35310 返信 アフガニスタン URL memo 2005/05/29 06:24

** 光と影の国

 アフガニスタンはユーラシア大陸のほぼ中央にあり、国土の大半はヒンドゥークシュ山脈に覆われています。ペルシャ語で「インド人殺し」の名をもつこの山々は最高7000mにもなり、乾燥地にありながら万年雪を冠ります。
 南西部には平野もありますが、かなりの部分が砂漠になっています。むしろ峡谷等で、雪山から流れる川を利用して農耕や牧畜が行われており、特にザクロ等の果物が豊富です。
 以下は、アフガニスタンで医療や井戸掘り等を続けてきたクリスチャンの医師・中村哲氏の言葉です。

> 光が強ければ影も強いアフガニスタンの風土ですが、人が自然と疎遠でないところでは、自然と人の気質も一体となって張りついている。
> したがって、「アフガニスタン、それは光と影です」と。
> これは私が好む文句です。強烈な陽射しと陰影のコントラストは現地の気風です。

 山に隔てられて住む彼らは独立心や自尊心が強く、誰かが「他所者」の犯罪に遭うと、村ぐるみで復讐戦を挑むことも珍しくありません。一方で「客は神からの贈り物」という諺もあり、たとえ敵であっても庇護を求めてきた者は体を張って守ると言う気風があります。
 UNCHR(国連難民高等弁務官事務所)の千田悦子氏によると、ソマリアの物乞いは威張っていたけど、アフガニスタンの物乞いは恥かしそうにしていたそうです。「戦士」的な美意識が強いのでしょう。

** 民族の十字路

 ペルシャとインドに挟まれたこの地は、古くから世界貿易の要衝として栄えてきました。古くはクシャン朝(BC135頃-4世紀)等の元に仏教が盛んになり、ガンダーラやバーミヤン等の遺跡が残されています。9世紀以降はイスラム教が浸透し、ガズニ朝(962-1186)はペルシャからインドに渡る広大な領土を征服しました。
 一方で、峡谷毎の独立意識の強さが故に団結できず、ペルシャやインド等に支配されていた時代が長かったことも事実です。殊に13世紀のモンゴルによる征服では、ひどい破壊を被りました。ティムール帝国ではヘラートは繁栄しましたが。
 1747年にアフマッド・シャー・ドゥラニ(真珠)王がペルシャから独立してカンダハルで即位し、現代アフガニスタン国家の基礎を築きました。この王国は1776年にはカブールに遷都。19世紀には2度に渡って英軍の攻撃を受け、外交権の譲渡を余儀なくされました。 特にペシャワールやガンダーラ等の東部国境地域は、アフガニスタンの主流を占めるパシュトゥン人が多く住んでいたにもかかわらず、1893年のデュランド協定で100年の期限を切って英領インドに編入されてしまいました。現在はパキスタン領で、100年後も返還はされていません。アフガン難民や亡命者の集結地のようになっています。
 なお、主流といっても、今のアフガニスタンでパシュトゥン人の比率は約4割に過ぎません。あとは国の北部に住むタジク人、ハザラ人等が占めます。

 このような犠牲を払いつつも、アフガニスタンの王朝は存在を保ち続けました。アフガニスタン人は現代でも、一度も植民地化されなかったことを誇りとしています。
 1919年に即位したアマヌッラー王は第3次英ア戦争を仕掛けて外交権を奪回し、ソ連やトルコ、ペルシャ等と国交を結び、ケマル・パシャのトルコにならって近代化政策を進めました。ソラヤ王妃もノースリーブやスカートを着けて女子校の開設等を行いました。
 しかしこれらの改革は、峡谷に住み、地域共同体の慣習法の下に暮らす人々にとっては「浮世離れした」ものだったでしょう。地方の反乱を招き、1929年にはアマヌッラー王は退位に追い込まれました。以後王国はやや保守化しますが、欧米化した富裕層が住むカブールと、昔ながらの暮らしを続ける地方との二極分化は続きます。

** 抗ソ戦

 貧富の差の拡大は国民の失望を招き、1973年の革命でアフガニスタンは共和国となり、ザーヒル・シャー国王は温泉治療先のイタリアに留まる羽目になりました。
 さらに1978年には人民民主党が「サウル革命」を起こし、ダーウド大統領を殺害し、急進的な社会主義政策を進めました。しかしこの政策は私有財産を否定することで富裕層に反発され、地域の慣習法を無視することで地方民衆にも反発され、人民民主党内の内紛もあってたちまち危機に陥りました。
 この状況を打開すべく1979年にソ連軍が侵略しましたが、欧米やイスラム諸国はもとより、中国や東欧諸国からも反発を受けました。中でも米国はミサイル等を提供して反政府勢力(ムジャヒディン、「ジハードを行う者」)を支援しました。ソ連軍は米国の兵器や、地域共同体を守ろうとする民衆や、アフガンの山岳を前に苦戦を強いられ、1988年には撤退を余儀なくされました。特にマスード将軍はソ連のパンジシール渓谷への攻撃を次々と撃退し、「パンジシールの獅子」の異名を取りました。そして戦争による国力消耗や外交的失点が致命傷となり、ソ連は1991年に崩壊します。
 一方で、空陸からの攻撃を受けたアフガニスタンも、戦闘死だけで70万人以上という大被害を受けました。しかも1992年に人民民主党政権が倒れても、今度はムジャヒディン同士の内戦が激化するという始末です。

