| 34942 | 返信 | RAWAスタディツアー報告 | URL | 前田 朗 | 2005/05/08 14:08 | |
| 「RAWAと連帯する会」のRAWAスタディツアーで4月29日から5月6日までイスラマバードに行ってきました。第一陣は4月25日、第二陣が29日にイスラマに入り、合流しました。 http://rawa-japan.3005.net/ 4月28日 RAWA(アフガニスタン女性革命協会)は、ムジャヒディンの原理主義者がカブールを占領した4月28日をブラック・デーとして、イスラマの国連事務所に向けて抗議デモを毎年行っています。国連が原理主義者を容認しているからです。私たちの代表はこのデモに3年続けて参加しました。デモの様子はRAWAのウエッブサイト参照。 http://www.rawa.org/kab-jan05/apr28-05.htm http://www.rawa.org/ パキスタンの新聞DAWN、Nation, DailyTimesなどに報道されています。6紙入手しました。DAWN掲載の写真にはRAWAと連帯する会の横断幕が少し見えます。 運悪く、イスラマバードに小泉首相が来ています。こちらでは反日デモは起きていません。大歓迎ムードが演出されています。 4月30日 (1)RAWA施設見学 4月30日、ラワルピンディのRAWAの施設を見学しました。 最初にマラライ病院です。以前は小さなビルの2階と3階を借りていましたが、今年1月に移転して、小さな民家1件になっています。欧米からのカンパが減っているため、以前の施設を維持できなくなり、大幅縮小しています。小児科と婦人科を持っている形にはなっていますが、1つの部屋を使っています。以前は1日に120名の患者が通っていましたが、今は1日45名を受け入れるのがやっととのことでした。以前は一応手術室もありましたが、そうした設備はすべてなくなっています。問診して、特に必要な場合にかろうじて薬を投与するだけです。 次に高校を見学しました。ここも昨年の場所から移転していました。財政的理由もありますが、もうひとつには子どもが騒いで窓を割ったので家主とうまくいかなくなって移転したとの事です。高校といっても、1年生から12年生までいます。つまり、小学校・中学校・高校までです。教室が足りないため、午前中は7年生から12年生までの授業。午後は入れ替わりで1年生から6年生。見学したのは7年生から12年生の授業で、宗教、ダリ語、英語、地理などの授業です。 (2)アフガン難民キャンプ RAWAのマラライ病院へ行ったときに、患者の女性や子どもたちが住んでいるところを見てはどうかといわれたので、見に入ったところ、イスラマバードI-11難民キャンプでした。2002年3月に初めてイスラマに来たときに最初にいった難民キャンプです。2002年7月に行ったときには、難民の帰還作業が進行中で、難民高等弁務官事務所にたくさんの難民が手続きに来ていました。大型バスが何台も並んでいて、満員状態。それどころかバスの屋根の上にも人々が乗っていました。その後もこちらに来るたびにすぐ近くを通っていましたが、I-11を見学対象とすることはしていませんでした。ペシャワルのカチャガリ難民キャンプが半分以上帰還して、家がつぶれているのと同様に、首都のイスラマにある難民キャンプは真っ先に帰還させられていると思い込んでいました。 ところが、昨日行ってみると、I-11のイスラマよりの部分はたしかにかなり家がなくなっていましたが、ラワルピンディよりの部分はまだまだたくさん家があり、人々がすんでいました。はじめてきたときに、やや高い部分から全体を見ました。今回はそこには立ちませんでしたが、近くを通ったときに車の中から見た感じでは、半分は残っていると思いました。 私が誤解していたのは、イスラマI-11のほかに、ラワルピンディにも難民キャンプがあると思い込んでいたことです。RAWAのマラライ病院、学校、孤児院などすべてラワルピンディにあるからです。しかし、イスラマとピンディは隣同士です。