| 34970 | 返信 | Re:東京裁判と靖国を巡って 内在性と外在性 | URL | あしな | 2005/05/09 22:59 | |
| 芥屋さんこんばんは。 大まかに言って靖国は特殊かどうか、と靖国を巡る「信教の自由」の問題 いずれにしても まず戦前において「信教の自由をうたう憲法の建前上、神社神道は行政上の見地においてはあ宗教と全く区別された。宗教行政を文部省の主管とし、神社は内務省の管理に属させたのは、その行政上これを宗教として認めないことを明示するものであったという。」(前掲 事典昭和戦前期の日本219ページ『行政法撮要』より重引)ことを踏まえれば、陸海軍省共管であった靖国は一般の宗教法人からだけでなく、一般の神社神道からも区別された存在であった事が分かります。 さらに1932年の「靖国参拝拒否事件」に見る様に、「宗教ではない」という大義名分下に「参拝が強制」されたことも事実です。もちろんそのような論理は当時の法律上の正当性を見かけ上は担保するわけですが、二拝二拍手一礼の参拝を強制して「宗教ではない」と言うのは今から見れば全くおかしな話で笑えないので冗談にもなりません。 しかもその強制は「天皇のために戦死することは格別意義がある」という大日本帝国の公式イデオロギーもしくは教義を強制することに他ならず、国家が人民を戦争に駆り立てる手段でもあったわけです。 大日本帝国の崩壊、日本国の成立によってはじめて日本人は靖国及び神社神道は宗教ではないという自己矛盾そのものである理由により「参拝(信仰しているとの意思表示)」を強制されなくなったわけです。 さらに日本国の成立に当たって靖国は公式イデオロギーから排除されました。少なくとも現行憲法の理念と「天皇のために死ぬことは格別意義深い」とか「神社は宗教ではないから国民は参拝しなければいけない」という思想は両立しがたいでしょう。 当の靖国自体は一宗教法人として信仰の自由の下に存続します。その範囲において「現行法理」に照らして靖国の存続と靖国に対する信仰は当然ながら適法です。 しかし靖国自体は、少なくとも「天皇(あるいは日本国家)のために死ぬ…」というイデオロギーを維持しています。戦後一般戦没者を祭る鎮魂社とか言う拝殿のようなものをつくったそうですが、むしろ本殿に祭られる「天皇のための戦死者」との差別化は強調されてしまいました。また「参拝」こそ強制しないものの、「合祀拒否事件」にみるように他人の信仰を無視する性格も維持されています。そのように見れば戦後の変革に対する靖国からの拒否は全面的なものといえるでしょう。 それにもかかわらず、靖国が存在すること、戦前からのイデオロギーを無批判に維持していること自体は現状で「信教の自由」の範囲で全く自由です。他人に悪さしなければ。また靖国自体が戦後体制を前提に存続していながら、戦後体制を否定するという矛盾を抱えているとも言えます。 ですから現職の総理大臣が靖国を参拝すること自体、裁判で有罪にする性質のものではありません。しかし現行体制の成立に際して国家権力の公的領域から、戦前において思想面から軍国主義を支え、事実上「信教の自由」を制限した靖国イデオロギーが排除されていることは自明です。ここで現行憲法はじめ現行体制成立時の様々な取り決めを国内外への公約と見なせば、靖国イデオロギーを排除することを国内外への約束することで現行体制は成立・存続していると言えます。現職の首相が靖国イデオロギー(前述の様に戦前から現在まで継続している)への親近感を公衆の面前で表明することは現行体制の基本的な約束に対する異議を表明するのに等しいことになります。これは現行体制の一方の長が現行体制を自己否定することになります。まあ自家撞着的に否定するぐらいなら、現行体制そのものを廃棄しろよということになりますが、私自身としては「天皇のために死ぬことは格別意義深い」とか「靖国は宗教じゃないから参拝しなければいけない」というような体制は願い下げです(当然の事ながら)。 |
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