** タリバン

 このような状況下で1994年にタリバン(「学生達」)が決起し、泥棒の手を切断する等犯罪に対する厳しい処罰を進め、アフガニスタン南部で急速に勢力を拡大しました。治安回復を望む国民の支持を相当に集め、パキスタンからの支援も得て1996年にはカブールを攻略します。以下は、中村哲氏によるタリバンの評価です。

> 都市の一部に喜ぶ人もいるでしょうが、「女性解放」だなんて、普通のありふれた主婦、そのへんの娘さんたちにとっては、それは大きなお世話としか映らないでしょう。

> 私たちペシャワール会はタリバン政権よりも現地では古参ですから、いろんな権力を見てきましたが、公平にみて、タリバンほどクリーンな権力というのはなかった。なるほど欧米の人権活動家がアタマにくるようなことも、たしかにあったでしょうし、かなり教条的な政策がありましたが、次第にそれが寛容になってきておったというのが実情だったと思います。

> だからまあ、簡単に言うと、(ビンラディンは)「迷惑なお客様」ということです。お客様である以上は、相手がアメリカだろうとロシアだろうと絶対に渡さない。この義理堅さは、現在の日本人には分からない。この慣習法(客人歓待と復讐法)をなくすということは、アフガン人がアフガン人でなくなるということに等しい。

 千田氏も、カンダハールで女性に対する行動制限に苦労しながらも、

> ただ、国際的には教条主義で極端な言動しか報道されなかったタリバンも、現場ではある程度は融通をきかせた柔軟な対応をしてくれていたというのが、実際にタリバン政権下で働いていた者の共通した意見ではないかと思っている。

と評価しています。女性のための「隠れ学校」も結構あったようです。

** 旱魃と空爆

 2000年から、アフガニスタンでは大旱魃が発生しました。ヒンドゥークシュの雪が減り、落ちると死体が上がらないくらい水量豊富なカブール川が歩いて渡れるようになり、渡し舟を使ってしか越えられなかったイラン国境のヘルマンド川に至ってはは砂丘と化してしまいました。
 現地には「お金がなくても生きていけるけど、雪がなくては生きていけない」という諺がありますが、その通りの状況になってしまったのです。
 これに対し国連は2000年12月、1999年以来の経済制裁の強化をもって応えました。2001年の3月にタリバンはバーミヤンの大仏を破壊しましたが、これには(イスラムの教えに反する)偶像を破壊することで雨乞いをするという意味もあったようです。
 そして2001年10月のアフガン空爆となります。空爆による市民の直接の被害だけでも1万人を越えるでしょうが、タリバンによって保たれていた治安を破壊したことで物資の輸送が困難になり、ただでさえ多かった餓死者を(おそらく100万人以上に)激増させました。
 また、タリバン時代は禁止されていたケシの栽培が復活し、瞬く間にアフガニスタンは世界最大の麻薬輸出国に返り咲きました。以下はイランの映画監督モフセン・マフバルマフ氏の(タリバンによる麻薬禁止以前の)言葉です。

> アフガニスタンは世界の麻薬の圧倒的な量の生産国でありながら、5億ドルほどの取るに足りない富しか得ていないが、アフガニスタン産の麻薬の取引額は800億ドルになる。

> この金を手に入れるのは、中継ルートになる多くの国々で、政治に介入している麻薬マフィアにほかならない。

> 私は、麻薬取引の利益の1%は、アフガニスタンの政情不安を長引かせるために、アフガニスタンの戦争に投入されているのではないかと想像してしまう。

** 近況

 2004年10月の大統領選挙では、対立候補のボイコットもあってハミド・カルザイ氏が得票率55%を得て勝利しました。しかし今春に予定されていた議会選挙は実行できずに9月に延期され、4月以降米軍とタリバンの交戦も活発化し、数十人の死者が出ています。
 5月にはいると米海軍基地でコーランが冒涜されたことで反米デモが活発化し、パレスチナ等へも波及し、デモ参加者10人以上が死亡しました。
 「アフガン復興」に期待して帰国しながら、挫折して再難民化する人々も増えているようです。

 元々アフガニスタンでは、日露戦争や広島・長崎の原爆等がよく知られており、中村氏も日本人というだけで歓迎されたことが多かった。ところが、

> そもそも、アフガニスタンでは特殊中の特殊地域とも言うべき、カブールの出来事があたかも全土で起きつつあるかのような報道が私達を欺いてきました。米国は「アフガニスタンの成功例」に倣って、イラク侵略を強行して理不尽な戦争を正当化しましたし、日米同盟に呪縛される日本の政治家も、「断固としてテロと戦う」と繰り返しました。
>
> おかげさまと言うべきか、以前は日本人であるが故に安全だった現地も、日本人であるが故に狙われる。復興支援とは名ばかりのプロジェクトが横行し、今や「NGO」は国連や米軍と共に、軽蔑や攻撃の対象となるに至りました。

 NGOについて補足しますと、中村氏は元々、2001年の経済制裁時にアフガニスタンを「見捨てた」欧米のNGOには批判的でした。今回は新政権のために一方的に欧州のNGOの傘下に組み込まれ、その規則を押し付けられ、診療所放棄に追い込まれてしまったのです。
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/

 旱魃は今年に入って、ようやく多少ましになったようです。

** 参考文献

ほんとうのアフガニスタン 中村哲 光文社 2002年
アフガニスタン祈りの大地 千田悦子 清流出版 2002年
アフガニスタン史 前田耕作・山根聡 河出書房 2002年
アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
モフセン・マフマルバフ 武井みゆき・渡部良子訳 現代企画室 2001年

** 余談 **

ピッポさんの、靖国神社の合祀問題に関する投稿は説得力がありました
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=35076&range=1

植民地主義に関する議論を興味深く読みました。