| 35671 | 返信 | 幸徳秋水, Hilohito ŋ Re:扶桑社「新しい歴史教科書」の問題点 | URL | 森永和彦 | 2005/06/24 07:27 | |
| koŋnitiwa >P-47の「ニニギの命の曾孫が神武天皇」と記述している部分が、神武天皇とは架空の人物であることを認めていると言えます。 神武天皇 wa motiloŋ 架空の人物. Tokolo de, "ナザレのイエス" ni tuite, nanika 記述 wa alimasu ka? > (P-114) 武士道と忠義の観念 > ここでは赤穂浪士や「葉隠」(キタ━━(゚∀゚)━━!)を紹介し、「忠義とは主君のいいなりになることではなく、それを超えて藩や家を守る」ことであるとアジっています。この「忠義」が美徳だというのなら、小泉政権の「いいなり」にならずに「それを超えて」国を守ることが大切、ということになります(笑) 藩 to 国家 ga tailitu sulu toki wa do~silo to alimasu ka? mata, 国家 to kokusai sjakai ga tailitu sitala? > (P-115) 「二宮尊徳」と勤勉の精神 > 「江戸時代に勤勉が美徳とされて・・・」「江戸初期の国土の大開発は、こうした勤勉さによってなされた」 > もしも今後の日本で「大開発」が計画されたときは、我々国民は早急に「勤勉さ」を捨てる必要があるでしょう(笑) 勤勉が美徳 nala, 寄生階級 de alu 武士 no 武士道 o naze homelu? > (P-163)読み物コラム 朝鮮半島と日本 > 「東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少しはなれて、海にうかぶ島国である。この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。両国のこの地理的な関係は、長い歴史の上で重要な意味をもってきた。 > 古来、朝鮮半島は、中国の進んだ文明を日本に伝えた。しかし同時に、朝鮮半島に日本の安全を脅かす勢力がおよんだこともあった。日本は中国と朝鮮半島の動向に注意を払わなければならなかった。日本が古代律令国家を形成したのも、東アジアの中で自立することをめざしたものだった。 > 鎌倉時代に、元寇の拠点となったのも朝鮮だった。反対に、豊臣秀吉が、朝鮮半島に大軍を送ったこともあった。江戸時代には、対馬藩を通して、徳川幕府と朝鮮との良好な関係が続いた」 "日本が古代律令国家を形成したのも、東アジアの中で自立することをめざしたものだった" niwa, nanimo buŋkeŋ koŋkjo ga nai ga, kole wa sakuzjo saleta ka? > 清国は朝鮮政府の要請に応じて即時出兵し、日本も遅れをとるまいと自主的に出兵しました。しかし日本軍の派遣旅団が上陸しはじめたことには既に政府軍と農民軍の和解が成立していました。朝鮮政府やロシア・イギリスの公使は日清同時撤兵を要求し、清国はそれに応ずる意向を示しましたが日本は拒否し、朝鮮への影響力を強めたい為に朝鮮政府に「内政改革案」を提示しましたが、朝鮮政府は日本の撤退が「実施の前提」であると拒否しました。 > この要求は拒否されることを予測していた日本軍はついに朝鮮の王宮を占領し国王を拉致し、蟄居中の大院君を担ぎ出して傀儡政権を樹立させようとしました。この暴挙によって日清戦争が勃発し、日本軍は朝鮮政府に対して全面的に日本に協力することを認めさせ、民衆から食糧、軍馬、労働力を好きなように「徴発」し、一時は沈静していた農民軍が国難の為に再び立ち上がると徹底的に掃討しました(以上は海野福寿/著「韓国併合」より引用)。またこの戦争では旅順虐殺事件を起こし海外から非難を浴びています。 > > 以上のことを全て中学校の教科書に記述することはスペース的に不可能と思われますが、日清戦争とは近代の日本が最初に起した、謀略に満ちた侵略戦争であったことを簡潔な表現で記すべきではないでしょうか?もっとも「口実」という語句を挟んだところは2001年度版より軟化していると言えますが。(ところで日本書籍新社「わたしたちの中学社会 歴史分野」では、日本軍は朝鮮に居座り続けるための改革案を朝鮮政府に押し付け、その回答を不満として王宮を占領、そして清の海軍を攻撃・・・という日清戦争開戦の経緯を説明しています) saŋko~ 中塚 明 (著)歴史の偽造をただす―戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」 高文研 ISBN4874981992 ; (1997/11) 朴 得俊 (編), 梁 相鎮 (訳) 日本帝国主義の朝鮮侵略史(1868―1905) 征韓論台頭から乙巳五条約(保護条約)捏造まで 明石書店 ISBN4750319201 > ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相) > 「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェールでいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。・・・日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。