| 34881 | 返信 | Re:東京裁判と靖国を巡って 内在性と外在性 | URL | あしな | 2005/05/06 22:22 | |
| 芥屋さんこんばんは。 > でも、問題になっているのは「烏龍茶理論の論理的整合性」に関してですから、“あり得ない「完全性」”なる概念を持ち出さずとも、十二分にその「不全性」を指摘できますよ。 > 私の知ってる検事と弁護士が「あらゆる事態に完全に対応出来る法律などあり得ない」という主旨のことをそれぞれに言っておりましたが、「東京裁判の不当性」というテーマで語られる限りは、誰が相手であっても、いくらでも語ることができるでしょう。 > ですので、靖國神社を参拝したり崇敬したりしながら東京裁判の不当性を考えることもできるし、靖國神社を全く敬う気になれない人でも東京裁判の不当性を考えることが実際にはできます。反天皇制との関連で靖國神社と東京裁判を一体不可分…と見る政治思想の人から見れば「それはおかしい」となるのかもしれませんが、それはその人のイデオロギーに合わないというまでのことでしょう。> 確かに東京裁判の是非、靖国公式参拝の是非のそれぞれについて別個に芥屋さんと私が各自のイデオロギーに内在的に語る限りは、それぞれに「そういう考え方もあるかね」というだけでしょう。しかし靖国と東京裁判を絡めて考える場合、私と芥屋さんに加えて戦後日本の国家体制(もしくはその指導者達)が問題となります。 ここで確認すべきは、東京裁判を受け入れることと靖国を批判する事が一体であるとは私の個人的主張ではないと言うことです。日本の戦後体制の前提としてポツダム宣言受諾、天皇人間宣言、東京裁判、サンフランシスコ平和条約の締結という一連の過程が存在します。戦後日本がその出立に際してそれら一切を受け入れたことは否定出来ない事実です。その一連の過程において象徴天皇制の成立(による天皇制そのものの維持)と日本の非軍事化はバーターであり、また靖国的なものを排除することは日本国の非軍事化の核心とも言えるでしょう。 それ故、東京裁判の整合性というテーマが「整合性そのもの」に留まらず、靖国の是非と絡められるのであれば、東京裁判の評価と戦後日本の体制そのものに対する評価との「整合性」が問われてしまうのではないか?ということです。 もちろんそのような政治的意味付けを一切排除して「法的整合性」に関する議論の内部に(いわば訓こ学的に)留まり続けるという選択もあり得るでしょう。しかしそれは、冒頭に述べたように原理的に埒のあかない話でしょう。 あるいはいくら東京裁判の不当性を言っても、肝腎の日本国と天皇はそれを受け入れてしまったわけでして。契約としては成立してしまっているんじゃないかと思います。であるならば、なぜ日本国と天皇はそれを受け入れざるをえなかったのか? もちろんそういうことは一切捨象したいと言うのであればそれまでの話ですが。 以下余談ながら、陸海軍省共管(職員は陸軍省職員録に記載)だった靖国と内務省神社局の所管だった(一般的な意味での宗教ではない国家神道としての)一般神社と文部省管轄だった宗教を無前提に同一視出来ると言うのが土台無理です。これは単なる役所の縄張りの違いではなくて、そこに示された政治的位置付けの違いです。(参照 事典昭和戦前期の日本 制度と実態 伊藤隆監修 百瀬孝著 吉川弘文館) |
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