にあって公的権力の行使を職務としている政治家などの場合はどうなのか、という点での微妙さです。 なるほど、そういう意味での「微妙さ」ですか。ひとまず主旨は了解です。 > その意味では、首相の靖国参拝を政教分離違反の憲法違反とみなすかどうかの問題でもあります。 えぇ、その問題になりますよね。これは、神道に関するご質問と含めて別スレにしましょうか? 以下、 > >もしそういったことに国家間の約束事というものが法的拘束力を生じるのであれば、それは思想・信仰の自由もさることながら、戦後秩序に対する疑義批判が法的に拘束されることをも意味するのではないかということです。それは現状固定の論に接近するか親和性が生じるのではないでしょうか。 > >中国の言い分の「若干」の正当性とは、何なのでしょうか。 > > ここで水原さんが言われる「形式論理上いささかの問題」とはどのようなものでしょうか。 …これら上記の私の質問に対する水原さんの主旨、了解いたしました。 > > > あくまで国家というレベルでの問題に過ぎませんけどね。 > > ここが、私が水原さんのご意見に「?」と思うところです。上記の見解「国家観の約束事」に関する「微妙な問題」と、どう整合するのだろうか、と。 > 恐らく誤読されているのでしょう。個人は国家に必ずしも拘束されるものではありませんし、こと内面においては完全に自由であるべきです。 いえ、誤読ではなく、文面に表現されておらず判断できなかったことを質問したまでです。そこで更にお尋ねしますが、「内面における自由」とは、頭の中で何を考えようが自由であるということに過ぎず当たり前のことであり、それがなにがしかの政治的保証としての自由性を有するには、外面における発露を含むものでなくては意味が無い…というビュアリの言葉があったと思います。私もそう思います。 そうすると、その「国家による拘束」とうものが当然出てくるわけで、やはり当初の質問、「あくまで国家というレベルでの問題に過ぎません」ということと、「個人は国家に必ずしも拘束されるものではありません」とが、ただ単に「内面においては完全に自由であるべき」で説明が済む問題であるとは私は考えられないのですが、いかがでしょうか。 > まあでも、反省が足りないのも事実ではあります。 その「反省」と言うのが、水原さんの言われたことがら… >ある意味、「戦後民主主義」というものそれ自体が、戦前・戦中のかなりの部分をフィクショナライズした上での断罪によって成り立っている、その実二項対立を裏返したに過ぎない偽善・欺瞞という面も持っているのではないでしょうか? そのフィクションや偽善・欺瞞が完全に悪いことだとはいいません。国家とか政府とかが機能するためには、そうした虚構性・欺瞞性や幻想性は不可欠なものでもあります。 …このフィクション上の「反省」であるからだと思います。 > > 靖國参拝は軍国主義だ、 > > 表層的には、あれは完全に軍国主義でしょう。よく見るとただそれだけでもない、とは思いますが。 あれはもともと忠君烈士の思想なのです。昭和の軍国主義の印象が強いのは否めませんが、お言葉どおりそれは「表層的」なものです。 > 中国の主張が中国としては正当なものであることは確かでしょう。だからって歴史観まで中国と「共通」にするというのはナンセンスですが。 私は、「中国としても正当」とは思いません。中国で自国の近代史を自由に論じられる環境にない以上、それは中国共産党にとっての正当性を超えないと思います。中国としても反省すべき自国の失政や失策や逸脱を踏まえたうえでの要求ではないわけですから、「攻め込まれた国の感情として当然」と言っても、その当然さを政権に利用したところの要求です。それが漢人にとって幸せなこととも思われません。 > > ドイツを見習え…そういうことだけを呼号してきた在野の言論にも重大な責任があると思います。つまり、この段においては、政府や外交当局が説明責任を果たせるよう叱咤し、支持し、激励すべきですね。 > 権力者をそんなに甘やかす必要もないと思いますよ。 いえ、甘やかすというような問題ではないでしょう。説明責任を政府や外交当局が果たしていない…そう批判して責を果たすよう要求した以上、当事者がそれを実行するよう叱咤し、実行すれば支持し、内外の反発があれば激励する…それが当然の行為だと思います。それがなければ、ただ単に「ためにする批判」に過ぎず、水原さんの言われる「公の場の出した自己の言論責任」を果たさないことになるでしょう。 > > 以前から感じていた私見なのですが、どうも「国民の代表として…」というフィクションが最大のネックになっているんじゃないかと思います。もちろん、行政機構上の代表権限や代表行為というのはあるでしょう。しかし歴任認識問題などで私が思うのは、例えば小泉純一郎が何ゆえに「国民の代表として…」それをなしうるか、つまり水原や告天子や烏龍茶や芥屋の史観や史論を小泉純一郎が代表しうるか、ということです。これは近代民主主義理念を支えてきた国民国家幻想が行き着いた果ての、何やら全体主義的な「正史」の王座争奪戦ではないのか、そう感じておるところです。 > はっきり言って、私は極めて日本的な事象だと思っていますよ。「神なき民」日本人ならではの…。倫理規範と世俗権威がごっちゃになっている日本の文化状況の問題ではないでしょうか? 唯一絶対神の「正しさ」を担保にしていないが故の…ということはありえそうな気もします。が、そうだとしても、キリスト教やイスラム教に改宗するのでない限り、日本における国民国家幻想、そこにおける「国民を代表して…」が歴史認識にまで及んでいる現状、それを日本文化論で説いても「その場の納得」を超えないのではないでしょうか。この迷走状態を政治的に解決するには、やはり「国民の代表」なる観念をひとつ冷徹に眺めてみるほうが良いように思います。 |
||||||
![]() | ||||||