| 35949 | 返信 | イスラエル建国にまつわる歴史の歪曲 やり残し分 | URL | ノンポリ | 2005/07/11 02:16 | |
| もう半年以上前の議論なので非常に恐縮ですが、パレスチナ問題に関する水原文人氏の投稿について、レスしていない部分をピックアップしてみます。 (関連する枝) まずは投稿番号:29784の冒頭部分ですが・・・ > まず質問ですが、ではユダヤ人もローマ帝国によるユダヤ反乱の鎮圧でパレスティナの地を追われました。2000年経っているとはいえ、「暴力によって追放されたから、追放される前の状態に戻してもらう権利」がユダヤ人にも派生することについては、ご同意頂けますでしょうか? > > (これは「踏み絵」的質問にしかならない質問ですから、注意してお答え下さい。ねんのため) 本気で2000年前がどうのと言っている人がこの世に存在したのか!と仰天しましたが、「踏み絵的質問」などという但し書きがあるので、ある種の罠なのではないかと思いました。しかしそうではなかったようです。以下は31280です。 > ところで、それではノンポリさんはイスラエルの生存権は認めるですね。やっと考えが改まったわけか。 いえ、私は最初から認めておりますが? > > >いちばんふるっていたのはエルサレムのガイドのおっさん(42歳で孫10人!?)で、「パレスティナ人とはパレスティナに住んで故郷にしている人のことだから、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒だ。みんな仲良く住むのが本当だ」と言ってましたが。 > > > > 「パレスティナ人とはパレスティナに住んで故郷にしている人のことだから、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒だ。みんな仲良く住むのが本当だ」 > > とパレスチナ人が言って何がおかしいのでしょうか? > > ちっともおかしくありませんが、なにか? > > ただユダヤ人に2000年前に追われた民族の故郷に戻る権利それ自体はあるということを「ナンセンス」と言い切ったノンポリさんと、当事者であるたとえばこのアラブ人のガイドのおっさんとでは、意見がまったく異なるということです。彼はユダヤ人がパレスティナを故郷と認識すること自体は認めているんですから。 いえ、その「おっさん」と私の認識は一致しますが、水原氏とは重要な部分で決定的に異なります。 その「おっさん」や私が、「アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒」らが「仲良く住むのが本当」だと思う理由・・・・つまりイスラエルという国家のユダヤ人もそこに住み続ける権利があると思う理由は、現在彼らが「パレスティナに住んで」、そこを「故郷にしている」からです。今現在彼らもパレスチナに住んでいるからです。 2000年前に住んでいたから何てことは全く意味を持ちません。2000年前だろうが20年前だろうが、過去にどうだったかは全く関係なく、現在そこに住んでいるのなら、当然今後もそこに住み続ける「権利が発生」するはずですが、何でこんな当たり前のことを大の大人に説かなくてはならないのでしょうか? > ただ自分たちに「アメリカがインディアンに対してやったのと同じことをした」ことについて怒ってはいましたが。そしてその通りだと思いますよ。 私にしつこく追及されて、やっと水原氏も「アメリカがインディアンに対してやったのと同じ」ように(「俺たちは2000年前に暴力によって追放されたから、元の所に戻る権利がある」というお話にならない口実を用いて・・・)、イスラエルがパレスチナ人を暴力的に排除したことは認めたようですが、ここまで来るには一苦労でした。 ・・・1948年の第一次中東戦争にて、パレスチナ人が大量に難民化した原因について水原氏は「アラブ連盟が避難を呼びかけた」ことを理由の一つにしていましが、これは森永さんの29792でイスラエル側の悪質な歴史の歪曲であることが明かされました。これを水原氏は完全にスルーしていましたが、その後同じ話を持ち出しています。 > > >なんらかの命令に従って避難した人々がいたことを否定しようとする「歴史歪曲主義者」も、 > > 原文は「パレスティナ人のなかに自主的に避難した人々や、なんらかの命令に従って避難した人々がいたことを否定しようとする「歴史歪曲主義者」」です。前半部をはしょる恣意的引用の典型。 > > > 「なんらかの命令」とは、誰が出したどんな命令ですか?その記録は?もしかして、わざとやってますか? > > 村長が全村避難を命じたなど、いくらでも証言がありますが? だいたい民主制度など確立していなかった時代に、共同体のリーダーがそういう命令を下すのは当然ですが? 個人主義社会じゃないんだし。 (水原氏:31384) 水原氏はその「いくらでも」あるという証言を例示していないので・・・多少自分で調べてみよと思い、「パレスチナ問題の歴史と国民国家」(富岡倍雄/著)という本を読んでみました。 まず、アラブ高級委員会・委員長「アミーン・フセイニ」から退去命令が出た、そういう放送がカイロからラジオで流された・・・というイスラエル側が唱える説については、 「当時の放送の録音と傍受記録を丹念にしらべたがそのような放送のあった証拠はない」ことが明らかになると、1961年に当時イスラエルの首相だったベングリオンが、次のような「証拠書類」がある、と反論しました。それは1948年4月24日のハガナ情報部の日報だということです。 「噂によれば、エルサレムのアラブ高級委員会は、パレスチナの数ヶ所の地域に対して、在住アラブ人の退去を指令した・・・・アラブ人居住者はできるだけすみやかにパレスチナをはなれるようにいわれている。パレスチナがアラブ諸国家の手に帰したのちに、かれらは勝利者としてかえってくることになるだろう」 しかし「B・モリス」とかいう人(多分“Benny Morris”というイスラエルの歴史家のことだと思います・・・)は、 1.その後の日報にはこの情報や退去命令について全く触れられていない 2.逆に、アラブの指導的立場にある者が、家に留まれ、避難した者も戻ってこいという呼びかけを「くりかえし放送しているところを(ハガナ情報部や西側外交機関が)傍受して記録している」点から判断して、 これはまさに額面どおりの「噂」に過ぎない、と見ているそうです。 しかし「地域的な規模でなら、戦場になるところからの退去命令はアラブ側から何回も出されているし、イスラエル側もそういう退去命令はいくらでも出している」とも述べておりまして・・・どうやら「なんらかの命令」が存在したことは確かなようです。この件について水原氏をウソつき呼ばわりしたことについてはお詫び申し上げます。 しかしモリスと著者は「数ヶ所の地域に対して」という部分に注目し、「あの大量脱出をひきおこしたような総避難命令が放送などを通じて全地域にわたってだされていた」事実はないと結論づけ、さらに著者はこの「噂」の出所を探っています。 1948年4月22日(つまり件の「日報」の二日前)、地中海岸のハイファという街でのハガナとアラブ側の交戦にてアラブ側が敗れて指揮官が後退した後、ハガナは市の代表者に対して「武器を引き渡せば生命と権利は保障する」と申し出ましたが、市の代表者はこれを拒絶し住民全体を街から退去させたそうです(モリスはこれを、イスラム教徒たちにとって停戦することは降伏と裏切りを意味するものだったからと見ています)。 筆者は、この事例に背びれ尾びれがついて上述のような「噂」となって「日報」の中に記されたのではないか、と推測していますが、どっちにしろイスラエル側の唱えている説が全くの虚構であることに違いはありません。しかしこの程度の資料を一国の首相たる立場の者が「証拠書類」として挙げるとは・・・南京大虐殺否定派が時折持ち出す「反日撹乱工作説」を日本の首相が唱えるようなもんです(笑) そしてモリスはパレスチナ人の大量脱出の原因・要因を、次のように分析したそうです。 #当時のパレスチナ社会の抱えていた様々な問題点――失業者の増加や物価上昇などの経済的な困難、指導者らの無力、イギリス統治機能の縮小に伴う法秩序の混乱 #ユダヤ人に支配されることへの不安 #「エリート層」が早々と退去したこと #アラブ側から出た地域的な退去命令 #ユダヤ人側からの地域的な追放命令 #イスラエル側が行なった残虐行為 そして最後に「パレスチナ人の脱出を最終的にうながした主要なもの」として、 #ハガナ/イスラエル国防軍の攻撃と征服またはユダヤ人の攻撃が近いという恐怖 があったと述べています。 (ところで“Benny Morris”は最近、「1948年のパレスチナ人の大移住はシオニストの民兵によるあからさまな「追放」の結果である」「1948年4月から5月にかけハガナ(国軍の全身)部隊には、村民を根こそぎ追い出し、村を破壊することとはっきり命令が出ている」と明言したそうです。これについては後述) また、水原氏の発言の中にある「村長が全村避難を命じた」という話ですが、そういうことも実際にあったのではないかと思います。 以前にも言及したことですが、この時期ではイスラエルによる最大の虐殺行為である「ディール・ヤーシン」事件は世界中に報道され、イスラエルが激しく非難されるとともにパレスチナ人の間に恐慌をもたらし、大量脱出のきっかけとなりました。 これについてベギンは後年、厚顔無恥にも次のように回顧したそうです。 「敵の宣伝は、われわれの名を汚す目的をもって、あることないことを誇張して伝えた。だがそれは、結果的にはわれわれの助けになった。エレツ・イスラエル在住のアラブ人をパニック状態に陥れたのである。これまで何度もハガナーの攻撃を撃退していたコロニア村は、一夜にして無人となり、戦闘をまじえることなくわが方の手におちた。ベイト・イクサ村も、住民が逃げ出してしまった」 「ディール・ヤーシン」事件の噂を聞いた「共同体のリーダー」が「全村避難」を命じたことは想像に難くありません。このようにパレスチナ人は逃げ散り難民化し、ユダヤ人はイスラエルという国を作ることができたのです。 そもそも水原氏が「避難命令」に拘る理由は、以下の持論に正当性を持たせようとする意図であると思われます。 > 逃げたからいけない、と言っているのではないのでねんのため。現代のようにテレビやラジオやインターネットが普及してたわけでなく、正確な情報がないまま危険を感じて避難した人が多かったとしても、これまた当然です。命がかかっているのですから、逃げて当然。避難しているうちに家屋敷が「放棄された不動産」と見なされてイスラエルに接収され、移民の住居として分配されてたなんて、そんな無茶な話はないと怒っても当然です。 > > ただ同様に、こと第2次大戦後にヨーロッパから移民したいわゆるホロコースト生き残りの移民が、その土地にすでにアラブ人が住んでいるのをほとんど知らなかったし意識もしなかったのも、「ヨーロッパの傲慢」といえばその通りですが、一般の移民レベルでは致し方ないことだったとは言えるでしょう。そしてあれほどのことがあったのだから、これまた新天地に安全な生活を求めるのも当然です。 > > で、移民がいっぱいいたのだから、空き家を接収してその住居にするのも、当時の政府としては当たり前の現実的判断でしょう。家を失った側からすればむちゃくちゃだとしても。 (水原氏:29784) つまりは、 「第一次中東戦争でパレスチナ人が避難した土地を接収してユダヤ難民を住まわせたのも、当たり前の現実的判断」という、 いうなれば「イスラエル政府はパレスチナ人が大勢立ち去るという結果を予想していたわけではなかったが、移民が押し寄せた為この事態を利用せざるを得なかった」というような認識ですが、重ねて申しますがこれは根本的に誤っています。 自分の村から逃げ出したパレスチナ人を戦乱が終息した後に呼び戻さなかった(それはイスラエルの政策上「当たり前の現実的判断」と言えますが)だけでなく、イスラエルはパレスチナ人を積極的に追放する政策を取ってきたのです。それは今まで述べてきた虐殺と脅迫、デマというあからさまな追放工作だけでなく、戦闘終結以降のイスラエルの諸政策に色濃く現れています。以降はさんざんお世話になっている「パレスチナ 新版」より再び引用します。 #まず、1950年には「不在者財産没収法」が制定されました。 これは1947年11月29日の国連分割決議から翌年9月1日までに、一度でも自分の居住地を離れた者に適用されました。