| 35081 | 返信 | Re:他者の信仰の許容など | URL | あしな | 2005/05/14 20:11 | |
| 告天子さんこんばんは。 > 大安心とか大歓喜というのは、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じく、感情・感覚の話ではなく、論理上の話です。火が涼しいわけがありません。戦争で死んだから安心だ、大喜びだ、などという人がいたら、どう考えてもその発言は筋が通らなくなります。そこが、宗教的な言葉と、日常語との違いです。 > ここで問題になっているのは天皇の下で戦死することと他のあらゆる死との違いです。 告天子さんの言い方では死一般と生の差異でしかありません。 しかも前掲書でも戦死者の遺族が「天皇のための死を喜べ」とされた実例が出ていますが。 > > 痛みや悲しみ、ということだけでは、「神として祀る」事の意義は出てこないので、大安心、大歓喜、という表現になるのだと思います。たしかにあしなさんの言われるように、痛みや悲しみとは反対の意味を強調しています。反対だから対立しているのであり、しかし、「神として祀る」事そのものを批判者側で否定しているわけではなく、また、宮司の側でも、その方は「痛みや悲しみ」以外の性格を強調はしても、痛みや悲しみを全面的に排除はしていないでしょう。ところが、あしなさんの場合は、痛みや悲しみがあるのだから、それと「大いなる安心」は両立し得ない、と、ごく常識的に考えておられるのだと思います。その結果、件の議論が行われた場に於ける論点とは、視点がずれてしまっていると思います。 > 実際に「悲しまずに喜べ」とされている例が出てますんで。 > 悲哀から幸福へ、ということこそ、信仰の大論理です。この論理の逆転こそが、宗教、信仰の本質であり、抑圧されたる者が逆に救われ、弱き者が力を持ち、深い悲しみを偉大な力に変質させていくことこそ、「訴え続けていかねばならない」信仰の論理でしょう。 > > それを、「戦争に利用しようとしているからに違いない」とし、否定する側こそ、信仰に対して抑圧的・暴力的な、政治の徒に過ぎないのです。そればかりか、死者の名誉を剥奪し、自らの政治的立場に利用しようとしているのですから、国民を愚弄し利用しようとしたその上に「国があなた達を利用しようとしているのです!」と、逆に煽り立ててリードしようというのですから、まさに倒錯です。ある意味、これこそ「信仰の論理」でしょう。というよりも、「政治の宗教化」です。 > 靖国の場合「英霊」の範囲の設定がそもそも徹頭徹尾、政治的なんでして。その政治性を無視してしまうことの「政治性」こそが問題でしょう。 |
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