| 35585 | 返信 | Re:あしなさんに質問 Re:「人間は楽をしようとサボる生き物である」?(ちゃちゃいれ、ないしは疑問。) | URL | 工藤猛 | 2005/06/19 23:37 | |
| > > ○多くの人たちが企業・団体の求人に殺到する。 > > ○ほとんどの労働者が企業・団体と決別しようとはしない。労働組合などはむしろその利害の構図から労働者が排除(解雇)されることを危惧している。 > > などなど・・・が根拠です。 > 上記は「労働者と資本の利害が一致している」と労働者自身が認識していることの根拠にはならない。企業を「辞めない」ことと「辞められないこと」は同じではない。そのように行動の内容・背景・条件を無視して、「根拠」などと言われても返す言葉がない。 > もし上記が「労働者と資本の利害が一致している」サービス残業のしすぎで過労死してしまった労働者の場合でも、辞職せずに自ら過重労働労働したのだから、その人物は自ら進んで過労死したのだということになってしまう。 > 靖国の英霊は自ら進んで/喜んで天皇のために戦死したという論理と似ている。 昔は左翼であった時期もあり「生産過程」の進歩(工業化、化学技術の関与度合い) が過剰生産を生み、資本の集中を生み国家独占資本主義になり 庶民(労働者、農漁民、自営業者)の生活はないがしろにされてゆくという 理論もあった。 社会主義の世界体制が崩壊してみれば過剰生産(需要に見合っていない無駄な製品、 消費される見通しの無い在庫)は社会主義体制にもあった。 資本の具体的な現実形態(生産財、原材料、労働力、科学技術の応援)を どこに振り向けるのかを決定するのは社会主義国家では 一党独裁下の党官僚だった。企業体は労働者の支配下にあったことはない。 中国共産党でも朝鮮労働党でも労働者の政治的な自由なんて認めてはいない。 どのような生産過程で富が生産されようとその生産物の配分に「合理性」が ないと絵に描いたもちだ。生産物の配分を決めるのは権力そのものの機能だ。 この現代に企業体の中だけで配分が決められるか。「資本家」と「労働者」だけで 生産物の配分を決められるか。老後の年金制度、障害を負ったときの介護制度、 医療制度、公共の安寧秩序(警察機構、軍事機構)を賄った上での 企業体の生産活動だ。企業に公害を撒き散らされたら行政側の 後始末費用が大変だ。東ドイツを初めとする東欧諸国の工業生産に 住民の健康を守りという視点は無かった。公害防止技術開発に予算と人員を ほとんどかけていなかった。一党独裁下では住民にも労働者にも 何の権限もなかったから。 現代日本の企業体はどのような公共的な規制の下で生産活動をしている。 資本の圧政下にある奴隷労働者ではないよ。子供に一日18時間労働させて じゅうたんを織らせているのか。寄宿舎に閉じ込めて12時間労働させて 健康診断もさせず栄養不足の食事の元で結核にかからせて しこたま儲けることが出来る時代環境か。 社会主義国家中国の農民に日本国の農民は賃金水準で競争できない。 月一万円で生活できる中国農民にどうやっても、農産物の貿易完全無制限自由化 を実行されたら農業を廃業するしかない。経済的な効率だけで農業自給率ゼロ% にする共同体は無い。 工業生産でも似たような問題点はある。 マルクス主義の原点に戻って、全世界の「資本家」と全世界の「労働者」を 対峙させて「労働者」独裁権力を打ち立てるか。 独裁権力を打ち立てたときその企業体でその独裁権力を振るうのは誰だ。 ぺえぺえの末端労働者でないことは確実だ。資本「家」が権力を振るうのか 管理者(何らかの権限を委託された層)が実質で権限を振るうかの差だけだ。 現代資本主義の企業体管理のほうが歴史的に優れていると思う。 資本も労働もそれぞれに管理され、その管理方法を決めるのは 選挙で選ばれた権力であり報道、思想、結社の自由があるという 制度は優れているよ。諸国家の権限もそれぞれの国の資本家と労働者には 必要不可欠な機構だ。 