34723 | 返信 | Re:「罪刑法定主義」と国際法 | URL | 告天子 | 2005/04/29 17:57 | |
> 五番街さん こんにちは。 > 告天子さんは、不戦条約あるいはハーグ条約には刑罰の規定がないにも関わらず、東京裁判で被告を死刑の判決を下し、それを実行したことは、この裁判がリンチである証拠だ、と主張されているようです。 う〜ん、リンチ裁判だ、ということを主張したいわけではないのです。リンチ裁判だ、というのは形容の問題ですから、主張の肝にはなり得ないです。東京裁判で下された刑罰の根拠はどこか、直接には極東軍事裁判条例であり、その淵源はポツダム宣言受諾だろう、不戦条約が直接の根拠とは言い難いであろう、ということです。 もし不戦条約が直接の根拠で、日本の指導者がその罪により国際の正義により裁かれたのである、というのならば、日米戦では領土は問題にならないから、「侵略戦争」ではないのか。日米戦では、不戦条約違反の、「平和に対する罪」は、日米双方に存在しないのか。また、対中国の関係では、満州事変の首謀者の石原将軍などは訴追もされていないようですし、つまるところ、「法の問題」と言うより、「政治の問題だろう、あの裁判は」と、そういうことが言いたいわけで、「リンチだから、許されない」とかいうことが言いたいわけではありません。 で、法の問題だ、とするのであれば、なんでサヨクの人は「法の問題」として、公平に考えようとせずに、(ソ連や中国、アメリカの罪について考えようとせずに)、日本だけを「罪人」として考えようとするわけ?、と、そういう話に繋がっていくわけですよ。 元々この話題は、日本有罪であるから、靖国参拝は「条約違反の、違法行為だ」というような主張の筋から広がっていったわけで、私から見ればそれは「政治的な意図からする、類推解釈だろう」と考えるわけですが、いや、違法性の問題だ、ということで、対立しているわけですよ。 > それで、この「刑罰法定主義」と、その規定が存在しない国際法に対する違反の場合に、刑罰を課すことが可能か、可能ならばその刑罰の種類はどうなるのか、と言う問題について考えて見ることにしましょう。 いや、これは「可能」ではあるでしょう、戦争に勝てば。戦争に勝利して、相手に無条件降伏させることが出来たら、どんな無法の法でも押しつけることが出来るでしょう、どんな裁きでも「法的な形を取って」することが「可能」ですよ。 > むろん、告天子さんの主張では、刑罰の規定が存在しない国際法違反を理由に刑罰を課すことは不当、ということになります。 可能だが、不当だ、と申しているわけです。 > しかしながら、たとえば藤田久一は、「戦争犯罪とは何か」(岩波新書)で、第一次世界大戦後の戦争犯罪の取扱について、次のように述べています。 > > > p.54-55 > > 以上からすでに大部分が論証された。すなわち、ヴェルヘルム二世は国際法犯罪を犯したゆえに訴追されうる。これを裁くために「多分魅力的ではあるがもっとも実行性に乏しい解決方法として、まず国際連盟を設立し、ついてそれに裁判所を設置させ、かつ、国際犯罪に適用される手続および刑罰体系を起草する方法」がある。他方、同盟および連合国の社会は何年もまえからすでに存在している。同盟および連合国は国際的事実上の政府として行動する。そして連合国のみが高等裁判所を構成するのである。 > ここで、刑法の不遡及原則は犯罪の決定に対する障害とはなりえない。ドイツ皇帝の命令により犯された犯罪とは、国際慣習において、および明確な条文とくにそのいくつかはハーグ諸条約において定められている、ハーグ諸条約中には違反に対する刑罰が定められていないが、この沈黙は、それらが制裁されないことを意味するものではない。 ハーグ条約の中には、罪のリストは存在しているわけです。「何が罪であるか」は、条約締結国に対して適用されますから、「刑罰の規定がない」ことが、罰せられないことではないのは明瞭です。 ところが、不戦条約の場合は、そもそもその「罪のリスト」が「存在しない」訳ですよ。「侵略戦争が、リストとして存在している」というのは、多分に解釈であり、だったら「何が侵略戦争か」については、意見の一致は見ていないし、勿論条約に書かれてもいないわけでしょう。「いや、一致している」というのであれば、現在の不戦条約の「実質的に、無効な条約になってしまっている」現状はどうですか、ということですよ。 で、「制裁されないことを意味しない」と言いますが、その「制裁」が、政治的な、法に不可欠な公平性を有した裁きであるのか、それとも、文字通りの「勝者による、敗者への制裁」であり、勝者は免責された上での話なのか。そして、勝者の罪に対しては、「沈黙」を守るのか、サヨクは、と。 > 刑罰について「法律なければ犯罪なし」ないし「罪刑法定主義」は、普通法犯罪に適用される国内刑法にとってのみ完全に有効であるにすぎない。国内法と国際法は異なった発展段階にある。