35759 | 返信 | Re:サイパン島 菅野静子『従軍看護婦』の紹介記事 | URL | ウサギの眼 | 2005/06/29 09:34 | |
両紙が紹介する極限状態において我が身を顧みず傷病兵の看護に献身する行動の崇高さには胸を打たれます。がそれとは別に、そもそもそのような悲しい状況を生んだ軍国日本のシステムの一つが靖国であることに考え至れば、内容紹介にかこつけて靖国美化利用への意図がかいまみえる産経記事のいやらしさは朝日と比べて数段劣ります。 > 戦中、サイパン島の水産会社に勤めていた菅野静子氏は、米軍上陸とともに我が軍野戦病院の従軍看護婦に志願。重傷を負って米軍に収容され九死に一生を得た。そのサイパン島での酸鼻極まる悪戦模様を彼女は「サイパン島の最期」に著した。今、彼女は79歳でご健在である。 > > さて、彼女のことを、今月ほぼ同時に「産経」と「朝日」が記事にした。 > 同一人に関し両新聞の取り上げ方の違いが分かるので、少し長いが引用させてもらう。 > > ************************************************** > 先ず産経(6月26日) > > 【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相 サイパン陥落(上)昭和19年 > 月光照らす地獄 > > 「ただただ私は、兵隊さんたちがかわいそうで、助けてあげたかったのです」 > > 菅野静子(79)=神奈川県逗子市=は今も、毎年六月になると、サイパン戦の三週間を思わずにはいられない。 > > 昭和十九年当時、「南洋の東京」といわれる繁栄を誇ったガラパンで、水産会社に勤める十八歳の少女だった。家族は近くのテニアン島に住んでいた。米軍上陸翌日の六月十六日から、七月七日の玉砕まで、菅野は民間人が入れない陸軍の野戦病院に行き、志願して看護婦となった。「病院」といっても、施設があるわけではない。すり鉢状の盆地に、負傷兵が並べられているだけ。「地獄というものがあれば、こんな所だろうと思ったものです」。菅野は当時を振り返った。 > > 六月十一日に始まった米軍の空襲によって、ガラパンには負傷者があふれていた。菅野は職場に運び込まれる負傷兵を前に、見よう見まねで傷口にほぐしたたばこをあて、引っ張り出した下着のゴムで止血した。山の洞窟(どうくつ)に避難した後も、負傷者の手当てに尽くしたが、十五日に米軍の上陸が始まると、水源地ドンニーにあるという野戦病院に向かった。 > > 南洋特有の明るい新月が、野球場のような盆地に並ぶ重傷兵を浮かび上がらせていた。「看護婦を志願してきました」。自然に言葉が出た。 > > 「ありがたいが、早く山を下りなさい」。周囲から「隊長殿」と呼ばれる中年の院長と押し問答になり、菅野はせきを切ったように話していた。 > > 「家族はみんな死んでしまいました。何でもしますから、ここで働かせてください」 > > 少佐の襟章を付けた隊長は菅野の話を聞き終わると、自分の赤十字の腕章を外し、菅野の細い腕に巻きつけた。 > > 「あんたはこの野戦病院の特志看護婦だ。ただしここは軍隊だ。苦しいこともあるけれど、我慢してしっかりやるんだよ」 > > さっそく三人の軍医、七人の衛生兵と手術を手伝った。手負いの兵士は三千人以上。懐中電灯で手元を照らしながら、ざくろのように割れた傷口に、食い込む黒い破片を取り除く。うみと血で固まった包帯を替え、傷口に群がるウジを取り除いた。 > > しかし破傷風が蔓延(まんえん)し、日を追うごとに死体を捨てる作業が増える。頭はぼやけ、手だけが機械のように動く。不眠不休の手当ての合間、水をくみに現場を離れると、空気がうまかった。 > > 米軍の攻撃は激しさを増した。六月二十六日夜、ドンニー最後の食糧が配られた。乾パン一袋と缶詰一つ。手榴弾(しゅりゅうだん)は七人に一つずつしか渡らなかった。サイパン守備軍の司令部から、野戦病院閉鎖命令が出ていた。患者を戦闘に巻き込まないためではあったが、それは同時に重症患者の自決も意味する。隊長が強い口調で言った。 > > 「命令により、本野戦病院はマタンシャに移動する。気の毒だが、歩行できない者は残す。日本軍人として恥じない最期を、遂げてくれ」。傷ついた若い将校がかすかに声を出した。「看護婦さん、『九段の母』…知ってるか」。老母が靖国神社に戦死した息子に会いに行く。そんな情景を描いた歌だ。 > > 小さな声で四番まで歌うと、重傷兵から「おれたちは、靖国神社に行くんだな」「そうだ靖国で会おう」の声が上がった。間を置いて隊長が、小さな声で出発を告げ、一行は歩き出した。菅野も続いた。「看護婦さん、ありがとう」「隊長殿、軍医殿、看護婦さん、さようなら」「看護婦さん、死んではダメだぞ」 > > 菅野は振り返らず、走った。