ピンディの郊外にイスラマをつくったからです。イスラマの一番はずれのI-11にアフガン難民キャンプがつくられました。通りを1本越えるとピンディです。イスラマ中心部からは遠くて、ピンディの住宅地に近接しているのです。難民キャンプはイスラマにあるのですが、RAWAの施設はピンディ側にあるのです。 現在、パキスタンにはアフガン難民が約150万居るそうです(この点は後述)。2001年10月には300万でしたから、ちょうど半分帰ったことになります。23年経っても帰らない人たちは、帰るつもりのない人も多いということです。理由は、故郷の土地も家も破壊されてないため、故郷の住民間でのトラブル(ムジャヒディンに殺された等)、帰っても仕事がない、まだ安全面で不安がある、などさまざまの理由でしょう。それでも徐々に帰っているようで、RAWAの学校の生徒たちも、卒業したらカブールへ行くことを考えています。 日本政府の援助をはじめとして、国際的援助はカブールなどショーウィンドウに集中していますから、まだパキスタンにいるアフガン難民への援助は激減しているようで、生活は困難です。RAWAへの援助も大幅減少しています。 5月1日 1日は、午前中はファイサル・モスクというイスラマの大きなモスクを見学。1976年にサウジアラビアのファイサル国王が寄贈したモダンなモスクです。続いて、ダマネコ展望台へ行きましたが、いつも行く途中の展望台ではなく、頂上の展望台まで行きました。1000メートルほどのところで風が涼しかった。昼食はイスラマのアフガン料理の「カブール・レストラン」で、マントゥ、アシャク、パラオなどを食べました。午後はイスラマの日曜バザールを回った後、G-6にあるアフガン人の露店で買い物。ラピスラズリというアフガンの青い石のネックレスなどを買いました。 5月2日 2日は、ペシャワルに移動しました。イスラマからペシャワルへはグランド・トランク通り(GT通り)でまっすぐですが、今回は途中まで、新しく出来た高速道路を通りました。快適な3時間のドライブです。数年後にはペシャワルまですべて高速でいけるようになりそうです。GT通りは元のアジアハイウェイですが、少し前まではあちこちガタガタでした。今はかなり良くなっていますが、高速ができていっそうラクになりました。 ペシャワルでは、RAWAの孤児院を訪問しました。昨年も訪問したところで、ペシャワル西部の住宅地にあります。30人の子どもが生活しています。一人3歳の子がいますが、あとは6歳から15歳くらいまでです。まったく一人の子、母親のいる子、両親がいるが暮らしていけない家の子(親が病気で働けないなど)などです。孤児院から学校に通っています。また、手工芸の先生が通って教えたりしています。昨年訪問したときは1階と2階を使っていましたが、今は1階だけです(狭い地下室も使っています)。というのも、ここはRAWAのサポーターである家主が好意で貸してくれているのですが、家主の事業がうまくいかなくて、2階を使う必要がでたため、2階を返さなくてはならず、今年になって1階だけになったのです。子どもの数は同じですから、少々手狭になり、ベランダにも仮設の壁をつけて寝室にしていました。 子どもたちが歓迎の唄を歌ってくれました。「ワタン(祖国)」という唄など。それからアフガン・ダンスの時間になり、子どもたちが踊り、私たちも引っ張り出されて踊ることに。あとはボール遊び、風船、折り紙の時間。 昼食はガイドブックにも出ているシラーズ。はじめてきたときから何度か行っています。宿泊もいつものVIPハウス。以前は、お風呂のない部屋、お風呂があってもお湯の出ない部屋とかいろいろありましたが、今回は改善。 5月3日 3日のペシャワルは朝から雨で肌寒い日でした。この時期、昼間は暑い日が続くので夏服のわれわれにはかなり寒い印象。加えてポツポツ降る雨の中をあるきました。 3日は一日、ケーワ難民キャンプの見学でした。ケーワは、アフガンのジャララバード近くの村の名前です。そこから逃げてきた人たちが集まって難民キャンプ(村)をつくっています。