35094 返信 烏龍茶理論に見る「罪と罰」 URL 告天子 2005/05/15 08:17
>>6(烏龍茶)【東京裁判無効(あるいは不当)論】の根本的なあやまりは、裁かれた側を免責 しようとするその一点にあります。

>(告天子)裁かれた側の免責であるなら、既に連合国が同意済みで、ABC級の全ての戦犯が、サンフランシスコ条約に基づいて関係諸国の同意を得て、釈放されています。日本の国会でも、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が、一人の反対もなく決議されています。

>(烏龍茶)○「有罪とされた」こと自体を「えん罪である」とするのがこの場合の免責。話を混同することでしか反論できない証拠となります。


これまで述べてきた東京裁判や靖国論について、烏龍茶さん自身が「その一点」を示してくれたので、この一点を付けばそれで足りるのですが、この一点にこそ、烏龍茶説の「罪と罰」についての宗教的な性格、「政治の信者」としての神髄が現れてきます。それは何故か。

烏龍茶氏はこれまで、東京裁判が「いかに法的に正当なものであるか」を、「国際法に基づいているから」、という理由で説明してきました。極東軍事裁判条例のようなものですら、「ポツダム宣言という条約に基づいている」、「不戦条約に基づいている」と、言うことをくるくる換えながらも、条約条約条約、違反違反違反、犯罪犯罪犯罪、この一本道を繰り返してきただけです。

それで反対する相手をキチガイ扱いするのですから、すっかり呆れてまた恐ろしくもなってきたのですが、さて、彼にとって「有罪」とは、「法に反するから」有罪、なのでしょうか、それとも、倫理的宗教的な意味で「有罪」なのでしょうか。この部分の区別は、ハッキリと付けなければなりません。国際法にしても、法律の裁きは「倫理宗教の裁き」ではないからです。それを全く混同した時に、「政治の宗教化」が起こり、政治判断に於いて「魔女狩り」的な事態が発生するものかと思います。烏龍茶さんがしていることは、まさにそれです。

というのは、もともと「法律に反するから、有罪だ」と彼は言い続けてきたのです。ところがこの投稿では、サンフランシスコ条約の「免罪」規定により、連合国の同意を得て、また、日本国民の代表者たる「全ての国会議員」が賛同して、ABC級戦犯の「免罪・釈放」と、「免罪決議」が行われています、つまり、法的には烏龍茶さん言うところの「裁かれた側を免責しようとする」その一点は、既に突破されています。

ところがここで、驚きのどんでん返し、「烏龍茶トリック」、すり替えがまたもやこっそりと持ち出されるわけです。

>(烏龍茶)○「有罪とされた」こと自体を「えん罪である」とするのがこの場合の免責。話を混同することでしか反論できない証拠となります。

烏龍茶氏は、ここで「免責とは、罪が冤罪だったとすることだ」として、「法の問題ではなく、罪などなかったとする倫理の問題である」と話を別レベルに移行させてしまいます。それまで東京裁判の法的正当性を論じていたのは、一体何だったのでしょうか。倫理的に罪あり、ということが、法的にも罪あり、ということではありません。

烏龍茶さんは、何事に於いても「解釈」を以て自分に都合のよい結論を引き出し、その解釈に反論してみろ、勉強が足りない、といいますが、その実、やっていることはすり替えやごまかしの繰り返しで、別件ですが、私に対しても「条約を保護に出来る条件を提示してみろ」などと、私が言ってもいないことを要求していますが、自分ではそんなことを全然書けていません。分かりもしないくせに、人には要求するダブスタと言われても仕方なく、今回もまた、ある時は「国際法だ」と言い、またある時は「倫理・信仰の問題だ」と言い、「解釈」を誇っているのみです。

そもそもその筋の「倫理的な、名誉回復」については、国会で辻本元議員が小泉首相を追及しています、「参拝で名誉回復を図っているのか」という筋だったと思いますが、首相は「名誉回復の意味ではない」、と答えています。国家としてそういう筋で参拝しているのではない、ということです。

しかし、事実、法的には既に「免罪」が確定しています。ABC級、全てについて、です。この法的免罪が成立しているのに、「冤罪だと言うことは、許されない」、とするのは、法の話ではなく、倫理の話でしょう。しかし、倫理の話に於いて、反対論者に対して「許されない」とするのは、彼の論拠は「法律」にあるのですから、法を楯にとっての、他人の心を監視し裁こうとする「秘密警察」や「憲兵」の体質そのままです。まあ、実際の憲兵がそうだったのかはよく知りませんが、そういう「他人の心を裁こう」とする基本的な性格が、烏龍茶理論にはある、ということです。

それが証拠に、烏龍茶さんは私を「キチガイ」と言いました。狂人であるというのです。最初は合法だ、合法だといっていたのですが、それは実は、「倫理的に絶対」の主張であり、反対し続けるようなものは「キチガイだ」というのですから、魔女狩りどころの話ではありません。

烏龍茶さんの「有罪」というのは、法律になど書かれていなくても「烏龍茶さんが既に決めた」ものであり、国際法やら慣習やら条例やらは、それを裏書きしたに過ぎないのであり、その正義を理論的に崩そうとか、疑おうとかする行為は、「キチガイ」と言い放つに値することなのだそうです。

彼が、興奮した挙げ句にそう罵ったのならば、まだ分かります。しかし、彼は「言ったことに対する責任」を冷静に弁えているので、わざわざ伏せ字にして、キチガイと言っているのです。どうですか、法的には問題にならないようにと、冷静にそういうことをして、実質的に法を破っている人が、法への違反だから犯罪者だ、と主張し、その上、自分の主張は、倫理主張そのものであるから、反対することそのものが許されないのだ、冤罪だなどと、いうこと自体が、「許されない最終の判断だ」というのだから、あなたは倫理の元締めか何かですか?。

ところが、そういう倫理の元締めが、自己の判断を「法の判断だ」とするのですから、そして、法のレベルで「免責」が完了していても、そのようなことは問題ですらなく、「法など問題ではない、自分が言っているのは別のことだ」と、隠されていた「烏龍茶の裁き」が浮かび上がってくる。

そしてその裁きは、「学問的にも公正」なものであり、中国や韓国の姿勢がまさにそれであるという。ここでもやはり、反対する学者を「キチガイ」扱いしていましたね。あなたの姿勢は、常に一貫しているのです、あんたは他人を、あんたの政治の名において断罪する「政治の信徒」だ。あんたの神は、政治であり、あなたのやっていることは恐ろしい神権独裁、そして「軍国主義」的な憲兵姿勢に立った暴力に他ならない。

ここまで分かった。さあ、もっと見せてくれるか?。