| 34767 | 返信 | Re:「罪刑法定主義」と国際法-2 | URL | 告天子 | 2005/04/30 21:06 | |
| < 読者の便宜のために > これまでのところ、東京裁判が、罪刑法定主義を無視したものである、ということは両者意見が一致しており、五番街さんは「国際法では、罪刑法定主義は不必要であり、当然に無効」な原則であるから、無視するのが国際法の原理だ、との説。私は、罪刑法定主義の無視は、それが「勝者の裁き」であるが故にそうなのであり、法の論理に基づいたものではなかろう、だから不当である、との意見です。 以下、長いのですが、丁寧に書くとそうなります。骨は上記の部分かと思います。それから、別件ですが、tpknさん、フォローありがとうございました。また、八木沢さん、34761投稿の見解に賛成です。 それから、東京裁判が「不戦条約に基づいた、正当なものである」ならば、どうして国際社会で「違法、侵略」として裁かれた満州事変の首謀者の石原将軍が訴追されないのか。また、罪刑法定主義はともかく、事後法の裁き、そして、「勝者の裁き」ということがどうして東京裁判では問題にされないのか。原爆投下の罪が裁かれないという事実は、東京裁判が「政治裁判」であることを物語っていると思います。 >五番街さん > 告天子さん、私としては、あなたの東京裁判に対する見解あるいは批判を読ませていただき、いくつかの点で、誤謬あるいは誤った解釈が含まれていると考えています。 ご丁寧にありがとうございます。 > 前回の投稿で私が述べたことを要約すると、罪刑法定主義は国内刑法に適用される原則であり、国際法には適用されない。罰則規定がない国際法に違反した場合でも処罰が行われており、この処罰は国際慣習法として定着している。したがって、戦争関連の国際法違反者が処罰されることは当然である、ということです。 そこまでは、おおむね同意見ですね。東京裁判が、そういう裁判として、正当であるかと言えば疑問だ、と私は思うわけです。 > ちなみに、東京裁判での清瀬一郎弁護人は、国家行為にたいする個人の責任は問われない、と主張していますが、これは前回の投稿で引用したヴェルサイユ条約での前ドイツ皇帝に対する追訴規定に対する無知に由来するものとしか思えませんし、この追訴の決定が、それまでの戦争犯罪人の処罰を認めるという国際慣習法をベースとすることからすれば、この国際慣習法も理解していない可能性があると考えています。 国際法を基準にして、主権国家の国法を無視できるか、となれば、やはり戦争でもない限りは難しいでしょうね。「弁護人は国際法も理解していないのか」というのは、ちょっと一方的な意見かと思います。実際、ドイツ皇帝の「訴追」はされたものの、引き渡しや処罰というのは、行われたのでしょうか?。五番街さんは、「勝者の裁き」というヴェルサイユ条約を、「国際法」として正当視しすぎていると思います。裁く根拠が「人道」程度のことでしかないものだから、結局、裁かれずに終いだったのだと思いますが・・・。 > > ハーグ条約の中には、罪のリストは存在しているわけです。「何が罪であるか」は、条約締結国に対して適用されますから、「刑罰の規定がない」ことが、罰せられないことではないのは明瞭です。 > > どうも、この文章で何を主張したいのかうまく理解できません。告天子さんは、ハーグ条約(陸戦法規)には、禁止行為が掲げられているから、それに違反した者は処罰されて当然、と主張されているようです。そうであるなら、これは、告天子さんご自身が主張している「罪刑法定主義」に反する考え方です。 ですから、私はそのところ、罪刑法定主義を絶対不可侵の原則であるとは考えていないということで、「告天子は罪刑法定主義を主張しているはず」と考えると、分からなくなると思います。この場合は、「何が罪であるか」は明快であり、それに対していかなる罰があるか、については、量刑の判断が各国に委ねられている、という部分があるのではないか、という筋も含んでの話です。 > 要するに罪刑法定主義とは、法によって罪と、それを犯した場合の罰則を定め、それにもとづいて、犯罪人に対する処罰を決定するという考え方ですから、罰則規定が存在しない場合に、違反者を処罰することはできません。したがって、この告天子さんの主張は、それに反しています。 ハーグ条約の場合は、罪(違反行為)が決められているのですから、それが「罰せられない」のだとなれば、おかしな話でしょう。ただし、その罰の量刑の根拠が、各国の国法に委ねられるんじゃないんでしょうか。不戦条約の場合は、罪(違反行為)が、そもそもはなはだ不明確(何が侵略か、の具体的事例への適応については、現在も国際的一致を見ず)なのだし、そもそも侵略戦争が条約違反に当たるのだというのは、条約自体から来るものではなく、アメリカがした留保条件から出てきた話でしょう。なので、同じ「罰則規定なし」でも、条件が違うわけですね。解釈を経ての話であり、法の文言の問題というより、ほとんど政治の次元に落ちています。 > ところで、告天子さんは、以前の投稿#34658では次のように主張していますね。 > > # 罰則のない刑法など、あり得ませんし、罰則のない刑法に基づいて > #「縛り首にした」ならば、した方が無法者なのです。 さいです。罰則のない法に基づいて縛り首にしたなら、そいつは無法者です。改めてそう主張します。 > この考え方は、罪刑法定主義にもとづくものです。この考え方からすれば、罰則規定が存在しないハーグ条約陸戦法規に違反した者を処罰することは「無法」行為になります。 ハーグ条約に反しているが故に、それに基づいて空襲軍律を定め、その規定に基づき死刑にしたのであれば、無法な行為ではありません。 不戦条約では、平和に対する罪、というようなものは規定されておりませんから、不戦条約に基づいて死刑にするなら、それは違法です。無法者のすることです。だが、連合国は、極東裁判条例に基づいて死刑にしたのであり、この条例は連合国の勝利あってのもので、「勝者の裁き」ですから、「無法」とばかりは言えませんが、やはり著しく「不当」であるし、そもそも烏龍茶さんの主張される「不戦条約違反の犯罪者」として東京裁判の「A級戦犯」を見ることは出来ない、という私の主張からでた議論であります。 ハーグ条約では、罪は既に明示的に定められているので、これに基づいて違反者を各国がその国法の規定により処罰することは、何ら違法ではありませんし、罪刑法定主義にも適っています。「罰則がない」ということと、「罪の定めが明示的にない」こととは異なります。罪の定めがない、ということは、たとえば「裁判官が良心的に裁いたから」などという理屈で埋められるものではないことは明らかです。 「罪の定めがある」ことと、「罰則の規定がない」こととを混同しないでください。罪刑法定主義の内、少なくとも、ハーグ条約は、「罪刑」の「罪」の部分は満たしており、どんな「刑罰」を定めるかは、これはその国自身の問題として委任されている、という流れでしょう。 これに対して、東京裁判では、「平和に対する罪」というものを、その具体内容を極東軍事裁判条例で「創設」しているわけです。これは、条約には書かれていないものです。だから、罪刑法定主義を根本的に満たしておらず、その上、事後法による、勝者の裁きである、ということです。もし勝者の裁きでないのであれば、「平和に対する罪」は、勝敗に関係なく裁かれねばなりません。しかし事実は、敗者が裁かれたのみです。 > ところが、上記の告天子さんの主張は、このご自身の考え方を否定するものであるようで、一体これはなんだろうか、と思ってしまいます。 う〜ん、ちょっと流れが複雑で分かりにくいのですが、上のような筋でした。 > なお、余談ながら、国内法には罰則規定がない法律が存在します。その法律に違反した場合でも、処罰を受けません。 それはそうですよね。国内法で、根拠もなく罰したら大変な話です。 > したがって、日本の真珠湾攻撃および対米戦争の開始は、この戦争が自衛戦争以外の戦争、あるいは侵略戦争であるため、この条約に違反する戦争であり、その戦争を指導する立場にあった者、あるいは、その計画を立案した者が処罰対象になるのは当然です。 