| 34662 | 返信 | Re:教科書、靖国は国内問題か?あるいは教科書、靖国へのクレームは内政干渉か? | URL | 水原文人 | 2005/04/27 02:15 | |
| 芥屋さん、 > えぇ、水原さんがそういう話をしておられることは承知していますし、もとより私も同感です。私が言っているのは烏龍茶さんの「国際法上の拘束力」に関わる部分ですので。 ありゃ国際法の問題じゃないはずなんですけどね。国家の代表として過去に(別人が)言ったことを、国家の代表が覆すのは、対外的に見て「不誠実だ」とみなされる、という話であって、法を持ち出すような話じゃないでしょう。 > > というか、法と言うのは、所詮はその程度のものなんですけどね。漢字文化圏では仏教の宗教概念の「法」と同じ文字が当てられているから、別のイメージがついて回るのかも知れませんけどね。 > > それも大いにありえそうですね。ただ、水原さんが念押ししている意味での「拘束力」というのは国際社会における不文律、「縛り」「制約」等々の意味合いだと思いますが、烏龍茶さんが持論で展開しているのは文字通りの明文化された「法的拘束力」=「強制的執行力」の意味ですので、純粋に法理論となると思います。 恐らく烏龍茶さんはその辺りがごっちゃになっているのだと思います。実際の法はしょせん人間が作るものですから、限界や矛盾や落とし穴があって当たり前。しかも杓子定規に公平に施行されなければ「法」の意味がありませんから、ますますもって個々の現実的事象と齟齬をなす可能性は高いわけで、それを十分に知った上で、それでもとりあえず社会を維持するためには法を守った方がいい、というのが現実の「法」なわけで。 言い換えれば、「法」というのは個々人の倫理を支配するものであってはならず、まあ人間だから一定の確率でそのような倫理から逸脱する人が出て来るから、一応最低限のルールとしては守りましょう、というレベルのものだと思います…というか、西洋起源の「近代法治」は、文化的な前提としてそういう暗黙の了解があるわけです。 >唯一絶対神の「正しさ」を担保にしていないが故の…ということはありえそうな気もします。 …と言ったところで日本の「右翼」におなじみの「唯一神」対「多神教」というステレオタイプな議論に落ち込んでしまうのかどうかちょっと気がかりなのですが、「唯一絶対神」と書かれているので芥屋さんはちゃんと理解しているのではないかとも思います。で、その前提で話を進めますと… 絶対神というのは対立概念として「不完全な、絶対的になり得ない人間」というものが設定される概念でして、言い換えれば超越的存在だと言うことです。近代西洋では少なくともインテリと呼ばれる階層はまあ、まず潜在的な無神論者と考えて間違いないようなものですが、神があるかないかの問題を超えて、「倫理」そのものは人間を超越したものであるはずです。「私が(なんとなく)正しい」と思っただけでは「正しい」とは言えず、その「正しさ」を検証する必然性が常に出て来るわけです。 しかしこういう超越的レベル、あるいは形而上学的な意味での「倫理」という観念自体がないと、目に見える「法」を自らの倫理基準にせざるをえなくなってしまうのではないか、と。 …ってこんなことネット掲示板の走り書きでうまく説明できるはずもなく、とりあえず『海と毒薬』をお読み頂ければ幸いでございますm(_ _)m。 > > ただし国家や政府の行動は、法によって拘束されるのが当然ですが。 > > それがないといよいよ恣意的になりますからね。 …ですね。あらゆる人間が常に倫理的に行動する保証なんてどこにもありませんからね。自分で気がつかないうちに自分の本来の倫理をねじ曲げてしまう危険は常にあり、だからこと権力の施行にあたっては、過去に決められた成文法が常に制約として機能してないと困ったことになります。 > > > 私も今さらに旧戦勝国の(故人を含む)戦時指導者や現場指揮官を司法の場で追訴すると言ったような、政治的な法廷闘争をなすべきではないと考えます。 > > > 同様に、では旧戦敗国の、戦犯として断罪された戦時指導者や現場指揮官の復権なり名誉回復なりについては、いかがお考えでしょうか? > > 「同様に」の意味を図りかねたのですが、私の上記の言は、冤罪再審訴訟をするなという意味でないのは言うまでもありません。 それは法的な手続きに寄って過去の法的な決定をひっくり返すことになり、その点では「旧戦勝国の(故人を含む)戦時指導者や現場指揮官を司法の場で追訴すると言ったような、政治的な法廷闘争」と同レベルだと思いますが。 ちなみに、僕は原則論としてはどっちもやっていいと考えています。ただし実際問題、過去のことを厳密に法的な手続きとして覆したり裁いたりして決定された、厳然たる法的拘束力のある判決を下すには、それだけ現実的に重い判断の根拠とするに足る証拠が足りないのでやめた方がいいと思いますが。 > > その意味では、首相の靖国参拝を政教分離違反の憲法違反とみなすかどうかの問題でもあります。 > > えぇ、その問題になりますよね。これは、神道に関するご質問と含めて別スレにしましょうか? だいぶ前にやったんですけど(確か2000年ごろ;純ちゃんが8月13日に靖国詣でをやった頃)、その時はなんだか無視されてしまったので、やり直す意味はあると思います。 > 更にお尋ねしますが、「内面における自由」とは、頭の中で何を考えようが自由であるということに過ぎず当たり前のことであり、それがなにがしかの政治的保証としての自由性を有するには、外面における発露を含むものでなくては意味が無い…というビュアリの言葉があったと思います。私もそう思います。 当然ながら外面における発露を含みます。それについて法的に拘束を加えようと言う考えは、原則的には誤っていると僕自身は考えています。「歴史認識の誤り」もあくまで実証歴史学的に、あるいは政治的な妥当性をめぐってきちんと議論されるべきである、というのが、理性に基づくべき民主主義の原則論でしょう。 …ただ、近代民主主義というのは、あらゆる人間が知性と厳格な倫理観をもって常に良心的な判断を下すはずであるという、いわば「性善説」に基づいているので、現実の人間がそうではない以上、無駄な労力の浪費を省くために一定の線は設けるのもやむを得んかもしれん、とはちょっと思いますけどね。 実際には汚らわしい差別主義そのものの罵詈雑言を流布して議論を混乱させる人間もいるにはいますからねぇ…。 > そうすると、その「国家による拘束」とうものが当然出てくるわけで、やはり当初の質問、「あくまで国家というレベルでの問題に過ぎません」ということと、「個人は国家に必ずしも拘束されるものではありません」とが、ただ単に「内面においては完全に自由であるべき」で説明が済む問題であるとは私は考えられないのですが、いかがでしょうか。 国家指導者などの、組織の継続性についての責任が付随する立場の人間においては、その拘束もある程度はあるべきでしょう。ただそれは「法的」であるよりは「政治的」であるべきです。 > > まあでも、反省が足りないのも事実ではあります。 > > その「反省」と言うのが、水原さんの言われたことがら… > > >ある意味、「戦後民主主義」というものそれ自体が、戦前・戦中のかなりの部分をフィクショナライズした上での断罪によって成り立っている、その実二項対立を裏返したに過ぎない偽善・欺瞞という面も持っているのではないでしょうか? そのフィクションや偽善・欺瞞が完全に悪いことだとはいいません。国家とか政府とかが機能するためには、そうした虚構性・欺瞞性や幻想性は不可欠なものでもあります。 > > …このフィクション上の「反省」であるからだと思います。 そうですね。また「反省」を要求する側もそのレベルでの「反省」しか求めていないのが今の日本ではないか、というのが昨晩の烏龍茶さんへの、『海と毒薬』の熊井啓監督による映画版に言及して言いたかったことであります。 「反省」するのなら「他所の国を侵略した」こと以上に、無為に多くの人間を(時には、極めて残虐なやり方で)殺した「戦争」という行為それ自体について、その自分たち自身の倫理的問題として考えるべきだと僕自身は思いますけどね。あらゆる宗教が殺人について厳しい戒律を持っていることからも分かる様に、やはり「殺す」ということは最大の倫理的悪であり、そして戦争と言うのはその「殺す」ことの数量において勝敗であるとか、あるいは英雄的であるかどうかが決まるものであるという点で、もっとも恐るべき倫理的倒錯ではあるはずです。にもかかわらず我々は「正義」を名乗って戦争、つまりは殺し合いをやってしまう生物であるという自覚。それを我々本来の「倫理」に対してどう申し開きするのか、本当はそういう問題で「反省」すべきなのではないでしょうか? まあ、中国に行ったりして万が一”その話題”が出て来たしまった場合には、とりあえず「日本と中国」の話ではなく、多くの人が死んだ戦争はいけないことだ、で逃げることにはしてるんですが(←セコすぎ)。 > > > 靖國参拝は軍国主義だ、 > > > > 表層的には、あれは完全に軍国主義でしょう。よく見るとただそれだけでもない、とは思いますが。 > > あれはもともと忠君烈士の思想なのです。昭和の軍国主義の印象が強いのは否めませんが、お言葉どおりそれは「表層的」なものです。 日本を「風呂敷文化」(中身より包装が重要性を帯びる)と分析したのがロラン・バルトですけど、その傾向は実は伝統的な日本文化よりも現代の方がよほど強くなっていると思います。