| 35107 | 返信 | Re:他者の信仰の許容など | URL | 上海 | 2005/05/15 20:57 | |
| 告天子様 始めまして。上海といいます。靖国の問題は、自分がクリスチャンであり、また箕面忠魂碑裁判にも若かりし頃興味があったので、最近の関連する書き込みを興味深く読ませて頂いております。 > 人がなぜ神になるのか、よく分からないです。戦争による死というのは、やはり本人が望まざる死ではありましょうから、そこに強い恨みというのも当然ありましょうし、また、国のために没したということは残された人にとってはやはり神としか言いようのない崇高なことではないか、というのもやはりあると思います。 キリスト教の場合は「原罪からの解放による自由」及び「神と共に永遠を生きる」事が教義の幹ですから、自らが「神」になる事はありません。ではキリスト教徒が戦死した場合はどう考えるかと言いますと、「従軍−戦死」も神の計画と見做し、「キリスト教徒として粛々と現世の生を全うし、父なる神・子なるイエスと共に永遠を生きる天国へと旅立った」と結構醒めています。 戦争によって命を失った兵士の遺族としては、せめて「国の為に役立った。兵士のお陰で私たちは生き長らえている」と戦死に崇高な意義が無くては心情的に辛いでしょうが、宗教的には引きずらないのです。戦没兵士の栄誉を称える儀式が取り行われますが、それは宗教的なものとは切り離され、現世での「無宗教的」儀式です。復活祭やクリスマス礼拝でも戦没者の冥福を祈る事はあっても、「迷える魂を救え」という発想は一切無く、ただ単に「彼らに思いを馳せる」だけです。そして祈りの主題は「二度とバカなことは繰り返さないようにしよう」という事になります。 勿論欧米にはキリスト教教団団体を基盤とする超右翼的な政治団体も結構ありますが、一般的には上記のような具合です。 > > こうしたことと、社会現象としての戦争行為に対する批判とか反省とは、別個になされるべきだと思います。反戦と、反靖国がひとまとめになるところが、問題なのではないかと思っています。 これはその通りでしょう。「宗教的自由が政治勢力から許されたプレゼント」という意識が日本にはあるように思います。政教分離が、政治的意味合いでのみ語られる事にその意識を強く感じます。2千年連綿と続くキリスト教徒にとってはたかが10年単位で変遷する政治なんぞ「カス」みたいなものという発想はあります。ですから宗教的に政治に関わる勢力は軽蔑されます。 また政治的に宗教に関わる勢力は相手にしません。 > > 又ここで告天子さんに合わせて、それぞれの語の詳細な定義をおいておくとしても、当の靖国の宮司は戦死者に関する「悲痛同情」という「痛みや悲しみに関わる様な側面」への言及をを排除して「大安心」「大歓喜」というどう考えても使っている文字からは「痛みや悲しみ」と反対の意味の強調しています。 > > 痛みや悲しみ、ということだけでは、「神として祀る」事の意義は出てこないので、大安心、大歓喜、という表現になるのだと思います。たしかにあしなさんの言われるように、痛みや悲しみとは反対の意味を強調しています。反対だから対立しているのであり、しかし、「神として祀る」事そのものを批判者側で否定しているわけではなく、また、宮司の側でも、その方は「痛みや悲しみ」以外の性格を強調はしても、痛みや悲しみを全面的に排除はしていないでしょう。ところが、あしなさんの場合は、痛みや悲しみがあるのだから、それと「大いなる安心」は両立し得ない、と、ごく常識的に考えておられるのだと思います。その結果、件の議論が行われた場に於ける論点とは、視点がずれてしまっていると思います。 あしなさんは無宗教ですから、このあたりはちょっと理解しにくい点でしょうね。現世に別れを告げた後まで「現世の辛さ・苦しみ」を引きずる宗教なんてまずありません。悪く言えば「来世」には楽しい天国があるという、現状の辛さからの逃避でもある部分が宗教の特色と言っても過言ではないですから。(ここは素直に宗教側は認めなくては・・・・) > > > ここには、国家が戦死者に対して、「国のために死んだ名誉の戦死」としてなぜ最大の栄誉を与えるかについての最も重要と思われる説明が見いだせる。 > > 国家が戦没者に、最高の名誉を与えることは当然かと思いますが。命というのはそれほど大事なものです。 これは国家としての「筋」の問題です。平時には仕事で切り傷作った位で大騒ぎする一方、有事になれば命全部捧げるわけですからね。参謀本部が有事に常に考える事柄は「消耗を如何に抑え、どれだけの戦果を得るか?」即ち「味方の戦死数を如何に減らして、相手をより多く殺す事」です。最高の名誉を与える以外に、国民に戦争を強要する対価は払えません。 > > >家族を喪って悲嘆の涙にくれる戦死者を放置していたのでは、次の戦争で国家のために命を捨てても戦う兵士の精神を調達することができない。戦死者とその遺族に最大の国家的栄誉を与えることによってこそ、自ら国のために「名誉の戦死」を遂げようとする兵士たちを動員することができるのだ。 > > ああ、なるほど、名誉を与えるのは次の戦争に利用するためである、という「説明」ですね。つまり、日本国民は、飴たまを預けられてまんまと戦争に利用された間抜けな国民である、と評しているのですね。そして、それに気づいているオレは目覚めた人間である、みなも真似ろ、という話でしょう。 このへんの話は、勇み足ですね。「次の戦争をするために、戦死者に優遇行為をおこなう」っつうのは・・・・・ 喜んで死ぬとか「国の為に死ぬ」などと考えている兵士がどれくらいいたのでしょうかね?靖国くらいで「よっしゃ俺は国の為に死ぬぞ。おめえらは一生恩給貰えるぞ」なんて脳天気な事を考える「ばか者」はほとんど居なかったと思います。 > 神なき世界に於ける、「神と化した政治」の信徒たちの言動は、私にとって常に変わらず、興味の絶えないものがあります。 冒頭に書いた、箕面忠魂碑裁判ですが、裁判の過程で、右から左、老若男女様々な世代や立場の人たちが、戦争について非常に多くのことを語りました。(勝ち負けよりもこういう広い論議が裁判闘争の目的であるわけですが)。哀しい事は、原告の1人であった神坂直樹氏が裁判官任官拒否をされた事です。あくまでも政治的にしか振舞えない勢力とは本当にみっともないものですね。 |
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