34755 返信 Re:「罪刑法定主義」と国際法-2 URL 五番街 2005/04/30 14:27
告天子さん、私としては、あなたの東京裁判に対する見解あるいは批判を読ませていただき、いくつかの点で、誤謬あるいは誤った解釈が含まれていると考えています。

その一つが、東京裁判は「罪刑法定主義」を無視した裁判であり、そのため、不当であるという考え方です。まず私としては、この考え方が妥当なものかどうかを検討することから始めたいと考えています。

前回の投稿で私が述べたことを要約すると、罪刑法定主義は国内刑法に適用される原則であり、国際法には適用されない。罰則規定がない国際法に違反した場合でも処罰が行われており、この処罰は国際慣習法として定着している。したがって、戦争関連の国際法違反者が処罰されることは当然である、ということです。

ちなみに、東京裁判での清瀬一郎弁護人は、国家行為にたいする個人の責任は問われない、と主張していますが、これは前回の投稿で引用したヴェルサイユ条約での前ドイツ皇帝に対する追訴規定に対する無知に由来するものとしか思えませんし、この追訴の決定が、それまでの戦争犯罪人の処罰を認めるという国際慣習法をベースとすることからすれば、この国際慣習法も理解していない可能性があると考えています。

さて、この罪刑法定主義に関して、告天子さんは、前回の投稿では、次のように述べています。

> ハーグ条約の中には、罪のリストは存在しているわけです。「何が罪であるか」は、条約締結国に対して適用されますから、「刑罰の規定がない」ことが、罰せられないことではないのは明瞭です。

どうも、この文章で何を主張したいのかうまく理解できません。告天子さんは、ハーグ条約(陸戦法規)には、禁止行為が掲げられているから、それに違反した者は処罰されて当然、と主張されているようです。そうであるなら、これは、告天子さんご自身が主張している「罪刑法定主義」に反する考え方です。

要するに罪刑法定主義とは、法によって罪と、それを犯した場合の罰則を定め、それにもとづいて、犯罪人に対する処罰を決定するという考え方ですから、罰則規定が存在しない場合に、違反者を処罰することはできません。したがって、この告天子さんの主張は、それに反しています。

ところで、告天子さんは、以前の投稿#34658では次のように主張していますね。

# 罰則のない刑法など、あり得ませんし、罰則のない刑法に基づいて
#「縛り首にした」ならば、した方が無法者なのです。

この考え方は、罪刑法定主義にもとづくものです。この考え方からすれば、罰則規定が存在しないハーグ条約陸戦法規に違反した者を処罰することは「無法」行為になります。

ところが、上記の告天子さんの主張は、このご自身の考え方を否定するものであるようで、一体これはなんだろうか、と思ってしまいます。

なお、余談ながら、国内法には罰則規定がない法律が存在します。その法律に違反した場合でも、処罰を受けません。

ついで、告天子さんは次のように書いています。

> ところが、不戦条約の場合は、そもそもその「罪のリスト」が「存在しない」訳ですよ。「侵略戦争が、リストとして存在している」というのは、多分に解釈であり、(後略)

不戦条約は「戦争放棄」を宣言したものであり、これは、戦争を起こした場合は同条約に対する違反となります。換言すれば、戦争を禁止しています。

もう一つの重要な問題は、この「戦争」に関して、この条約案を提起した米国政府の公文は、国家の自衛権を認めており、従って、この「戦争」の意味は自衛権の行使による以外の戦争、より具体的には、侵略戦争を指すと理解されています。この米国政府の公文は各国に配布され、その結果、各国は、この条約案を、自衛戦争以外の戦争、あるいは侵略戦争を禁じる内容と理解して締約しています。

したがって、日本の真珠湾攻撃および対米戦争の開始は、この戦争が自衛戦争以外の戦争、あるいは侵略戦争であるため、この条約に違反する戦争であり、その戦争を指導する立場にあった者、あるいは、その計画を立案した者が処罰対象になるのは当然です。

極東軍事裁判所条例では、同裁判所の管轄に属する犯罪の一つとして、「平和に対する罪」が挙げられ、この罪を次のように定義しています。

・平和に対する罪 即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定又は保証に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は実行、若は右諸行為の何れかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加。

この不戦条約違反の戦争は、この定義の中では、「侵略戦争」あるいは、「国際法、条約、協定又は保証に違反せる戦争」の概念に適合するものであり、平和に対する罪は、不戦条約違反の罪と同義、あるいはそれを包含する犯罪になります。