過労死が現代社会で推奨されているのか。 問題点有りとして社会的にも行政的にも是正策を考えている。 違うのか。広く労働災害死の一形態として問題視されてきた。 ***** 思想的な差で問題点の捉え方が違うから 事象への感想も違ってくるのはいたしかたない。 その最たるものが【英霊】への道徳的なまたは価値感情での評価だ。 どの時代でもどの政治体制でも、すすんで戦いに参加する勇敢な兵士は 貴重な存在だ。戦時に公共に殉じていいとする心根は大切だ。 その共同体の生活を「破壊」したいという勢力にとっても 戦う意思を持った同士は貴重だろうに。 無軍備論者や絶対に戦争に参加しない社会を作ろうとする絶対平和論者にも その理想のためになら己の命を投げ出しても運動するという人間は 賞賛に値するだろうに。 喜んで天皇のために戦死した人間がいたから 現代の発達した資本主義国家日本の生活水準がある。 歴史的にはそのような関連性もあるんだよ。 日露戦争当時に戦わない人間ばかりだったらそのうちロシアの衛星国家になって ロシア語を話していただろう。 1868年から1945年にかけてそれなりに国際社会とかかわりを持って それなりに生きてきた。その功罪の中での歴史を包み込んでの2005年だ。 【帝国】は滅びたがその遺産のお陰もあって現代がある。 幕末から明治にかけて英米仏露に産業上でも軍事上でも対抗しようとする 気概が日本の指導者層と国民に無かったら日本列島は欧米の植民地になっていたよ。 「天皇のために死ねる人間」を作り上げることが国際政治上の力学で 必要な歴史的な制約として存在していた。「帝国主義」国家となるか 「植民地状態」に置かれるかの選択を迫られた時代環境にあった。 第三の道は無い。歴史の鼓動をその当時の時代状況の中に尋ねてみろ。 孤立して生きていた農業国家日本列島に世界経済が押しかけてきたんだよ。 東南アジアは植民地下にあり中国大陸は英仏露の植民地攻勢にさらされていた。 アヘン戦争の結末は幕末の指導層、知識層にはこと細かく伝わっていた。 ドウ対処するかの政策論争、理念論争がはじまっていた。 中国大陸と朝鮮半島が日本列島と同時期に近代化に共同して その社会を改革していたら違う現代史にもなっただろうけれど。 そんな夢物語は東アジアには存在していない。 理念、思想として存在していただけだ。 1868年前後に東アジアで近代化に突き進んだのは日本列島だけだ。 資本主義による産業化を目指したのは日本列島だけだ。 国民に初等教育をあまねく施すと義務教育政策に熱意を燃やしたのは日本だ。 「自分以外のなにものかを守って死んでもいいという思い」を大切に扱わない 社会はけじめをなくして堕落腐敗してゆくと思う。 小学校や幼稚園、保育所の女性の先生ですら教室に暴漢が押し寄せてきたら 子供らを自身の命を張って守る訓練をしている時代なんだよ。 暴漢に立ち向かう気概がないと子供らを守れない時代なんだよ。 厳しい時代だ。人によっては通報の為に我先に「逃げて」も 非難はされないと思うけれど。厳しい選択を迫られるのは避けがたい。 時代環境により賞賛される行為は変転する。 「喜んで天皇のために死ねる」という価値観はなくなった。 「喜んで家族や恋人のためならば死ねる」という価値観は残っているだろう。 対象は変化したが「誰かのために死ねる」という価値観まで否定されている わけではない。「誰かのためになんて絶対死なないぞ」という価値観が あったっていい。時代が変われば価値観の態様も変化してゆく。 変わらない本質もあると思いたい。 国際的に賞賛されていい、よき物事も、現代日本社会には多いのだからさ。 北朝鮮の武装工作船に銃撃されていた海上保安庁の職員は「職務に忠実」 であった。職責を生命に危険な状況でも全うしていた。 大上段に構えなくともそれぞれの職種で命を危険にさらしながら 仕事に黙々と励んでいる多くの人に支えられて日本の社会は今でも 運営されている。時代に殉じていった人々を私は大切にしたい。 |
||||||
![]() | ||||||