背中越しにバンバンと炸裂(さくれつ)音が続いた。「お母さん」「タケボー」。家族の名を呼ぶ声。頭にカッと血が上り、足がもつれた。 > > 菅野は七月六日、マタンシャの野戦病院を出るよう命令され、いったんは出発したが、七日明け方に再び病院に戻った。 > > 「おれの気持ちが分からんのか。早く出ろ。敵が来たらこれを持っていけ」 > > 隊長は白いハンカチを押し付けた。しかし壕(ごう)の外にはもう、米兵が迫っている。飛び出す兵士は撃たれた。 > > 日ごろから「日本の金鵄(きんし)勲章を、みんな看護婦にやりたいくらいだ」といたわってくれた隊長は、「自分は最後まで、金鵄勲章をやれなかったことを残念に思って死ぬ。君だけは生きて、野戦病院はここで全滅し尽くしたと、友軍に伝えてくれ」と言い、拳銃をのどにあてた。倒れかかる若い軍曹の体重を感じながら、菅野は手榴弾を握った。米兵の姿が大きくなる。「死ぬのは怖くなかったんですが、自分がここで死んだ、と誰も言ってくれないのがとても寂しかった」。手榴弾の安全ピンを抜いた。 > > 目覚めたとき、菅野は米軍の前線司令部のベッドの中だった。外国人の姿に声も出ない。若い将校が日本語で「あなたは助かった」と、野戦病院唯一の生き残りであることを告げた。重傷を負っていたが、懇願してその日のうちに収容キャンプに移された。 > > トラックに寝たまま、七夕の月を眺めた。サトウキビ畑に数珠つなぎに横たわる民間人の遺体。島北部に近づくと、日本語を話す将校が「海にも、たくさん死んでいます…見ますか」と聞いてきた。将校らが三人がかりでバンザイクリフの際まで運んでくれた。「多分、私があの光景を見た初めての日本人でしょう」 > > 月光がキラキラと反射する波間に、浮かんでは沈む多くの人影。がけの途中に突き出た木の枝に、服の端切れが引っかかっていた。 > > 「日本の人はなぜ、こんなに死ぬのでしょうね」 > > 涙をこぼす将校の言葉を、菅野はうつろな心で聞いていた。月がやけに明るく、国民服姿の大人や子供の顔まで、あまりにはっきりと見えた。=敬称略 > > (飯塚友子) > ************************************************************* > 次は朝日(6月28日天声人語) > > 1944年、昭和19年の7月、激戦のサイパン島で日本軍が壊滅した直後、米紙に「島のジャンヌ・ダルク」と報じられた日本人女性がいた。鶴見俊輔さんが『昭和戦争文学全集/海ゆかば』(集英社)の解説に記している。 > > 「日本軍最後の玉砕地点で発見したのは、意外にも、手榴弾(しゅりゅうだん)で自決をはかり下腹部に重傷を負っていたワック(女兵士)だった……この勇敢な“女戦士”のヤマト・ダマシイに強く心をうたれた」。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは、そう書いたという。 > > この時に18歳だった菅野静子さんは、山形県で生まれて間もなく、一家でサイパンに近いテニアン島に移住した。44年6月、米軍がサイパンに上陸した時、陸軍野戦病院の看護婦を志願した。 > > 追いつめられ、やがて自決してゆく兵士たちを看護した。いよいよ米軍が迫った時、野戦病院を出て生き残るようにと言われたがとどまった。自決しようとし、意識不明の状態で発見される。 > > トラックで収容所へ運ばれる途中、断崖(だんがい)の近くを通った。そこから身を投げた多くの女性の死体が、眼下の波打ちぎわに浮かんでいた。背中と胸に、子どもをひとりずつ縛りつけた人もいる。「日本の人は、なぜ、こんなに死ぬのでしょうね」。ひとりの将校が、泣いていた(菅野さんの手記「サイパン島の最期」から)。 > > 天皇ご夫妻がサイパンを訪問中だ。今日は、61年前に多くの女性が飛び降りた「バンザイ・クリフ」での慰霊も予定されている。あの戦争の時代は遠くなっても、遠のくことのない記憶がある。 > ************************************************************ > > 産経は、その標題にもあるように、矢尽き刀折れ斃れていった多くの日本兵への哀悼と、民間人の悲劇が重ね合わされて記述される。傷病兵の死に際における靖国への思いが切々と伝わり胸を打つ。 > 一方の朝日は、珍しくも、彼女の武勇、敢闘精神を米国人ですら称えることに主眼を置き(このような称え方は反戦朝日にしては本当に稀だ)、天皇陛下の慰霊に結び付けるが、何とも記述に一貫性がない。 > > 吾人はこの双方の記事をどのように読み解くであろうか? > |
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