> だったら「何が侵略戦争か」については、意見の一致は見ていないし、勿論条約に書かれてもいないわけでしょう。

ごく一般的にいえば、侵略戦争は、武力によって他国の領土、資産、人員などを奪うことを目的とした行為、と定義づけられています。ただし、より厳密な定義を下すことは非常に困難であるため、当時では、ケース・バイ・ケースで、国際社会が判断するという方法が採用され、今日では、国連安全保障理事会が決定するという方法になっています。

当時の日本が建国した満州国について、中国が9ヵ国条約違反および不戦条約違反によって日本を国際連盟に提訴し、その結果、日本の侵略が認定されています。このケースでは、中国としては、この満州国を日本の侵略行為の果実と判断するとしても、武力的に劣り、日本に対抗する能力がない同国としては、武力侵略という認定を国際社会の代表機関である国際連盟から取り付け、この連盟の決議をもって満州を奪い返すという方法を採用するしか方法がなかったのが現実でしょう。


> >  刑罰について「法律なければ犯罪なし」ないし「罪刑法定主義」は、普通法犯罪に適用される国内刑法にとってのみ完全に有効であるにすぎない。(藤田久一)

> 罪刑法定主義が、「国内法に有効である」、そして、国際法についてはどうですか。有効なのか、無効なのか、ハッキリと書いていないと思います。(告天子さん)

この藤田の文章を読んで、告天子さんが、なぜ、このように言えるのか理解できません。藤田は、「罪刑法定主義」は「国内刑法にとってのみ完全に有効」と述べており、これは、「罪刑法定主義」は国際法にとっては「無効」であることを意味していることが理解できないのでしょうか。

つまり、ハーグ条約や不戦条約に、国内法の原則である罪刑法定主義を適用して、それらに罰則規定がないという理由から、違反者の処罰が不当であるという見解は、国際法の独自性を無視した妥当性を欠くものです。前述したように、罰則規定がない国際法の違反者の処罰は、国際慣習法によって認められているのです。


> 国内法に有効であるに過ぎない、だったら「国際法では罪刑法定主義を無視してよい」のか、それとも、「国際法は未発達だから、罪刑法定主義すらない状態だ」と現状追認するのか、「異なった発展段階にある」、という言葉で判断を避けていると思います。

はっきりいえば、こんな疑問はたいした問題ではなく、重要な点は、告天子さんのように、罪刑法定主義をもちだして国際法違反者の処罰を不当とする見解が、国際法に対する無知に由来するものだということを理解することです。

>つまり、罪刑法定主義に反しているから、不当である、と私は思いますが、違法である、とは言えないと思う。

なぜ告天子さんは、このように「思う」のか理解できませんが、国内刑法の原則である罪刑法定主義を国際法に適用しようとすること自体が間違っているのです。


>しかし、「それは裁判官の良心の問題だ」などと逃げるのはおかしいと思うし、引用書では「裁判官は、犯罪人を復讐から救済するために存在する」とありますが、その裁判官が、復讐者の一人として裁判官席に座っている、という話でしょう、東京裁判の場合は。

厳密には藤田は「刑罰は裁判官の良心にのみ依拠し」と述べているのですが、罰則規定が存在しない以上、罰則の決定は裁判官の良心に委ねられるのは当然だと思うのですが、それがなぜ「おかしい」と思うのでしょうか。

東京裁判では開廷時にウェッブ裁判長が「各判事は法によりなにものをも恐れず、公正、かつ外より影響されることなく裁きを下すことを誓った共同宣誓書に署名した」と述べており、告天子さんが裁判官を「復讐者」とみなすことは、彼らに対する最大限の侮辱になります。

このような告天子さんの主張からすれば、ヴェルサイユ条約にもとづいて、前ドイツ皇帝の裁判が行われた場合、日本の裁判官も同様に「復讐者の一人」になるのですが、そのことに気がついているのでしょうか。


> 裁判官の良心に基づいて刑罰が決まる、なんてのは無法そのものを言い換えたに過ぎないと思いますね。裁判官に良心があるなんて、どうして分かるんですか?。良心があったら、法の諸原則を無視しても許されるんだ、みたいな論だと思います。