近衛内閣において、それこそ必死の和平交渉が行われ、実務家レベルでは和で纏めよう、という努力はほとんど成立しかけていたのです。それを潰したのが、ルーズベルトの仕掛けたハル・ノートであり、「日本が決してのめない条件を、日本を戦争に走らせるために」仕向けた謀略である、というのは有名な話ですね。こういうルーズヴェルトの謀略に、「騙された日本」の罪、というのは、かなりの程度「侵略戦争」とか、「自衛戦争ではない戦争」とは言い難い罪であるように思います。ルーズヴェルトのしたことは、自衛のためでもないし、あるいはほとんど好戦的な、戦争をせんがための挑発でしょう。挑発した者が悪いのか、乗った者が悪いのか、少なくとも、戦争を起こさせるための「謀略」は存在していると思いますし、これは米国の自衛とは何の関係もないでしょう。好戦的な国家の、大きな罪だと思います。 > 極東軍事裁判所条例では、同裁判所の管轄に属する犯罪の一つとして、「平和に対する罪」が挙げられ、この罪を次のように定義しています。 > > ・平和に対する罪 即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定又は保証に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は実行、若は右諸行為の何れかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加。 > > この不戦条約違反の戦争は、この定義の中では、「侵略戦争」あるいは、「国際法、条約、協定又は保証に違反せる戦争」の概念に適合するものであり、平和に対する罪は、不戦条約違反の罪と同義、あるいはそれを包含する犯罪になります。 かなり違うと思いますが・・・。不戦条約では、(全ての)戦争の放棄が宣言されただけであり、この「平和に対する罪」というのは、日本を罰せんがために作られた罪状ではないのですか。現に、「戦争勝利」という状況を踏まえなければ、米国は日本に対してこの罪を被せることが出来なかっただろうし、更に、米国など連合諸国自身が、こういう「罪」によってその後裁かれたという話も聞きません。 > 当時の日本が建国した満州国について、中国が9ヵ国条約違反および不戦条約違反によって日本を国際連盟に提訴し、その結果、日本の侵略が認定されています。このケースでは、中国としては、この満州国を日本の侵略行為の果実と判断するとしても、武力的に劣り、日本に対抗する能力がない同国としては、武力侵略という認定を国際社会の代表機関である国際連盟から取り付け、この連盟の決議をもって満州を奪い返すという方法を採用するしか方法がなかったのが現実でしょう。 で、満州事変の首謀者を縛り首にしたのですか?。満州事変が侵略だと「認定した」、というのは分かりますが、これにしても各国の利害がからんでの判断でしょう。こういう判断に、全くの「中立」ということはあり得ません。「国際社会が判断したのだから、正当だ」とは、必ずしも私は思えませんね。まあそれが「現実だった」のは、確かにその通りです。しかし、それを無批判に受け入れるものでもなかろう、というのが私の考えです。 > > > 刑罰について「法律なければ犯罪なし」ないし「罪刑法定主義」は、普通法犯罪に適用される国内刑法にとってのみ完全に有効であるにすぎない。(藤田久一) > > > 罪刑法定主義が、「国内法に有効である」、そして、国際法についてはどうですか。有効なのか、無効なのか、ハッキリと書いていないと思います。(告天子さん) > > この藤田の文章を読んで、告天子さんが、なぜ、このように言えるのか理解できません。藤田は、「罪刑法定主義」は「国内刑法にとってのみ完全に有効」と述べており、これは、「罪刑法定主義」は国際法にとっては「無効」であることを意味していることが理解できないのでしょうか。 藤田氏の叙述では、「国内法にとってのみ完全に有効」であるに過ぎない、と書いているのであり、これが即、五番街さんの仰るように、「国際法に於いては、完全に無効」を意味はしないと思いますが??。