・・・」 (出典・ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史・』(みすず書房 1959)) > > (P-169)歴史の名場面 日本海海戦 > ・・・というコラムに1ページを割り当てる必要があるでしょうか?記憶では私が授業を受けていた頃の教科書の日本海海戦の記述はほんの数行でした。 > ちなみにこの教科書には、内村鑑三や孝徳秋水らの日露戦争反戦論に全く言及しておりません。驚くべきことに与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」が紹介されておりません。全国民が日露戦争に賛成していたかのように印象付けたいのでしょうか?(ちなみに孝徳秋水についてはその名前すら一切登場せず、与謝野晶子についてはP-174の「明治時代の文学者」という表に登場するのみ) 孝徳秋水 --> 幸徳秋水 (幸徳伝次郎) 内村鑑三 wa sjoseŋ ahwo ujoku de, toliagelu kati nasi. 幸徳秋水 wa kiwamete idai na ziŋbutu. > (P-182〜183)シベリア出兵 > (シベリア出兵について)「やがてアメリカは撤兵したが、日本は1922年まで共産軍と戦い、兵を引かなかった」 > 何やら共産主義と戦うことが正義だったと言いたげな表現ですが・・・シベリア出兵とは単なる内政干渉、侵略戦争であることを明記するつもりはないようです。(ちなみに日本軍はこの侵略でソ連邦国民や朝鮮人を虐殺しています) iwajuru "Hoqpo~ ljo~do" nalu mono o seŋdeŋ sinagala, シベリア侵略 niwa maqtaku haŋse~ nasi. > (P-192〜193)「共産主義とファシズムの台頭」 > この章の欄外には以下のような注釈があります。 > 「日本でも、日本共産党がコミンテルン日本支部としてひそかに創立された。1925年、日本政府はソ連と国交を結んだが、それによって国内に破壊活動がおよぶことを警戒し、同年、私有財産制度の否認などの活動を取りしまる治安維持法を制定した」 > あまりに酷すぎる内容に、もはや怒りを通り越して笑いがこみ上げます。 > #なぜ日本共産党は「ひそかに創立」されなければならなかったのでしょうか?なぜ公然と活動が出来なかったのでしょうか? > #日本共産党は、「破壊活動」を行うための組織だったのでしょうか? > #「治安維持法」は「破壊活動」を取り締まるためのものだったのでしょうか? > #「治安維持法」によって「私有財産制度の否認などの活動」が取り締まりの対象になったのは、言論と思想の自由を奪い弾圧することではないでしょうか?この「教科書」の執筆陣が忌み嫌う「共産主義」や「ファシズム」の国家と全く等しい政策ではないでしょうか? 治安維持法 no saiko~ke~ wa, motiloŋ "国体ヲ変革 ...死刑" (1928年の緊急勅令). Naze "国体ヲ変革" ni hulenai? > ソ連 250,000人 > アメリカ 199,000人 > パレスチナ 120,000人 > イギリス 65,000人 > アルゼンチン 50,000人 > 中国 30,000人 > ブラジル 25,000人 > スイス 16,000人 > ポルトガル 15,000人 > チリ 14,000人 > スペイン 12,000人 > ボリビア 12,000人 > スウェーデン 12,000人 > 豪州 9,000人 > カナダ 8,000人 > 南アフリカ 8,000人 > 日本 2,000人 > (出典は、Martin Gilbertという人の“Holocaust”という本だそうです) > > このように当時の大国だったはずの日本は、中国の15分の1ほどしかユダヤ人を受け入れていなかったのです。秦郁彦氏は「それにしても、ユダヤ人亡命者の国別受入数を示した表で見る限り、日本は『ユダヤ人を助けた』と胸を張れるような実績ではなかったことがわかるだろう」と述べていますが全く同感です。 > ちなみに当時日本が占領していた上海ではユダヤ人を隔離するための「ゲットー」が設けられました。同著によると上海のゲットーではユダヤ人は出入りに「J」というスタンプがあるカードが必要で、ゲットーの外では「ダビデの星のマークをつけることが強制された」そうです。ナチスドイツによるユダヤ人迫害政策と基本的性格は等しいといえるでしょう。(以前、梶村太一郎さんが上海のゲットーについて詳しく述べておられました) > ユダヤ人排撃を公言し実行したナチスドイツとは異なり、当時の日本の国是は「八紘一宇」でしたが、実際は日本もナチスドイツのように他民族を差別し圧迫する国だったのです。それは明治維新以降のアジア侵略・支配の有様を顧みれば論を待たないことでしょう。 > > (P-204)大東亜戦争(太平洋戦争) > 「日本は米英に宣戦布告し、この戦争は『自存自衛』のための戦争であると宣言した」 > 『自存自衛』というのは自殺的な戦争に国民を巻き込むため表向きを取り繕った言葉であったことを説明しなければ、「大東亜戦争は日本が生きていくための戦争だったんだ」という恐るべき誤解が生じる恐れがあります。 