キャンプは周囲を土壁で囲んでいるので中は独立のひとつの世界です。私は3度目です。以前聞いたときは、ケーワ村にRAWAから協力するようになり、やがて実質的にRAWAの拠点のひとつになったということでしたが、今回の話ではミーナが生きているときに、ケーワと接触があり、協力をはじめていたということです。最初は少数の人が暮らしていたところに徐々に逃げてきたらしく、大きな集落になっています(今は500世帯が居住)。ミーナが亡くなったのは1987年ですから、20年程前から形成された難民キャンプです。住民の多くは近くにあるレンガ工場(パキスタン人経営)で安い給料で働かざるを得ません。一日はたらいて40ルピーとか(1ルピーは2円。安いレストランでケバブ一人前)。かつ、ここは国連難民高等弁務官事務所の登録をしていないキャンプなので、国連からの支援物資がなく、就職や移動に必要な許可証もないので苦労しているということです。 ケーワでは、まず女子校を見学。名前はハイスクールですが、1年生から12年生までいます。小学校から高校まで。男子校は授業が終わっていたので校舎のみ見学。さらに男子寮を見学。女子校と男子校には、ケーワの子どもや近くの難民キャンプの子どもが通っていますが、男子寮には孤児や親元を離れた子どもが住んでいます。 昼食後、RAWAの集会場で歓迎会がありました。女子生徒が英語で歓迎の挨拶。続いてやはり女子生徒たちが唄を歌い、さらに女子生徒が英語で演説。舞台に立つのは女子生徒ばかりですが、舞台の演台を動かしたり、照明・音響・撮影は男子生徒がやっていました。RAWA連からの答礼あいさつの後、大人による寸劇があって、最後に女子校校長からしめのあいさつでした。 ここも財政難のため、診療所は閉鎖していました。近くの別の難民キャンプにある診療所に通っていますが、ケーワにないので不便かつ苦労が多いということです。RAWAとRAWA連の今後の連帯関係について協議して、この日は終わり。 夕食はアザド・アフガン・レストランでアフガン料理のカバブやパラオ。ただ、マントゥとアシャクは売り切れのためありませんでした。 5月4日 4日は、一転して暖かな陽気の日でした。RAWAの識字教室と高校を見学しました。 識字教室は、ペシャワルのなかでも比較的アフガン住民の多い住宅地(アフガン難民キャンプ以外の一般住宅地にも多くのアフガン人が住んでいます)にあります。1軒の家を借りて、成人女性のための教室を開いています。授業は午前中だけで、パシュトゥ語の読み書きを教えています。生徒の多くは一見して30−40代の女性で、学校に通う機会のなかった人たちですが、その中に学齢以前の子どもや学齢期の子どもも含まれます。学齢期の子どもは、親の考えなどにより(女の子は学校に通う必要がないと考える親がまだまだたくさんいる)学校には通っていないが、少なくとも読み書きできるようにここに通っています。RAWAの識字教室は無料ですから、親も反対はしないのでしょう。 高校も混雑した住宅地にあります。(孤児院やケーワ難民キャンプは周囲とは別の世界になっていますが、識字教室と高校は住宅地の中の普通の建物です)。昨年まで見学した高校とは別の高校です。狭い商店街を通り、路地を入って、建物の中に入ると、普通の一軒の家の部屋を区画して教室を作っています。どれも狭い部屋に子どもたちがひしめいています。ラワルピンディやケーワでも同じですが、机はありません。子どもたちは古びた小さないすに座っています。いすの足りないところでは床に座っています。1年から12年まであります。RAWAの学校は無料なので、とにかく学校に通いたい子どもがきています。一部はRAWAだからここにきていますが、多くはそうではないそうです。ここがなくなれば、ほかの学校は有料ですから通えなくなります。ましてパキスタンの学校は高いので到底通えません。卒業生の一部はRAWAのサポーターになるそうです。 アフガニスタン政府に登録しているので、アフガニスタンの普通の教育課程と同じ授業をしています。壁にはカルザイの写真が一枚貼ってあります。反対の壁にはミーナやRAWAのポスターがたくさんあります。