国際刑法はなお初歩的発展段階にあり、そこでは法は行為に対する対応によって形成され、また刑罰は裁判官の良心にのみ依拠し、また裁判官は犯罪人を復習から救済するために存在する。そして裁判所の手続は裁判所自身が決定する。ここでは法の不遡及を理由とする異議は妥当しない。不遡及原則は、手続法にも司法組織法にも適用されないからである。 罪刑法定主義が、「国内法に有効である」、そして、国際法についてはどうですか。有効なのか、無効なのか、ハッキリと書いていないと思います。国内法に有効であるに過ぎない、だったら「国際法では罪刑法定主義を無視してよい」のか、それとも、「国際法は未発達だから、罪刑法定主義すらない状態だ」と現状追認するのか、「異なった発展段階にある」、という言葉で判断を避けていると思います。つまり、罪刑法定主義に反しているから、不当である、と私は思いますが、違法である、とは言えないと思う。しかし、「それは裁判官の良心の問題だ」などと逃げるのはおかしいと思うし、引用書では「裁判官は、犯罪人を復讐から救済するために存在する」とありますが、その裁判官が、復讐者の一人として裁判官席に座っている、という話でしょう、東京裁判の場合は。 また、不遡及の原則は国際刑法では「存在しない」から、異議は「妥当しない」と書いてありますが、国際刑法が法として不出来であるから不遡及の原則「すらない」のか、それとも、そういう「不遡及の原則がない」ことが、望ましい国際刑法の姿であるのか、引用部分を一読した限りでは不明であり、また、感想としては、「これでは、勝者の裁きの現状追認・正当化と、あるべき国際法の姿の混同ではないのかと思いました。 >(五番街さん) つまり、私なりに要約すれば、前ドイツ皇帝ヴェルヘルム二世に限らず、戦争犯罪を犯した者は、ハーグ条約には罪刑規定がないにも関わらず、事実上の政府である連合国が設置した裁判所に追訴され、裁判官の良心にもとづいて刑罰が決定される。いわゆる「罪刑法定主義」は、国内刑法では有効であるが、国際法違反の場合には採用されず、法の不遡及原則も適用されない、ということになると思います。 裁判官の良心に基づいて刑罰が決まる、なんてのは無法そのものを言い換えたに過ぎないと思いますね。裁判官に良心があるなんて、どうして分かるんですか?。良心があったら、法の諸原則を無視しても許されるんだ、みたいな論だと思います。 もしそういうことが、東京裁判の結果を正当化・追認するために言われているのだとしたら、「勝てば官軍」の国際版焼き直しみたいな話だと思いますね。法も何も、あったものではありません。「勝った者が、正義だ!!」という話でしょう。 > このように、第一次世界大戦の戦争犯罪に対する措置において、「罪刑法定主義」と「法の不遡及原則(事後法の禁止)」が明確に否定され、これが当時の国際社会で承認され、さらに、第二次世界大戦の戦争犯罪に対する方針に継承されているのです。そのため、東京裁判においても「罪刑法定主義」や「法の不遡及原則(事後法の禁止)」という国内刑法の大原則が適用されなかったのも当然の帰結です。 第一次大戦当たりになると、戦争も大分大規模になり、賠償額も巨額なものになります。戦争も、「君主のする戦争」から、総力戦的な性格に近づいていき、相手国への怨念というものも増大しました。君主同士の戦争であれば、ほどほどのところで戦争も賠償請求も収まる性格もあったでしょうが、無制限、無制約の戦争の暴力が、戦後処理にも影響して、五番街さんの言われるような「既決」となったのではないかと考えます。 それが、人類始まって以来の空前の規模の戦争であった先の大戦では、よりエスカレートした形で、相手国の宗教文化までをも裁く、というような後遺症まで日本に残したのではないかと。そういうものまで「裁きうる」という視点は、以下の五番街さんの論述にも生きているように思いますね。「どんな者でも、裁けないものはないのだ」というような雰囲気が漂っていますでしょう。 > この「罪刑法定主義」の原則の不適用は、日本を含む「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」の報告では、次のように述べられています。 >同書 p.35 > > 戦争の法規慣例または人道の法に対する犯罪のかどで罪を負う、敵国に属するすべての人々は、彼らの地位がいかに高いものであれ、国家の首長を含む地位の区別なく、刑事訴追の対象となる。 > ハーグ条約では、個人の処罰規定が存在しないにも関わらず、この報告書は個人の処罰を行うことを明確化しており、国内法に適用される「罪刑法定主義」の原則が、戦争法違反者に対しては不適用になることを示しています。 不適用になった、それが単に「事実の描写」として言われているのか、それで「正当であり、将来共に国際法が準拠すべき原理」というのか、「不当だが、事実はそうだった」のか。勝者の裁きの追認、ということが法であるなら、次の戦争では「何をしようが、勝てば官軍」という理屈が生まれて、より熾烈な復讐戦があろうことは、当然予想されますね。 