つまり、多くの人は表層をざっとみただけで判断する傾向がある−−これは日本的問題である以上に、メディア化が極度に進んだ現代の世界の問題でもあるのですが、その表層しか見られないし、また表層において昭和の軍国主義の印象を強めよう、強めようという印象すら、「遊就館」とか見ているとありますよ。 実際に来ている人と話したりすると、そんなに単純ではないことが分かって来ますが、そこまでつき合うほどの時間や余裕のある人がどれだけいるかと言うと…僕の場合はそれが仕事の一部だからやりますけど。 > > 中国の主張が中国としては正当なものであることは確かでしょう。だからって歴史観まで中国と「共通」にするというのはナンセンスですが。 > > 私は、「中国としても正当」とは思いません。中国で自国の近代史を自由に論じられる環境にない以上、それは中国共産党にとっての正当性を超えないと思います。 いささか言葉が足らなかったようですみません。「中国としても正当」とは、つまり現在における中国政府である共産党・北京勢力にとって正当という意味です。というか、それが彼らの権力のほとんど唯一の論理的・歴史的正当性の保証になってしまっているところに不幸があるのは確かでしょう。 なにしろ、「共産党」の理想を自ら裏切りまくっているのが現状ですからね。 > 中国としても反省すべき自国の失政や失策や逸脱を踏まえたうえでの要求ではないわけですから、「攻め込まれた国の感情として当然」と言っても、その当然さを政権に利用したところの要求です。それが漢人にとって幸せなこととも思われません。 しかしそれは漢民族自身が考えなければならないことでしょう。あるいはそれを実例としながらより普遍的な「権力」というものそれ自体に対する批評・分析・批判の対象として論ずるのなら大いに意義がありますけれど、それにはより高度な表現能力が必要とされると思います。 …というわけで、僕自身はそれを「言語」でやるつもりはあまりありません。チベット問題とかの分かり易いところなら、まあ言語で言及するのもやぶさかではありませんが… > > 権力者をそんなに甘やかす必要もないと思いますよ。 > > いえ、甘やかすというような問題ではないでしょう。説明責任を政府や外交当局が果たしていない…そう批判して責を果たすよう要求した以上、当事者がそれを実行するよう叱咤し、実行すれば支持し、内外の反発があれば激励する…それが当然の行為だと思います。それがなければ、ただ単に「ためにする批判」に過ぎず、水原さんの言われる「公の場の出した自己の言論責任」を果たさないことになるでしょう。 そうでしょうか? 我々は気に入らなければ、自分たちを代表していると思わなければ、落選させればいいだけの話だと思いますよ(というのは、政治家センセーたちへの脅しでもあるわけですが)。 > > はっきり言って、私は極めて日本的な事象だと思っていますよ。「神なき民」日本人ならではの…。倫理規範と世俗権威がごっちゃになっている日本の文化状況の問題ではないでしょうか? > > 唯一絶対神の「正しさ」を担保にしていないが故の…ということはありえそうな気もします。が、そうだとしても、キリスト教やイスラム教に改宗するのでない限り、日本における国民国家幻想、そこにおける「国民を代表して…」が歴史認識にまで及んでいる現状、それを日本文化論で説いても「その場の納得」を超えないのではないでしょうか。この迷走状態を政治的に解決するには、やはり「国民の代表」なる観念をひとつ冷徹に眺めてみるほうが良いように思います。 僕は『沈黙』以前の遠藤周作の「日本は神なき民である」という議論それ自体にはいささか違和感があって、宗教的伝統の問題じゃないように思えるのですよね。伝説となった忠臣蔵とか江戸時代の大衆芸能を見ても極めて強固な倫理観に支配された世界における悲劇を扱ったものがとても多いし、それは「社会的倫理」対「個人の自由」という構図というよりも、「倫理の現実的な社会における実践」と個々人の信じる強固な倫理という、倫理と倫理の衝突みたいなものがけっこうある。近松の世話物ですら大半がそうですし、いちばん凄絶なものだと近松は近松でもモンザエモンでなく半二の「熊谷陣屋」という超絶的とすら言える悲劇もある。 正直、『沈黙』で一瞬だけ「日本は神なき民」議論が始まるところは、かなり違和感がある(非公式にアドバイザーやってる例の映画監督氏には、カットするよう進言しようかな…)。むしろ開国以降の近代化のプロセスのなかで、日本人がそれを失ってしまったということなのではないか、とすら思えます。 もっとも、「形而上」概念がないのは、江戸時代以前でもその通りかも知れませんが…と思ったら禅宗とか、あるいは日蓮とか、同時代のキリスト教神学よりもずっと形而上してるし… |
||||||
![]() | ||||||