35015 | 返信 | 五番街先生の「二元論」講座。 | URL | 八木沢 | 2005/05/11 15:54 | |
五番街君。 >アナタの妄想の中では、国内法と国際法とが同一化されているが、それが、アナタの証明方法の致命的な欠陥になっている。ちなみに、私は、国内法と国際法が異なる法体系である、とか、国内法の原則を国際法に適用するのは間違っている、という指摘をこれまでに幾回となく行ってきたのだが、アナタはそれを完全に無視している。 いったい、いつの時代の話をしているのか。「国内法と国際法が異なる法体系である」ことと「国内法の原則を国際法に適用するのは間違っている」ことは同じ意味ではない。むしろ、国内法と国際法が同一の法体系にあるからこそ、国内法の原則を国際法に適用するかしないかという問題が出てくるのである。国内法と国際法が異なる法体系をなしているというのはトリーペルやアンツィロッティらが理論化した「二元論」であるが、これは19世紀までの遺物である。第一次世界大戦後は、同一の法体系にあるとする「一元論」が主流であり、ノルウェー漁業事件(1951年)での国際司法裁判所判決はこれを踏まえたものとして有名である。また、ILO87号条約を批准するにあたり我が国が公労法を改正したのは、そうしなければ国際法と国内法が抵触することが明らかだったからであり、これらは「国内法と国際法が同一の法体系にある」からゆえにおこった事例である。「国内法の原則を国際法に適用するのは間違っている」とのことだが、確かに「条約法に関するウィーン条約」第27条が明文化しているとおり「国家は自国の国内法を援用して、国際法上の義務を逃れることはできない」わけだが、東京裁判が罪刑法定主義の観点から批判されるとする今回の議論には全く無関係である。罪刑法定主義は日本だけが勝手に決めている原則ではなく、「国際法と国内法」という場合の「国内法」の概念のなかにこの「罪刑法定主義の原則」は含まれないからだ。 国際法と国内法の関係について、私が「完全に無視している」とのことだが、この件について私はとっくに具体的に発言している。それを完全スルーしていたのは五番街君のほうだ。再掲するので、今度はスルーしないで明確に反論をしてもらいたい。 「国際法と国内法は違う」といったとき、その根拠はオースティンがいうように「強制力の欠如」というところに求められる。東京裁判のような、強制力の欠如という前提がない場合にも「罪刑法定主義は国際法の原則とはなっていない」旨を繰り返すのは、国際法と国内法がなぜ違うとされているのかも知らずに、ただ「違う」ということだけを機械的に暗記したマニュアル思考に基づく安直な主張であると断言せざるを得ない。ほとんどの場合、強制力がなくとも国際法は守られる、相互主義(「自分が守らなければ、相手が守らないことに抗議できない」)によって、である。罪刑法定主義を否定するのなら、国際裁判なる本来の国際法からは逸脱したものの存在も同時に否定しなくてはならない。 (No.34819投稿「五番街氏、そろそろお引き取りを」より) もう一人の厨房・烏龍茶氏が「慣習法、慣習法」と狂ったように連呼して、何でも「国際慣習」で済ませられると思い込む阿呆ぶりをさらして周囲を笑いの渦に巻き込んでいるが、19世紀までの国際法が慣習法に依存していたのは、まさにこの「国内法と国際法が異なる法体系をなしている」という通説と不可分の関係にあったわけだ 。先に述べたように国際法の特徴は「強制力の欠如」(法を作ったり、それを守らせたりする権力の不在)にあったわけで、国内法と国際法の規律領域がそもそも違ったのである。しかし、東京裁判のように被告を裁き極刑すら執行するという強力な権力の前提となる場合には、19世紀型の国際法観ではとても立ち行かない。何度も申し上げるように、東京・ニュルンベルク両裁判のような戦勝国による国際裁判はこのときに初めて実施されたのであり、「慣習法によって行われた」という主張自体が誤りなのだが、裁判は明文化された法によって行なわれなければならないわけだから、仮に慣習法によって行なわれたのであればその時点で不当、どっちにころんでも不当な「裁判」なのである。 >アナタの当初の主張は、まとめて言えば、「罪刑法定主義は、1989年のハーグ条約陸戦法規などの戦争法に適用されないという五番街の主張は間違っている」ってことだ。そこでアナタは、自説の証明として、1948年の世界人権宣言第11条2項を引用した。ところが、アナタが論証しなければならなかったのは、1. この宣言第11条2項が、以前の戦争法に適用されること、さらに、2. この条項によって、国際法に罪刑法定主義の原則が適用される、という2つの点だ。しかし、1.の問題は全く論証されず、シッポを巻いて逃亡したままだ。2.の問題についても同様に、何の論証もないが、論証したという気になっているらしいことが、アナタのアタマの程度を示している。 五番街君が「八木沢の当初の主張」とやらをまとめているが、私がいつこんなことを主張したと言うのか。私が主張したのは、東京裁判は罪刑法定主義に基づく裁判ではないから不当であるということ、国際法には罪刑法定主義は適用されないという見解に対してそれは違うということ、この二点である。「ハーグ」などという単語すら一度も使用したことがないのに上記のような要約はありえないし、よって1の問題も2の問題も存在しない。相手にありもしない逃亡のぬれぎぬを着せるのであれば、自分がスルーしている数々の問題はどうなるのか。多くの公的機関が世界人権宣言第11条2項に「罪刑法定主義」の見出しをつけているから確認せよと前回教えてやったはずだが、今回そのことに対する回答が一言もないのはなぜだ。 罪刑法定主義の法的根拠は事後法の禁止の条文を呈示することだけで事足りることが遅くとも1980年代には学説上決着がついている、と私が述べた事に対してどうのこうのイチャモンをつけているが、これは日本国憲法についての話である。世界人権宣言に罪刑法定主義の規定は第11条2項にしかなく、この条項は当初から罪刑法定主義について規定したものである。「世界人権宣言が採択された1948年から1980年代までの30年間以上にわたって、この条項は事後法を禁止したものではあるが、罪刑法定主義を規定したものではないという理解の仕方があった、ってことを認めているのと同じじゃないか。ちがうかい? 」との発言は、日本国憲法についての話なのか世界人権宣言についての話なのかすら区別がつかなくなるほど頭が混乱していることを示している。私が日本国憲法第39条を呈示したのは、世界人権宣言の解釈ができないと言い張る五番街君に同じ意味をあらわす日本語の存在を教えて差し上げただけであり、日本国憲法の解釈が世界人権宣言に影響を与えるなどということがいいたいのではない。なぜ何度も同じことを言わせるのであろうか。「日本国憲法を持ち出してきたことは、それまでは日本国内では、事後法の禁止と罪刑法定主義が確立されていなかったことを示すもんじゃないか。これでは、ハーグ条約陸戦規定などの戦争法との時間軸が無視されてしまっている」に至っては、要するに罪刑法定主義は大日本帝国憲法にすらその規定があったことを知らないことを告白してしまっているわけであり、これまでの数々の無知ぶりの披露といい、いったい五番街君はどういう自信で法律についての議論に参加しているのか、理解に苦しむ次第である。 >私が用意した反論を提示する機会は、果たしてやってくるのだろうか、って気がするがね。 「用意した反論を呈示する機会」が仮に永久に訪れなかったところで、それは私の責任ではない。あなたの想定するレベルがあまりに低すぎるだけのことであり、それは今回あなたが「二元論」などというものを国際法解釈の前提にしていることをもらしてしまったことで公然のものとなった。反論なら歓迎するが、言い訳は時間の無駄だからやめていただきたい。 |
||||||
![]() |