tokolode, 岡崎久彦は、 naze kono bubuŋ kala 「反米色を一掃」 sinai noka? > (P-211)欄外「聖断の後の昭和天皇の発言」 > 昭和天皇は「聖断」の後に、 > 「・・・一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらう以外に、この日本に子孫を伝える方法はないと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなっても構わない」 > と述べたと書かれています。 > しかし、1945年2月に重臣ら7名が天皇に戦局の見通しを述べた時、その中の一人の近衛文麿が、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と述べ戦争終結を提言したところ、天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と反対したそうです。その後3月に東京大空襲、4月からに凄惨な沖縄戦、8月には広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦・・・と、多くの国民が犠牲になったことは言わずもがなです。 > そもそも当時の天皇が懸念していたことは「国体護持」(天皇制の存続)と自分の地位だったようです。1945年7月31日、昭和天皇は木戸幸一に次のように語っています。 > 「先日、内大臣の話した伊勢神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移しするのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(「木戸幸一日記」より) > 天皇にとっては国民の生命よりも三種の神器の方が余程愛しかったことでしょう。 saikiŋ akilaka ni naqta 昭和天皇の発言: 「二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。 日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。 日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。 日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、 日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。 徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。 かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。 かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。 この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。 日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。 平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。 日本人の間には宗教心が欠如している。 私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。 しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので依然として危険な面がある。 政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。 以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。 私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。 また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。 しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。 日本の労働者は、物事を真似る事において、義務を疎かにして自分の権利を利己的に追求しやすく、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。 自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に『輝く平和』の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。 私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。 鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。 彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。 彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。 私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。」 