35715 | 返信 | Re:単一民族論 | URL | tpkn | 2005/06/26 08:57 | |
▼とほほ師匠 > 現在認識されている琉球語が大和と同系統である事は琉球が大和民族である根拠にはならないといっているのだ。 そうそう。だから「言葉が違う」ことを別民族の根拠にもできない、ということですね。 > つまり明確に記憶しているのは奄美の言葉は候文なのだ、と言う叔父さんの言葉を覚えていると言う事だ。 つまり叔父さんの言葉が間違ってるってことですね。 ▼inti-solさん > 確かにその傾向はありますね。ただし、それを言えば民族という概念自体が多かれ少なかれ仮構です。琉球人が大和民族の一員なんてのも相当の仮構です。 そうです。つまり、「琉球は大和民族とは別民族」というのも「仮構」なわけでして、それを言語的な距離やらなんやらで客観的に論証しようとするところに無理があるわけです。 > 言語学的な距離で測れば、スペイン語とイタリア語の差異よりも、日本語と琉球語の差異の方がおそらく大きいでしょう。 そうです。日本語と琉球語どころか、東京弁と津軽弁だって、スペイン語とイタリア語、ポルトガル語よりももっと離れていると思います。同様に、北京語と広東語の差異も、南欧諸語の差異よりもずっと大きい(たぶん)。 > 現状においては、確かに純然たる琉球語を話す人はかなり減っているし、都会の生活スタイルは那覇だろうが東京だろうがほとんど変わらなくなっているでしょう。しかしそれにもかかわらず、歴史的に見て琉球は日本とは別の独立国であった時期が長かった(実質的には1609年に琉球は薩摩に征服されますが、形式的には幕末まで独立国でしたし、太平洋戦争後再び日本から切り離されました)し、琉球語が急激に消滅して日本語に取って代わられたのは戦後米軍統治時代になってからのことです。このことから考えて、沖縄が本土と同一の民族文化圏であると見なすのは、あまりに無理がありすぎます。 ここでもinti-solさんは別の民族文化圏であることの根拠として「純然たる琉球語」や「別の独立国」であることを挙げておられますが、八重山と本島の言葉がこれまたまったく違う以上「純然たる琉球語」というものも実は存在しません。これは、世界的にも島が集まっているような地域では同じ傾向があると思います(つまり、この基準では島嶼部は常に「多民族」となる)。また、「独立国」という概念も今と昔では違っているわけで、たとえば明治以前の日本がひとつのまとまった国だったかどうかというのも、今の概念からすれば疑問が多いわけでしょう?(とほほ師匠がよくそういう主張をしております)。 > 「断絶」というのはどうでしょうね。どちらにしても大和と琉球が、起源を同じくする非常に近い隣人同士であることは明らかなのですから。スペインとカタロニアが文化的に「断絶している」なんて、誰も言いません。 しかし、今でもカタルーニャ人にはカスティージャからの独立を主張する人は多いですよ。問題は、琉球人にそういう意識がどれぐらいあるかということです。琉球人が自分達は日本人(の一種)だと思っているときに、「いや、おまえらはかなり違うのだ」なんててことを声高に言うと、これは「差別」となります。 > > 言語を元に日本人の民族を分類するなら > > ですから、言語を元に米国人を分類するなら米国には「アメリカ人(英語人)」と「ヒスパニック」の2種類の民族しかいない、ということになるわけでして。 この「アメリカ人」というのは、実はまた別の分類概念でして、以前国民国家の種類について確か問答有用に投稿した記憶があるのですが、「英語人」「西語人」をまとめて「アメリカ民族」と見なすことは可能ですよ。 > 「単一」というのは、「割合が圧倒的に多い」ことを指すのではありません。それ一つしかないこと、また、それ一種だけでほかに混じりものがないことを「単一」と呼びます。(岩波国語辞典)数が圧倒的に多かろうが、「混じりもの」のあるものを単一とは呼ばないのです。 いえ、おっちゃんの言っている通り、これはたとえば科学的な指標ではなく相対概念ですから、「圧倒的に多い」場合、単一民族国家と言ってよいわけです。 > 永住権を持ち帰化していない在日韓国・朝鮮人が50万人以上います。帰化した人は、おそらくそれより多いから、合わせれば100万人か150万人か、そのくらいいます。 > 沖縄の人口約150万人と合わせれば、おそらく300万人。無視できるほど小さな数字ではありません。 いわゆる「多民族国家」に比べれば無視できるほど小さいです。また、帰化していない在日は住民ではあっても「国民」ではありませんから、これは国民の民族区分からは除外されます。 言いたいことはですね、日本の場合、いわゆる多民族国家とは成員の構成がまったく違うのに、別民族が少しいるからといってなんでもかんでも「多民族国家」と言ってしまうのは、逆にその差異を覆い隠すことにしかならないのではないかということです。 |
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