タリバン時代には、アフガニスタンの教育課程には独特のイスラムの授業が一学年に5つもあったそうですが、今は普通のコーランの授業を1つやるだけで、あとはダリ語、地理、算数、化学、歴史、英語などです。アフガン政府に登録しているので、ここを出れば高卒の資格になり、カブール大学の入試を受けることが出来ます(カブール大学は無料なので、難民が帰って受験することも出来ます。ただし超難関)。 午後にペシャワルからイスラマに戻りました。 5月3日の新聞The Newsにアフガン難民に関する記事が出ていました。1979年から増え始めた難民が最大時にはパキスタンで304万7225人になりました(国連難民高等弁務官事務所UNHCR調べ)。一般的には、アフガン難民600万、そのうち300万がパキスタン、残りがイラン、ウズベキスタン、タジキスタンなどと言われていましたが、UNHCRの数字でもパキスタン300万となっています。それが現在は150万と言われています。半分かえって、半分残っていることになります(または、いったん帰ったが、またパキスタンにきた)。 地域別では、 ペシャワル 60万8653人 クエッタ 34万2772人 ノウシェラ 22万9318人 イスラマバード 4万4637人 カラチ 13万1793人 ラホール 1万8295人 などです。男が51%、5歳以下の子どもが5%とのことです。 男が51%というのは以前何かで見たのとは大きく変わっています。難民には女性の比率が高いと言う話を記憶しています。というのも、ムジャヒディンやタリバンなど、アフガンに戻って戦っていた(殺しあっていた)のは男です。それが今では半分男と言うことは、一応戦いが終わっていることを反映しているのかもしれません。(一部の武装勢力がいて、いまでも米軍が空爆したり、戦闘が起きていますが。ちなみに数日前にもウルズガンで米軍の空爆で4人殺しています。) 5歳以下の子どもの比率も、私の記憶としては、もっと多かったはずなのですが、なぜか5%です。この理由はわかりません。 ペシャワルには、カチャガリ、ジェロザイ、ニューシャムシャトーなどの難民キャンプがたくさん残っています。カチャガリは半分かえって、家が壊され、整地して、ペシャワルの再開発が計画されています(町の中のGT通り沿いのいい場所に難民キャンプがあったので)。他方、山を越えたところにあったコトカイ難民キャンプはすべて帰還(または移動)して、閉鎖されたそうです(今回は行っていないので見ていません)。クエッタも難民キャンプの多いところです。 イスラマの4万4637人は「イスラマバードI−11」です。4日にペシャワルから戻ったときにも脇を通ってきましたが、やはり小さくなった印象です。あちこちの家がつぶれていた印象。最大時20万と言われたそうですが、以前きたときにも8万から10万とかいった大雑把な数字を聞いた記憶があります。正確な記憶ではありませんが、いずれにしても数が減っているのは確かです。 カラチやラホールの場合は、出稼ぎ労働者の状態で滞在している難民でしょう。ケーワ難民キャンプで聞いた話でも、男性の一部はカラチに行って働いていると言うことでした。 5月5日 ジャカランタと火炎樹の咲き乱れるイスラマバードの5月。今日は暑い一日です。 5日は2つに分かれて行動しました。パキスタン初体験グループはタキシラ観光に出かけました。「そこ〜〜へ、行けば〜〜〜、どん〜〜なこ〜と〜も〜〜」のガンダーラ遺跡です。ラクダにも乗ってきたそうです。 パキスタン2度目グループはラワルピンディのRAWA孤児院を訪問。子どもたちが「ワタン(祖国)」を歌ってくれました。また、ヌーリスタン音楽の演奏も。ヌーリスタンはアフガン北東部のヒンズークシ近辺です。「光の土地」と言う意味だそうです。昼食をご馳走になって、帰りました。 RAWAグッズを預かり、別途、RAWA連グッズも仕入れてきました。 夜のフライトで帰国です。 |
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