その部分は、書いていないと思いますよ。 > つまり、ハーグ条約や不戦条約に、国内法の原則である罪刑法定主義を適用して、それらに罰則規定がないという理由から、違反者の処罰が不当であるという見解は、国際法の独自性を無視した妥当性を欠くものです。前述したように、罰則規定がない国際法の違反者の処罰は、国際慣習法によって認められているのです。 でも、その後、各国は不戦条約違反のかどでの処罰は、誰も受けていないのではありませんか?。つまりはこれは、「勝者の裁き」であり、不戦条約違反であるが故に日本は罪人、というには、あまりにも一方的で不当な評決であります。「敗者であるが故に、日本はその罪で裁かれた」のならば、分かりますよ。 罰則規定がない国際法違反について、「戦争に敗北することなく」、誰かが裁かれたことがあるでしょうか?。勝者が裁くのも国際慣習だ、と言うなら、それもそうでしょうね。しかし、それならば「国際法違反なるが故に」に加えて、「敗者であるが故に」罪人とされたのである、ということも一条、付け加えなければ公平な法の裁きとは言えますまい。 > > 国内法に有効であるに過ぎない、だったら「国際法では罪刑法定主義を無視してよい」のか、それとも、「国際法は未発達だから、罪刑法定主義すらない状態だ」と現状追認するのか、「異なった発展段階にある」、という言葉で判断を避けていると思います。 > > はっきりいえば、こんな疑問はたいした問題ではなく、重要な点は、告天子さんのように、罪刑法定主義をもちだして国際法違反者の処罰を不当とする見解が、国際法に対する無知に由来するものだということを理解することです。 私が国際法に詳しいなどととても言えませんが、違反者の処罰が不当だというのは、あのようなリンチ裁判に於いては、無知であるかどうかにかかわらず、敗戦国民の一人として当然取りうる見解であると思いますが・・・??。罪刑法定主義を持ち出せば、東京裁判が明らかに不当な裁きであることは明瞭ですし、それを「持ち出させない」のは、ひとえに「相手が勝ったから」であるに過ぎないでしょう。そこを無視して、あたかも公平な裁きであるかのように、東京裁判の結果を言うことに対して、「おかしいではないか」と申しているわけです。 罪刑法定主義を言われてしまえば、東京裁判が無効になってしまう、「だから」、国際法では罪刑法定主義は関係ないのだ、という流れなのではないのですか。 > >つまり、罪刑法定主義に反しているから、不当である、と私は思いますが、違法である、とは言えないと思う。 > > なぜ告天子さんは、このように「思う」のか理解できませんが、国内刑法の原則である罪刑法定主義を国際法に適用しようとすること自体が間違っているのです。 罪刑法定主義が、国際法の適用に於いては、無視されてしまうのが現状である、というのは理解しますが、国際法に適用するのが「間違いである」とは言い切れないと思いますね。 > >しかし、「それは裁判官の良心の問題だ」などと逃げるのはおかしいと思うし、引用書では「裁判官は、犯罪人を復讐から救済するために存在する」とありますが、その裁判官が、復讐者の一人として裁判官席に座っている、という話でしょう、東京裁判の場合は。 > > 厳密には藤田は「刑罰は裁判官の良心にのみ依拠し」と述べているのですが、罰則規定が存在しない以上、罰則の決定は裁判官の良心に委ねられるのは当然だと思うのですが、それがなぜ「おかしい」と思うのでしょうか。 リンチの、復讐の裁きをしておいて、「被告人を復讐から救済するために、良心に基づいて判決を下したのだ」などと言える裁判官なら、良心などないと思います。良心が法の代わりになるなど、それすなわち、無法、ということです。良心に頼らざるを得ないような論では、もはや法律の話ではないでしょう。そこまで行けば、リンチの正当化です。 > 東京裁判では開廷時にウェッブ裁判長が「各判事は法によりなにものをも恐れず、公正、かつ外より影響されることなく裁きを下すことを誓った共同宣誓書に署名した」と述べており、告天子さんが裁判官を「復讐者」とみなすことは、彼らに対する最大限の侮辱になります。 