35068 | 返信 | Re:首相の靖国神社参拝に反対する | URL | inti-sol | 2005/05/13 22:45 | |
水原さん > あのぉ、それは大々的に喧伝してる側が悪いのであって、毎年参拝するのであれば伊勢神宮も慣例化してますし 靖国神社自身も公式サイト内で首相の公式参拝を求めているし、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」とかって組織もあり、彼らも公式参拝を求めて大々的に喧伝しています。 伊勢神宮については、撤回します。 > あなた個人がそういう首相が気に入らなければ、個人の資格で批判すればいいことだと思います。 ですから、そうしていますが。個人の資格以外でどう批判できると? > ただし神社への参拝がその政治家の資質のなかでそんなに大きな部分を占めるとも思えませんが。 一般論としてはおっしゃるとおりです。しかしこと靖国に関しては違います。この問題が日中間の対立の焦点のひとつになっていることを否定する人はいますまい。つまり、参拝が招く事態の後始末は、政治家の資質のなかでものすごく大きな部分を占めています。(ただし、政治家という一般論の問題ではありません。あくまで内閣総理大臣であることが問題の核心です) > あーとすみません。ついうっかり書き間違えで、広島県で神社といえばとーぜん広島県の誇るかの美しき観光名所、安芸の宮島は厳島神社です。 ああ、なるほど。では問題にしようとは思いません。 > なんでですか? お伊勢様は国家神道よりもはるかに永い歴史を持ってますが。 はい、撤回します。 > たとえば奇特なお坊様が個人の善意と宗教的信念から硫黄島の戦死者の慰霊を、日米の戦死者分け隔てなく行ったとして、米軍兵士の遺族が「うちはキリスト教だから、異教徒の多神教の慰霊なんてやめてくれ」なんて言い出したら、そりゃその米軍兵士の遺族の狭量さが笑われるだけでしょう。 「無宗教の慰霊なんてやめてくれ」も、まったく同じではないでしょうか。 > > ではいったい何教ですか? > > 何教でもいいんじゃないでしょうか? 何教でも良いなら特定の宗教に対して優遇していることにはなりません。 > どんな宗教にも「霊」の概念はありますし、繰り返しますが「霊」は宗教的な概念ですし、宗教的概念以外のなにものでもありません。←この意味分かってますか? それは、私の書いていることと同じです。そして、どんな宗教にも「霊」の概念はある以上、特定の宗派の流儀に基づかずに行う慰霊は、どんな宗教にも通底し、従って特定の宗教に肩入れする行為ではありません。 > そりゃそうなんですが、しょせん枝葉末節ではありませんか? 本当に「旗ふり役」になったのかどうか、役割の大きさとしては大いに怪しいと思いますよ。「靖国で神になる」ために喜んで戦死した人なんて本当にいたんでしょうか? 建前としてはそうだったとしても、本気で信じていたのかと言えば、そのこと自体が僕には疑わしく思えますけど。 喜んで戦死する人なんて、いるわけないでしょう。そんなこと、私はひとことも書いていませんよ。というか、本人が本当の本当に喜んで戦死したものなら、本人はそれで幸せなんでしょうから靖国の非を批判する必要もなくなります。死にたくもない人間に「喜んで死ね」と強制するための機関として靖国神社が存在した、だから問題だと私は思っているわけ。 > それはつまりオウム=アーレフ=絶対悪というたぶんに全体主義的で差別的でもある日本社会全体の傾向に与することになんの疑問も感じない、ということですか? 絶対悪なんてものがあるのかどうか私は知りませんが、一国の政治指導者がオウムの施設に参拝に訪れたりするな、というのは、オウムを絶対悪と見なすかどうかということとは関係ありません。日本中にいったいいくつ宗教団体があるのか知りませんが、おそらくその99%は、首相が訪れるなんてことは金輪際ないでしょう。つまり、首相が参拝に訪れる方が、よほど優遇なのです。 > だから小泉も行くわけですね。 小泉は一介の民間人ではなく内閣総理大臣です。彼が首相を辞めてただの国会議員に戻ったら、好きにすればいい。しかし首相という職にある間は、彼の行動はすべて「日本国の代表の行動」になります。本人の自由で何をやっても良いだろう、ということにはなりません。 > ならば行けばいいのではないでしょうか 行きたくないものを無理矢理行かせるんですか? tpknさん > 最重要論点だと思いますよ。 そのことは認めます。しかし私の関心の中心はそこにはない。 > そうなのですか? だとしたら、あなたの「賛成・反対」というのはとくに社会的な一般性を目指したものではなく、単なる好き嫌いについて言っているとしか解釈できませんけど…。 突き詰めていけば、社会的な一般性と好き嫌いは表裏一体だと思います。 > えーとですね。「戦前」といっても、長いわけですよ。 はい、おっしゃるとおりです。戦前という言葉を撤回し、戦時中とします。 > 《「戦争を賛美し推進し、兵士たちに「喜んで死ね」と強制するための機関のひとつとして存在した》当時と同じイデオロギーを保持しつづけている 靖國神社の本殿はあくまでも、当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味があることだと思うのです。 そこには「忠義(ちゅうぎ)」という徳が国家経営の大本として据えられているという日本特有の事情があるのです。(中略) では、この「忠」とはどういうことかと言いますと、現代語に翻訳すれば「公」と「私」の関係でして、「私」というものを「公」の為に捧げて、遂には命までも捧げて「公」を守るという精神これが「忠」の意味です。 この「忠」という精神こそが、(中略)日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから、「私」という存在を「公」の為に捧げて働き、遂に命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖國神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。 「喜んで死ね」はいささか言い過ぎだったかもしれませんが、「公」を守るために命を捧げる精神を大切にしろ、とそういっているわけですね。 > 水原さんも書いてますが、参拝することがなぜ「優遇」となるのでしょう? 靖国神社自身が首相の公式参拝を求めているし、その応援団の右派文化人や政治家もそうです。マスコミもこの問題に注目して大々的に報じる。(朝日から読売から産経からすべてそうです) その状況下で首相が参拝することが、優遇でなくて何だというのでしょう。 > 「参拝に反対」というのは、「参拝するな」という意味ではないのでしょうか? そうです。しかし、「参拝するな」という意見を表明することが「イデオロギーの強制」になるんですか?そういう言い方をすれば、「郵政民営化反対」「イラク派兵反対」あるいは「憲法改正せよ」「北朝鮮に経済制裁せよ」、すべてイデオロギーの強制ではないですか。 > > そうかもしれません。しかし、たとえばオウム真理教(アレフ)の宗教施設に一国の指導者が参拝に訪れることなどあり得ますか?法的な意味では、もちろんオウムといえども信教の自由はある。訪れたって違法ではないし、違法とされるべきではない。だけど、政治的な意味での是非はまったく別です。 > はい、ですからそれは政教分離問題ではないのですか? いいえ、訪問する宗教施設がオウムではなく天台宗や真宗やカトリックやスンニ派やヒンズー教の寺院であったとしたら、それでも政教分離という原則上は問題があるでしょうが、しかしオウムの場合と同じ問題にはならないでしょう。 > それをあなたが判断できるのでしょうか? いったいどういった権威によって、今のカトリックはなかなかよいとか、そういうことが言えるのかさっぱりわかりません(笑)。 別に私に権威などありませんが、そういう意味ではどういう権利でオウムはだめだ、と言えるのか、ということにもなります。 結局のところ、その行為に対して(国内的にも国際的にも)どれだけ怒る人がいるか、ということが判断の材料になるんじゃないでしょうか。 > イスラム諸国にはあなたのような考え方に反対の人はたくさんいると思いますよ。 もし仮に、首相がカトリック教会を訪問すると多くのイスラム教徒が怒る、というなら、カトリック教会訪問はやめるべきでしょうね。でもそんな話は聞いたことがない。しかし、もし首相がイスラエルでユダヤ教の教会(寺院というのかな?)を訪問したとしたらどうか。イスラム教徒が怒ることはない、とは断言できません。だとしたら、イスラエルでユダヤ教の宗教施設に足を運ぶようなことは避けておくべきではないでしょうか。 > であれば、その「非神道信者」が参拝にいかなければいいというだけの話ではないのですか? そのとおりです。だから「非神道信者」が参拝にいける追悼施設が別にあっても良いではありませんか。国立の無宗教の慰霊施設を作ったからといって、靖国神社を潰す訳じゃないんだから。(千鳥が淵がその役目を果たしていると私は思うのですが) > なぜですか? あなたのイデオロギーが邪魔してるんでしょう? そうだとして何が問題ですか?イデオロギーというか、個々人の信念です。そうです、信念が邪魔して行けないのです。それがなにか悪いのですか?信念を持ってはいけない? > だったら、いったい靖国神社の何を問題にしているのかわからないのですが。 ここまで書いたとおりですが。靖国神社に無謀な戦争のお先棒を担いだにしても、そのことに対する反省が皆無だとしても、いち民間宗教団体である限りは、靖国神社の好き、信者の好きで構いません。どんな主張にだって思想信条の自由、信教の自由はあるのですから。しかし、総理大臣という立場のものが、彼らの求めに応じてその「広告塔」の役割を果たすことには問題がある、と申しております。 |
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