35133 | 返信 | 文明の優劣 | URL | 小林 哲夫 | 2005/05/17 10:08 | |
水原文人さん こんにちは 私は水原文人さんと議論しているのではなくて、誤解を解こうとしているのだと言うことを理解して下さい。 そこで一度遡って「文明の優劣」と言うことを考えて見ます。 私は現在の世界はアメリカ文明が優越していると見ています。 これは世界の誰でもが認める常識で、誰でも理解できる表現ですが、しかしもう一歩深く考えて、アメリカ文明とイギリス文明の優劣をどうして比較できるのだ?といった反論があり得ます。 日本文明は決して劣っていないという反論もあり得ます。 しかしこういう議論の出発点は、アメリカの優越を認める常識を理解してからだと思います。 この常識で考えると、アメリカの前はイギリス文明が優越していて、世界の海を支配していました。 その当時のイギリス文明の根のところに植民地主義があると考えます。 現在のアメリカを侵略主義の一言で切り捨てることが出来ないように、植民地主義を「悪100%」と切り捨ててはいけない、というのが私の主張です。 現在のアメリカに「民主主義」という大義が有るように、植民地主義にも「文明化」という大義があり、そのことには大きな意味があったことを認識する必要があると主張しています。 植民地主義の「功罪」を冷静に計量することを提案しています。 水原文人さんは「罪100%」に近い考えのようですから、私は「若干の功」の方を強調しているだけです。 私が「野蛮・未開」という言葉を使うと、水原文人さんはその意味をジャングルの奥で原始時代のような生活をしている人々のイメージで理解しているようですが、私は19世紀の世界が理解した意味で使っています。 それは福澤諭吉の使い方、理解の仕方と同じなのですが、水原文人さんにはこの時代の「野蛮という言葉に意味」を先ず的確に把握して欲しいと思います。 水原文人さんの文章では、福澤諭吉など問題外だ!と切り捨てていますが、お札の顔をそんな簡単に無視してはいけません。 福澤を明治時代の文明開化の旗手として尊重して、その上で批判すると言う態度が望まれます。 文明と野蛮という言葉についても、その時代の意味を理解して、その上での批判が必要だと主張しています。 私は「文明と野蛮」という言葉をその当時の言葉で書いているだけなのに、それを現代の意味に取り違えて、私を批判しているのが、水原文人さんの誤解の部分です。 その誤解は水原文人さんの福澤無視と同じく、19世紀西洋文明の無視に原因があります。 水原文人さんはこの時の西洋文明の植民地主義の部分を功罪を計量認識すると言う態度ではなく、100%断罪の姿勢で見ているからだと思います。 その水原文人さんの誤解は次の誤解を見ると良く分かります。 >『(水原文人さん)あなたは「植民地主義」を一方的に「未開民族を文明化するという目的」と断じ、インドは英国に対し「文明化」してくれたことを感謝するのが当然で、憎むことなどあり得ない、と書いたのですよ。』 これは私の次の文章を誤解したものです。 >『(小林)植民地主義というのは、未開民族を文明化するという目的がありましたから、ある段階で独立を認めれば、憎しみが残ることは無い、そのいい例がインドだと書きました』 私が書いたのは「憎しみが残ることは無い」ですが、それを水原文人さんは >『インドは英国に対し感謝するのが当然で、憎むことなどあり得ない』 という意味に誤解しています。 「憎しみが残らない」という言葉を「感謝する」という言葉に誤解するのは、もしかして悪意があるのでは無いかと疑われます。 「インドはイギリスに感謝しろ!」という考えを、私が主張していると水原文人さんは私を誤解し罵倒しています。 私はこの誤解に水原文人さんの問題点を見るのです。 つまり植民地主義の功罪の内の「功の部分」をちょっというだけで、全肯定と理解して、罵倒を始める、単細胞なところです。 「憎しみが残らない」という言葉を「感謝する」と一緒のことと考える単純さを危ぶみます。 これでは味噌もくそ一緒くた、では無いでしょうか? 何が何でも植民地主義は悪いと決め付ける、短絡思考では無いでしょうか? 歴史を勉強する時には、「その時代の価値観を理解しようと努力すること」、「物事は必ず功罪併せ持つ」ということを是非お忘れないようにお願いします。 |
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