平和に対する罪人として縛り首にされた者が受けた侮辱の方が、遙かに重大です。宣誓したからといって、本当であるとは限りません。平和に対する罪を規定した極東軍事裁判条例という法そのものが、復讐者の法なのであって、その復讐の法に基づく裁きをしたのですから、復讐者の一員と見られたとしても何の不思議もありません。むしろ、法の裁きの外形を整えた分だけ、より悪質な復讐者であったと見ることも出来るでしょう。 > このような告天子さんの主張からすれば、ヴェルサイユ条約にもとづいて、前ドイツ皇帝の裁判が行われた場合、日本の裁判官も同様に「復讐者の一人」になるのですが、そのことに気がついているのでしょうか。 ドイツ皇帝の裁判に、日本人の判事も参加したのですか?。カイザーの引き渡しは、とうとうされなかったのだと思っていましたが・・・。裁判が「行われた」のでしょうか、そうでないのなら、仮定の話ですし、そもそも不戦条約は一次大戦の際にはなかったのですから、比較として無理があると思います。不戦条約に基づいて、罰則も罪状の構成要件もキチンとなっていない、その上に事後法で、敗戦国の政治責任者や将兵のみを裁く、という「東京裁判」で今問題にしていることとは、筋が違うと思います。 > > 裁判官の良心に基づいて刑罰が決まる、なんてのは無法そのものを言い換えたに過ぎないと思いますね。裁判官に良心があるなんて、どうして分かるんですか?。良心があったら、法の諸原則を無視しても許されるんだ、みたいな論だと思います。 > > なぜこんなことが言えるのか、どうも見当がつきません。 見当がつかないならば、明らかに不当な発言であるとして根拠をあげて否定すればよろしいのではないでしょうか。さて・・・ >国内刑事事件の場合も、無罪、有罪の判決、および量刑の決定は、その事件の証拠や罰則規定をベースとして、裁判官の良心にもとづいて行われるものであり、それは国際法裁判においても同様です。 それは、事実認定や法の適用に当たって、裁判官がそれを良心的に行う、という話であり、良心が規則の代わりになるという意味ではありません。良心で裁かれたりしたら、法治の否定になります。何のために成文法があるのか、という話でしょうに。良心は裁きの根拠にはならない、ということですよ。 >「良心があったら、法の諸原則を無視しても許される」って、いったい、何を根拠にこのような侮辱的発言をするのでしょうか。国際法の裁判では国内法の原則が無視されるのは当たり前ではないですか。国際法と国内法は異なる法体系なのですから。 ??。ですから、国際法の裁判が国内法とは違う、ということは認めていますよね。しかし、無視して当たり前、かどうかは、疑問だし、「違う」ということが、必ずしも「正当」を意味しないということは、藤田氏の次に引用するサイトにも記事がありましたが。 http://www6.plala.or.jp/Djehuti/2001220.htm (上のサイトより、部分引用)・・・・人道法違反行為を、「事後法」あるいは「勝者の裁き」にならぬよう裁くため、 1949年ジュネーブ諸条約の重大な違反行為、戦争の法規慣例違反、ジェノサイド、人 道に対する罪を事項管轄として設置された。 以上、引用でした。 このように、事後法や、勝者の裁きであるということについて、東京裁判に関して、「全く問題ない」とは言えないと思います。罪刑法定主義にしても、実際の話、もし本当に国際法で罪刑法定主義が問題にならないのだとしたら、戦争犯罪として原爆投下などが裁かれないのは、実質的に米国の「力の担保」によるものではないのですか。罪刑法定主義を「無視できる」というのは、それが「勝者の裁き」に依存しているためであり、本当に「無視できる」のならば、その主義は真っ先に米国にも中国にもソ連にも向けられるはずです。 これらの国々は、国際刑事裁判所に対しても、不同意でしょう。「勝者として裁く」のならば、平和に対する罪をいくらでも条例で作るが、自分が裁かれるのならば、自国以外の権威が司法権を持つのは認めない、というのであれば、そんなのは法ではなくて、強者の論理に過ぎないでしょう。