なぜこんなことが言えるのか、どうも見当がつきません。国内刑事事件の場合も、無罪、有罪の判決、および量刑の決定は、その事件の証拠や罰則規定をベースとして、裁判官の良心にもとづいて行われるものであり、それは国際法裁判においても同様です。「良心があったら、法の諸原則を無視しても許される」って、いったい、何を根拠にこのような侮辱的発言をするのでしょうか。国際法の裁判では国内法の原則が無視されるのは当たり前ではないですか。国際法と国内法は異なる法体系なのですから。


> もしそういうことが、東京裁判の結果を正当化・追認するために言われているのだとしたら、「勝てば官軍」の国際版焼き直しみたいな話だと思いますね。法も何も、あったものではありません。「勝った者が、正義だ!!」という話でしょう。

なんのことか理解できません。


> (罪刑法定主義」の原則が)不適用になった、それが単に「事実の描写」として言われているのか、それで「正当であり、将来共に国際法が準拠すべき原理」というのか、「不当だが、事実はそうだった」のか。

これまで述べてきたことで理解できたはずですが、この議論では、東京裁判をテーマにしており、したがって、「当時としては正当であり」というだけで十分ですが、それに付け加えれば、今日においても正当であるが、将来的には変化する可能性がある、ということです。


>勝者の裁きの追認、ということが法であるなら、次の戦争では「何をしようが、勝てば官軍」という理屈が生まれて、より熾烈な復讐戦があろうことは、当然予想されますね。

罪刑法定主義が国際法裁判に適用されないということを理解できれば、それが第三者機関による裁判であっても同様に適用されず、したがって、「勝者の裁きの追認」などという批判は出てこないはずですがね。

告天子さんが「勝者の裁き」と呼ぶ東京裁判に対して、日本では復讐の機運が高まったのでしょうか。そんなことはなかったし、現在もそんな空気はありませんね。むしろ、侵略戦争や特定の民族の迫害・虐殺を犯罪とする見方が常識として定着し、東京裁判を大きな教訓として、誤りを繰り返さないという意識が定着しているのが現状でしょう。ちがいますか。


> 一次大戦ではそうだった、だから、国際法では罪刑法定主義も、不遡及の原則も、事後法による処罰の問題も、無視して構わないのであり、それが正当なことである、という主張ならば、私は賛成できないです。

賛成できないのであればしようがないですが、国内法の原則である罪刑法定主義や法の不遡及の原則(事後法の禁止)を国際法裁判に適用して、不当と判断するような愚はおやめください。


> この「当時のハーグ条約についての各国の対応」が、そのまま不戦条約や東京裁判の事例にも当然に当てはまるとは思えませんね。

どうして「思え」ないのか説明がありませんが、ハーグ条約の以前から、以降においても罪刑法定主義が国際法の原則とはなっていない状況には変化がないのですから、東京裁判にも適用されないのが当たり前じゃないですか。


> 「認められていた」からといって、それが「正当なことである」とは限らないし、野蛮な社会で野蛮な法が実行されていたとしても、それが文明的であるとは言えませんから。

「認められていたから」ということは、それが「正当なこと」と認められていたことを意味します。たしかに、国際法は、国内法と比較して「野蛮」と言い得るかも知れませんが、それを国内法と混同して批判するという告天子さんの見方が問題なのです。


> 実態がこうだった、と言うのは分かります。しかし、それを「追認しなければならない」ことはないと思います。また、それを別の場合についても、当然に適用すべきだとは思えません。

告天子さんが追認しようがしまいが、どうでもかまいませんが、当時の国際社会では承認されており、したがって、同様なケースにも適用されるのが現実であったことは認識して下さい。


>まあ、それが「当時の国際慣習法の現実」だった、と言うのは分かりますよ。可能な限りの「最高道義」だった、というのも、当時に於いてはその通りだったかもしれません。しかし、その問題性格や、反省されるべき点がないのかについては無視して、「法律で決まっているから、現実にそうだから、だから正しいのだ」とは言えないのではないかと思います。

これもねぇ、ご自分で、国内法の原則である罪刑法定主義は正しいのだ、この原則を適用しない裁判は間違っている、と主張していることを忘れてしまっているんじゃないかと思いますが。


> 私としては、こういう「既成事実を正当化」するような、勝利者の追認が「法である」みたいな考え方には、納得できないですね。

残念ながら、告天子さんが納得できなくとも、当時の国際社会が受け入れていたのですから問題はないですね。