35078 返信 Re:他者の信仰の許容など URL 告天子 2005/05/14 09:43
> ピッポさん

こんにちは。

ピッポさんの、おじいさんのお話は、非常によく分かります。割とそれに近い感情を持っていますので、共感する部分もあります。

> ですから皆様も、
> 「戦死者遺族のくせに、祀られて喜ばないのか」とか、
> 「戦死者遺族のくせに、靖国参拝をしないのか」とか、
> 仰らないように。他人の心の中に踏み込まないでくだされ。

非常に尤もな話だと思います。靖国神社を楯にして、他人の心に踏みいるような事になったのでは本末転倒ですので、大変、難しい問題だと思います。どちらかというと私はこの問題は、静かにお祀りする神聖なことではあっても、政治問題として議論するようなことは好ましくないのではないかと思っています。

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> 天告どん、
> だれが、だれによって、どのような手続きで「神」になるのか、
> なぜ「神」にならなければならないのか、
> その現実と論理をスルーすることなかれ。
> 明らかになされよ。

人がなぜ神になるのか、よく分からないです。戦争による死というのは、やはり本人が望まざる死ではありましょうから、そこに強い恨みというのも当然ありましょうし、また、国のために没したということは残された人にとってはやはり神としか言いようのない崇高なことではないか、というのもやはりあると思います。

こうしたことと、社会現象としての戦争行為に対する批判とか反省とは、別個になされるべきだと思います。反戦と、反靖国がひとまとめになるところが、問題なのではないかと思っています。


> あしなさん
まとめてのレスになりますが、同じ問題についてなので、ご容赦ください。

>  宗教用語「大安心」「大歓喜」と日常用語の違いを説明して頂かないと、以下の話は全く告天子さんの心情の吐露と読むしかないです。

大安心とか大歓喜というのは、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じく、感情・感覚の話ではなく、論理上の話です。火が涼しいわけがありません。戦争で死んだから安心だ、大喜びだ、などという人がいたら、どう考えてもその発言は筋が通らなくなります。そこが、宗教的な言葉と、日常語との違いです。


>  又ここで告天子さんに合わせて、それぞれの語の詳細な定義をおいておくとしても、当の靖国の宮司は戦死者に関する「悲痛同情」という「痛みや悲しみに関わる様な側面」への言及をを排除して「大安心」「大歓喜」というどう考えても使っている文字からは「痛みや悲しみ」と反対の意味の強調しています。

痛みや悲しみ、ということだけでは、「神として祀る」事の意義は出てこないので、大安心、大歓喜、という表現になるのだと思います。たしかにあしなさんの言われるように、痛みや悲しみとは反対の意味を強調しています。反対だから対立しているのであり、しかし、「神として祀る」事そのものを批判者側で否定しているわけではなく、また、宮司の側でも、その方は「痛みや悲しみ」以外の性格を強調はしても、痛みや悲しみを全面的に排除はしていないでしょう。ところが、あしなさんの場合は、痛みや悲しみがあるのだから、それと「大いなる安心」は両立し得ない、と、ごく常識的に考えておられるのだと思います。その結果、件の議論が行われた場に於ける論点とは、視点がずれてしまっていると思います。


>  ちなみに前掲書で高橋は1895年11月14日に時事新報に掲載された論説(天皇による戦死者への祭祀を要請する内容)を引用して以下の様に述べています。
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>  ここには、国家が戦死者に対して、「国のために死んだ名誉の戦死」としてなぜ最大の栄誉を与えるかについての最も重要と思われる説明が見いだせる。

国家が戦没者に、最高の名誉を与えることは当然かと思いますが。命というのはそれほど大事なものです。

>家族を喪って悲嘆の涙にくれる戦死者を放置していたのでは、次の戦争で国家のために命を捨てても戦う兵士の精神を調達することができない。戦死者とその遺族に最大の国家的栄誉を与えることによってこそ、自ら国のために「名誉の戦死」を遂げようとする兵士たちを動員することができるのだ。

ああ、なるほど、名誉を与えるのは次の戦争に利用するためである、という「説明」ですね。つまり、日本国民は、飴たまを預けられてまんまと戦争に利用された間抜けな国民である、と評しているのですね。そして、それに気づいているオレは目覚めた人間である、みなも真似ろ、という話でしょう。


>  さらに「それにもかかわらず、靖国信仰の鼓吹者たちは遺族感情を悲哀から幸福へと転じるために訴え続けなければならなかった。」とし「靖国の精神」高神覚昇 1942年を例示しています。

悲哀から幸福へ、ということこそ、信仰の大論理です。この論理の逆転こそが、宗教、信仰の本質であり、抑圧されたる者が逆に救われ、弱き者が力を持ち、深い悲しみを偉大な力に変質させていくことこそ、「訴え続けていかねばならない」信仰の論理でしょう。

それを、「戦争に利用しようとしているからに違いない」とし、否定する側こそ、信仰に対して抑圧的・暴力的な、政治の徒に過ぎないのです。そればかりか、死者の名誉を剥奪し、自らの政治的立場に利用しようとしているのですから、国民を愚弄し利用しようとしたその上に「国があなた達を利用しようとしているのです!」と、逆に煽り立ててリードしようというのですから、まさに倒錯です。ある意味、これこそ「信仰の論理」でしょう。というよりも、「政治の宗教化」です。

神なき世界に於ける、「神と化した政治」の信徒たちの言動は、私にとって常に変わらず、興味の絶えないものがあります。