こうした事実も、東京裁判が所詮は「勝者の裁き」でしかないことを示していると思います。 > > もしそういうことが、東京裁判の結果を正当化・追認するために言われているのだとしたら、「勝てば官軍」の国際版焼き直しみたいな話だと思いますね。法も何も、あったものではありません。「勝った者が、正義だ!!」という話でしょう。 > > なんのことか理解できません。 上に説明しました。裁く側に立つときには、その法を他人には適用させるが、自分が裁かれる立場に立つのはゴメンだ、というのであれば、そういう人がする裁きは、真に法による裁きとは言えない、復讐の類であろう、すなわち、「勝った者が、正義だ!!」という叫びと同じだ、ということですよ。 > > (罪刑法定主義」の原則が)不適用になった、それが単に「事実の描写」として言われているのか、それで「正当であり、将来共に国際法が準拠すべき原理」というのか、「不当だが、事実はそうだった」のか。 > > これまで述べてきたことで理解できたはずですが、この議論では、東京裁判をテーマにしており、したがって、「当時としては正当であり」というだけで十分ですが、それに付け加えれば、今日においても正当であるが、将来的には変化する可能性がある、ということです。 東京裁判が、当時としても「正当な法の裁き」というよりも、「勝者による、敗者への復讐裁判」であるという疑いは濃厚だったことに何の変わりもありません。事実、私は合法であるからといって必ずしも正当であるとは思いませんので、それは区別したいと思います。法律に定まっているからと言って、必ずしもそれが真の法であるとは思えません。この場合は、法に定まってすらいないことが、「慣習法」の名の下に正当化されるのですから、ますます内容が疑わしく、「当時としては正当だから、それで十分」などと片づけることは出来ません。 > >勝者の裁きの追認、ということが法であるなら、次の戦争では「何をしようが、勝てば官軍」という理屈が生まれて、より熾烈な復讐戦があろうことは、当然予想されますね。 > > 罪刑法定主義が国際法裁判に適用されないということを理解できれば、それが第三者機関による裁判であっても同様に適用されず、したがって、「勝者の裁きの追認」などという批判は出てこないはずですがね。 罪刑法定主義が国際的に適用されない、などという話が一般化されれば、国際社会は「強者の論理」に支配されてしまうでしょう。そういうことを防止するために、条約という法で縛るのですが、東京裁判を正当化しようとするあまり基本を外してはいけないと思います。 国際刑事裁判所のようなものを作るとすれば、ますます厳密な「罪刑法定主義」が期待されるようになることは確実です。罪刑法定主義が東京裁判で無視されたことは、それは「事実」ではあっても、「正当」なことではありません。 > 告天子さんが「勝者の裁き」と呼ぶ東京裁判に対して、日本では復讐の機運が高まったのでしょうか。そんなことはなかったし、現在もそんな空気はありませんね。むしろ、侵略戦争や特定の民族の迫害・虐殺を犯罪とする見方が常識として定着し、東京裁判を大きな教訓として、誤りを繰り返さないという意識が定着しているのが現状でしょう。ちがいますか。 何故勝者の裁きだからといって、それに我々が「復讐」しなければならないのでしょう?。日本人は、そういう民族ではないと思います。復讐に復讐で応えたら、それは悪因縁でしかない。しかし、相手のしたことがどんなことだったのかを、しかと見据えて、その上で正しく考えることは必要かと思います。日本に、「東京裁判に、報復してやる」みたいな空気がないことが、東京裁判が連合国の復讐裁判であることを否定する証拠にはなりません。 過ちを繰り返さないようにするなら、まず物事を正しく見ようとすることが必要かと思います。勝者の裁きを正当化して、それに盲従する必要はありません。まして、そうすることで「反日」の材料にするのであれば、実に不当なことであると思います。 