一次大戦ではそうだった、だから、国際法では罪刑法定主義も、不遡及の原則も、事後法による処罰の問題も、無視して構わないのであり、それが正当なことである、という主張ならば、私は賛成できないです。 > じっさいには、第一次世界大戦以前においても、戦争法違反者は、それを捕獲した自国あるいは敵国が処罰することが認められており、藤田は次のように述べています。 > > ・当時の国際法は戦争犯罪を犯した敵人を自国の裁判所で裁く権利を国家に認めていたといえる。各国は、戦争犯罪の国内的処罰を効果的に適用するために、違反行為を決定し、処罰制度を整備したのである。(五番街注:「当時」は、文脈上、第一次世界大戦以前を指しています。) > > このことから分かるように、各国では、ハーグ条約では規定されていない戦争犯罪人の処罰を行っていたのが現実であり、それが国際慣習法として認められていたのです。 この「当時のハーグ条約についての各国の対応」が、そのまま不戦条約や東京裁判の事例にも当然に当てはまるとは思えませんね。「認められていた」からといって、それが「正当なことである」とは限らないし、野蛮な社会で野蛮な法が実行されていたとしても、それが文明的であるとは言えませんから。その社会の都合が、すなわち「法」である、とは思わないですし、現実はこうなんだから・・・、といったら、「法はいくらでも無視して構わない、最終的には裁判官の良心が決めることだ」みたいなところまで後退するしかないんではありませんか。 >文中の「国際法」は、具体的な条約などの国際法を意味するのではなく、戦争犯罪人の処罰を、各国が相互の黙示的合意として認識し、義務慣行として実施するという実態から、藤田は、これを国際慣習法として理解していることを示しています。 実態がこうだった、と言うのは分かります。しかし、それを「追認しなければならない」ことはないと思います。また、それを別の場合についても、当然に適用すべきだとは思えません。 > 上記の「報告書」は、その国際慣習法を追認し、さらに、それを拡大して「国家の首長」も処罰対象としたものであり、国際法に違反した元首も処罰の例外ではあり得ないとした点に新しさが見られるに過ぎません。そして、国際慣習法であった戦争犯罪人の処罰は、ごく一般的な、犯罪人の処罰による再発防止という通常の考え方からして、受け入れられるものであり、さらに同様に、元首の処罰もまた、受け入れられる考え方です。 元首、というと、日本では当然ながら、天皇の存在が浮かび上がってきますね。国際法に「天皇有罪」の根拠を求める辺りが、サヨクの問題性を示しているのではないかと思います、これは五番街さんのことを申しているのではなくて、一般的にサヨクが「反日」を言う場合に、どこに正義を求めるのか、外国に求めたり、抽象的一般的な正義の観念、精神に求めたり、そういうイメージがあるのですが、その線を踏襲しているのではないかと思いました。 > なお、ヴェルサイユ条約第7編には次のように述べられています。 > > 同書 p.39-40 > > 同盟及び連合国は、国際道義と条約の神聖を傷つけた最高の犯罪について、前ドイツ皇帝ホーヘンツォレルン家のヴェルヘルム二世を追訴する。 > 右の被告を審理するために特別裁判所を設置し、被告に対して弁護権に必要な保障を与える。この裁判所は五名の裁判官をもって構成し、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本が各一名の裁判官を任命する。 > 裁判所は、判決に際し、国際間の約定に基づく崇高な義務と国際道徳の存在とを立証するために、国際政策の最高道義の命ずるところに従う。その至当と認める刑罰を決定することは裁判所の義務である。 第一次大戦でも、「戦勝国の」戦争犯罪というのは、こうした「特別裁判所」で裁かれたわけではなかったのでしょう?。まあ、それが「当時の国際慣習法の現実」だった、と言うのは分かりますよ。可能な限りの「最高道義」だった、というのも、当時に於いてはその通りだったかもしれません。しかし、その問題性格や、反省されるべき点がないのかについては無視して、「法律で決まっているから、現実にそうだから、だから正しいのだ」とは言えないのではないかと思います。 > このように「国際道義と条約の神聖」に違反した政治指導者を、勝利した連合国が追訴することも、同様に第二次世界大戦の戦争犯罪の措置に受け継がれています。 受け継がれているから正しいのか、受け継がれたつけを日本国民が精神的な負担(サヨク思想みたいなものが蔓延する原因)で背負わされているから、認識を新たにしていこうと考えるのか、その辺りが問題ではないかと思っております。 私としては、こういう「既成事実を正当化」するような、勝利者の追認が「法である」みたいな考え方には、納得できないですね。 |
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