35843 | 返信 | 日本軍の空襲 | URL | memo | 2005/07/04 02:31 | |
** 錦州 1903年12月17日、米国ノースカロライナ州のキティホークで、ライト兄弟の手による「ライトフライヤー」号が史上初の有人動力飛行を果たしました。この飛行機は最長260mを59秒で飛んだのですが、その日のうちに壊れてしまったそうです。 http://www1.interq.or.jp/mmi/txt/raito.htm その後飛行機は着々と進歩を遂げ、1909年にはイギリス海峡約30kmを横断します。第一次世界大戦が始まった頃の飛行機は偵察が主で、敵機同士でもハンカチを振って挨拶などしていたのですが、1917年になるとドイツの飛行機がロンドンを爆撃するまでになりました。 ただ、大被害を与えるには至っていません。戦後は旅客機や郵便機が多く運行されるようになり、1927年にはリンドバーグがニューヨーク・パリ間5810kmを33.5時間かけて横断しましたが、航空郵便士だった彼自身4度のパラシュート脱出を試みていたように、まだまだ飛行機は不安定な乗り物でした。 1931年9月18日に満州事変を起こした日本の関東軍は、政府の不拡大方針にもかかわらず戦線を拡大し、10月8日には張学良の拠点・錦州を爆撃しました。偵察機に毛の生えたような爆撃機だったとはいえ、病院や学校まで爆撃したことは世界の反発を受け、国際連盟における日本の立場を決定的に悪化させました。ヨーロッパは恐慌に苦しみながらも、まだ平和を保っていた時代です。 ** 南京 満州事変はブロック経済の引き金を引き、ドイツではナチスが政権を握って侵略への道を進みます。ナチスは1933年に連盟を脱退、1936年にはスペインの内戦に介入し、1937年4月26日にはコンドル軍団を駆ってバスク地方のゲルニカを爆撃し、2000人以上の市民を殺害しました。 「満州国」建国を強行して連盟を脱退した日本は1936年にドイツと防共協定を結び、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに中国との戦争に入ります。当初は華北での陸軍による戦闘が主でしたが、8月13日には海軍陸戦隊が上海戦を開始しました。この戦いは大苦戦を強いられ、陸軍の増援を受けてようやく目的を達するのですが、それだけに海軍の戦闘意欲の高さをみることができます。 海軍はさらに8月15日から、前年に完成した三菱の九六式陸上攻撃機を用いて、長崎大村基地から南京へ、往復約2000kmの渡洋爆撃を強行しました。マスコミはこれを > 我海軍機長駆南京へ/空軍根拠地を爆撃す/敵に甚大の損害を与う > 荒天の支那海を翔破/我が海軍機 (東京朝日新聞) 等と華々しく報じ、海軍省も「世界航空戦史上未曾有の大空襲」と宣伝しました。 この爆撃は戦闘機を伴わなかったためかなりの反撃も受けたのですが、連日の爆撃で病院、大学、貧民街等をやられた南京の被害はそれ以上のものでした。故意に狙ったわけではありませんが、 > 爆撃は必ずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主眼とするをもって、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度2000ないし3000メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたし という指示が出ていたのですから、実質は無差別爆撃です。 9月に入ると、上海からの爆撃も開始されました。以下は、9月22日の爆撃に関する記述です。 > 爆撃後に下関の難民収容所に行ってみたところ、その光景は目をおおうばかりで、現場には犠牲者のばらばらになった遺体がからみあったままかなり広範囲にわたって散乱していた。多数の難民が住んでいたむしろがけ小屋は爆撃で火がつき、なお延焼中である。 (ロイター通信 L.C.スミス記者) このような爆撃は南京以外の都市にも行われ、9月28日には連盟総会で「都市爆撃にたいする国際連盟の対日非難決議」が全会一致で採択されました。南京では10月までの爆撃で、市民約400人が犠牲となりました。 ** 重慶 日本軍は12月13日に南京を占領しますが、これで敵は降伏するという日本軍の願望と裏腹に、中国政府は漢口さらに重慶に逃れて抵抗を続けました。重慶は険しい山岳と三峡の激流に守られ、日本軍は陸路からも水路からも攻めることができません。そこで1938年の12月から、日本軍は重慶への爆撃を開始しました。 ここは長江と嘉陵江に挟まれた坂や階段の多い街で、迷路のような街並みに木や竹や土でできた住宅が密集していました。それで余計に爆撃の効果が高まりました。 1939年5月3、4日の爆撃ではほぼ街中が火の海となり、死者2648人、負傷者3668人を数えました。以下は米国のケンプ・トリー大尉の記述です。 > もし、大量殺戮の光景についてこのような表現が許されるとしたら、次の日の空襲は前日にも増して壮観であった。何回かの誤報で人々の警戒心が緩んだところに、明るい夕焼け空にくっきりと27機の影を映して、いきなり彼らはやってきた。それから5分間は、まさに地獄そのものであった。次々に落とされる爆弾の爆発音、機銃の発射音と、空中で炸裂する砲弾の音が交錯して、耳をろうせんばかりであった。 > (中略) > 火は2日間燃え続けた。7日たった今もなお、遺体を集めたり、埋葬するために運んだりしている。辺りに漂っている臭気がどんなものか、想像がつくであろう。 零式艦上戦闘機(零戦)のデビューも重慶爆撃でした。1940年9月13日、爆撃機を援護して870kmを飛来した零戦13機は、重慶上空でソ連製戦闘機27機と戦い、撃墜数27対0という圧勝を収めています。これにより中国空軍の反撃はほぼ封じられ、日本軍は中国各地で空襲を繰り返しました。 反撃もままならなくなった重慶の人々は防空壕等で難を避けていましたが、1941年6月5日の空襲では「18梯」の地下洞で、酸欠と将棋倒しにより死者1万人という大惨事が発生しました(直接の原因は、防衛団が扉を閉めっぱなしにしたことです)。 > 18梯の防空洞のなかは、すでにお話がありましたように、息もできないばかりのこみかたでしたね。身動きさえつかないのです。おまけに熱くて熱くて・・・人いきれというんでしょうか。壁や天井に蒸留水がいっぱい。どの人もどの人も、みなじっとりと汗をかき、私もいつのまにかびしょびしょになっていました。 > とても気持ちが悪くて、頭がぼうっとかすんでくるんですよね。 > (中略) > 洞内の奥のほうから、なにか悲鳴じみた騒ぎが起きたのは、洞に入ってから1時間以上過ぎたときでしょうか。ですから、夜も8時すぎですね。 > 悲鳴とともに、奥のほうから、どっとばかりに人波がくずれてきました。 > 「助けてくれ、出してくれ!」 > みんな、口ぐちにさけんで、それはもうお尻に火がついたような感じでした。 > 火がついたのではなく、酸素がなくなったわけですが、どっちにしても結果は同じです。 (白素芳さん(当時27歳)の話) 重慶爆撃は1943年まで218回を数え、死者は上の防空洞事故を除いても1万2000人に上りました。この数は、8回の大阪大空襲による犠牲者の総数とほぼ一致します。 http://ha4.seikyou.ne.jp/home/jouhoku/heiwa/#Anchor-o-kuusyuu なお、中国全土での爆撃については、エドガー・スノーによる爆撃数1万1000、犠牲者20万足らずとという推測があります。 ** 参考文献 南京事件 笠原十九司 岩波新書 1997年 母と子で見る10 重慶からの手紙 早乙女勝元 草の根出版会 1989年 ** 余談 ** ノンポリさんとinti-solさんの「新しい歴史教科書」批判は勉強になりました。 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=35665&range=1 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=35710&range=1 山さんの「日本語の起源についての考察」を興味深く読んでおります。 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_thread?base=35729&range=1 |
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