そういうことへの反省から、「報復」の機運などはないにしても、東京裁判の再評価、見直しの機運は、激しく高まっているのが現代日本の現実です。これは、単なる「右傾化」とは区別して、正しい認識を求めるものとして、評価すべき動きだと思います。 > > この「当時のハーグ条約についての各国の対応」が、そのまま不戦条約や東京裁判の事例にも当然に当てはまるとは思えませんね。 > > どうして「思え」ないのか説明がありませんが、ハーグ条約の以前から、以降においても罪刑法定主義が国際法の原則とはなっていない状況には変化がないのですから、東京裁判にも適用されないのが当たり前じゃないですか。 ハーグ条約と、不戦条約とでは内容が違うからです。ハーグ条約では、何が罪であるのかは明示されていますから、その点、不戦条約の東京裁判への適用とは事情が違うでしょう、ということです。先の投稿にも何度も書いたと思いますが。 > > 「認められていた」からといって、それが「正当なことである」とは限らないし、野蛮な社会で野蛮な法が実行されていたとしても、それが文明的であるとは言えませんから。 > > 「認められていたから」ということは、それが「正当なこと」と認められていたことを意味します。たしかに、国際法は、国内法と比較して「野蛮」と言い得るかも知れませんが、それを国内法と混同して批判するという告天子さんの見方が問題なのです。 それでは、植民地獲得戦争なども、そういうことがあった当時は「認められていた」のだから、正当だというわけですか。有色人種の奴隷売買にしても、国際的に「認められていた」のだから、何ら違法でも不当でもない、ということになると思いますが。 > > 実態がこうだった、と言うのは分かります。しかし、それを「追認しなければならない」ことはないと思います。また、それを別の場合についても、当然に適用すべきだとは思えません。 > > 告天子さんが追認しようがしまいが、どうでもかまいませんが、当時の国際社会では承認されており、したがって、同様なケースにも適用されるのが現実であったことは認識して下さい。 当時の国際社会は、当然ながら「勝者の構成した国際社会」であり、敗者の言い分など認めないことが「認められていた」、それが現実だ、・・・といわれても、だからといってそれを追認しなければならない理由などない、というのが私の意見です。 > >まあ、それが「当時の国際慣習法の現実」だった、と言うのは分かりますよ。可能な限りの「最高道義」だった、というのも、当時に於いてはその通りだったかもしれません。しかし、その問題性格や、反省されるべき点がないのかについては無視して、「法律で決まっているから、現実にそうだから、だから正しいのだ」とは言えないのではないかと思います。 > > これもねぇ、ご自分で、国内法の原則である罪刑法定主義は正しいのだ、この原則を適用しない裁判は間違っている、と主張していることを忘れてしまっているんじゃないかと思いますが。 一番上のところで、説明しているのでご覧ください。五番街さんは、「現実にそうである」、そうせざるを得ないのである、ということと、それが「正当である」こととを、混同されていると思います。 五番街 「現実にそうだったから、正当なのだ」 告天子 「現実にそうであっても、正当とは限らない」 > > 私としては、こういう「既成事実を正当化」するような、勝利者の追認が「法である」みたいな考え方には、納得できないですね。 > > 残念ながら、告天子さんが納得できなくとも、当時の国際社会が受け入れていたのですから問題はないですね。 ほらね。つまりは、「強い者が正義だ」「勝った者の言い分が法だ」という話に落ちてしまうのですよ。「国際社会」の追認が、法ではないでしょう。国際社会が受け入れていたのだから問題ないのだなど、正当性とは関係のない話です。罪刑法定主義もないような、無法の社会が国際社会の現実だ、というのなら分かりますが。逆に「罪刑法定主義など、国内法でしか通用しないのだ」とは、倒錯だと思います。 |
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