tugi no kaite~ dewa, kole mo nolu kana? > (P-214)読み物コラム 20世紀の戦争と全体主義の犠牲者 > ・・・と題してナチスドイツとソ連邦の体制を批判していますが、何故「全体主義」と銘打ったコラムなのに戦前の日本を取り上げないのでしょうか? > ソ連邦の「満州」侵攻とシベリア抑留を紹介しながら、何故日本のシベリア出兵を取り上げないのでしょうか? > ナチスドイツが身体障害者を薬殺したことを紹介しながら、何故日本が行った人体実験を取り上げないのでしょうか? Niqpoŋ no do~me~koku dealu ナチスドイツ o hite~ site joinoka? Kono Zigjaku Baikokudo me! > (P-215)読み物コラム 東京裁判について考える > 「GHQは占領直後から新聞、雑誌、ラジオ、映画の全てにわたって言論に対する厳しい検閲を行った。 > また、日本の戦争がいかに不当なものであったかを、マスメディアを通じて宣伝した。 > こうした宣伝は、日本の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後の日本人の歴史に対する見方に影響を与えた」 > この「教科書」の執筆陣の日頃の主張そのままです。「日本の戦争が不当であった」ことも認めず、「自国の戦争に対する罪悪感」もどこ吹く風の方々がこのように喚きたくなるのも無理はないでしょうが、彼らはこのようにアメリカの占領政策を批判しながらも、一方では安保体制を支持しイラク戦争を批判することはない“親米”なのですから呆れるばかりです。またGHQが行った“赤狩り”(日本共産党員の公職追放、赤旗発行禁止、労働組合への弾圧など)については全く記述されておりません。(ただしP-212には「またGHQは、戦時中に公的地位にあった者など、各界の指導者約20万人を公職追放した」と記されていますが) tokolode, 岡崎久彦は、 naze kono bubuŋ kala 「反米色を一掃」 sinai noka? > (P-223)冷戦の進行 > 「1965年、アメリカはインドシナの共産主義化を警戒し、南ベトナムを支えるため、直接軍隊を派遣し、中国やソ連が支援する北ベトナム軍や南ベトナム軍の反政府勢力と戦った(ベトナム戦争)。しかし、勝利を収めることはできす、1973年、アメリカ軍はベトナムから撤退した。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立した」 > このように、アメリカのベトナム侵略に対する批判は全く見受けられません。ベトナム戦争が終結したことを「北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合」したという表現がありますが、そもそも南ベトナムは植民地支配をしていたフランスとアメリカの横槍によって作られた傀儡政権であることを知らないのでしょうか? > また、別の部分では(ソ連による)「1979年のアフガニスタン侵攻」というもっともな表現がありますが、何故ベトナム戦争については「侵攻」、あるいは「介入」という表現を避けるのでしょうか? > それに全世界で展開していたベトナム反戦運動についても全く記述がありません。 インドシナ wa sabetugo nanode, "東南アジア半島" ni kaelu beki. "1979年のアフガニスタン侵攻" wa matigai. " 1979年のアフガニスタン軍事援助" to subeki. > (P-225)人物コラム 昭和天皇 > 1945年9月27日、天皇がマッカーサーとの会見に於いて「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」と語り、マッカーサーが「私は大きい感動にゆすぶられた」という伝聞を取り上げていますが、 > #そのネタである「マッカーサー回想記」には、架空の日露戦争観戦記があり(マッカーサーは当時療養中)、また昭和天皇が連合軍の戦犯リストに挙げられていた、という虚偽もあります。よって「マッカーサー回想記」には信憑性が乏しいと言えます。 > #会談の翌々日天皇は木戸幸一に対し、これから予想されるアメリカからの追及に対し「頬被り」を通すか、またはマスコミを使って情報操作すべきかマッカーサーに直接弁明するべきか相談したそうです。木戸は弁明などヤブ蛇であると忠告し、天皇は軍部が悪かった、政治体制が悪かったなどと愚痴をこぼしたそうです。 > #また、第一回会見(昭和天皇が「自分が責任をとる」と発言した、とされる)の通訳を努めた奥村勝蔵氏の記録には、その発言は存在しません。 > #1945年10月27日、マッカーサーは天皇との会見についてGHQ政治顧問ジョージ・アチソンに語りましたが、その際、件の発言について全く触れられていません。 > #1946年春、天皇は自分の心境や戦争との関わりを口述し、寺崎英成はそれを「昭和天皇独白録」としてまとめました。病臥中にも拘らず数日間のうちに、自分には戦争責任は無いことを滔々と語っていることから、これは「極東国際軍事裁判」の対策だったのではないかと言われています。 > 以上の点から、天皇が「私はどうなってもいい」という趣旨の発言をしたとは考えにくいと見られています。 |
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