自主的に避難した者、イスラエル軍の命令で立ち退いた者、さらには土地・家屋が自分の所有物であるという証明書が無い者(!)、この期間に村や町を出なかったと証明できない者(!!)はこの法律の適用を受け土地財産を失いました。イスラエル占領地にあった370の村のうち300の村がこの法律の適用を受けたそうです。 #また、イギリス政府が委任統治時代(1945年)に、主にユダヤ人テロリスト取締りのために作った「緊急法」も適用されました。 これの109条は、軍司令官の命令によって「ある住民の特定地域における居住を禁じることができる」ものであり、 112条は「国外追放、財産没収、帰国禁止」を命じられるものであり、 119条は「家屋の没収」と「破壊」を可能にするものでした。 125条は一切の立ち入りを禁ずる「閉鎖地域」を宣言できるというものでした。14ヶ所の村々が突然「閉鎖地域」と定められ、場合によって爆撃と砲撃を伴いつつ、住民が追放されたそうです。(こうして見るとイスラエルの対パレスチナ人政策は「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」三光作戦そのものであることが分かります) #1949年に「緊急法」に新しい条項として盛り込まれた「安全地域」は、ある地域を安全上必要と宣言したらそこに住む住民は2週間以内に立ち退かなければならない、というものでした。日本が中国で、アメリカがベトナムで行なった「無人区」の設定と全く同質ですね。 #こうしてパレスチナ人が追放された土地は、1948年10月に施行された「未耕作地開拓のための緊急条項」によって、放置されている土地と見なされてユダヤ人の入植者の物となったのです。 #また、1943年にイギリスが施行した「公益のための土地取得法」によって、ナザレの広大な土地が没収され、そこに「ユダヤ人だけが住める街、アッパー・ナザレ」が建設されました。 #さらには、1949年にはアナン村、ヤシフ村、1950年にはマジュダル村の村民が、車で国境まで連れられて銃で追放されたそうです。 以上、P-46〜51より引用しました。このようにイスラエルはパレスチナ人をあの手この手で追放し、自分たちの国を作ったのです。 また、今更言うまでもないことですが・・・・第一次中東戦争にてイスラエルがパレスチナ人を追放した理由について、世界各地に散らばっている同胞を移住させる土地を確保するためだった・・・と今まで私は理解しておりましたが、それだけが理由ではないようです。 またもや「パレスチナ 新版」よりしつこく引用しますが、著者の広河隆一氏は1967年当時、イスラエルに「キブツ研修旅行」として渡来し、ある時自分が働いていたキブツの畑の隣に「白い廃墟」があることに気付き不思議に感じました。古い時代の遺跡かと思い、キブツのメンバーに訊ねても誰も答えてくれなかったそうです。その時広河氏は「もしかしたらこの人々は、何かを隠しているのかもしれない」と思ったそうです。 その後広河氏は、イギリスの統治時代の地図に1948年以降イスラエル当局が新しい地名を書き加えた地図を見せられ、自分が見た廃墟はパレスチナ人が追放され破壊された村の一つであったことに気付いたのです。他にも広河氏が確認した資料によると、イスラエル建国前に475あった村が1973年には90しか残っていなかったそうです。 しかし、イスラエルがパレスチナ人を追放した理由がユダヤ移民を迎え入れる為だけだったとしたら、なぜ廃墟のまま放置されている村があるのでしょうか?とっくにユダヤ移民が住んでいて当然ではないでしょうか? ・・・1990年代の前半、イスラエルはロシアから40万人近い移民を受け入れました。これはユダヤ人とパレスチナ人の出生率の差に伴う人口比率の逆転を恐れた為の措置です。有体に言ってイスラエルという国はパレスチナ人を邪魔だと思っている・・と言って過言ではないでしょう。それは建国以前のシオニストの言動からも察することができます。彼らは度々「アラブ人の移転」を口にしていたのです。 #シオニズム運動を加速した「ユダヤ人国家」の著者であり、「建国の父」と称えられた「テオドール・ヘルツル」は日記に次のように記していたそうです。 「われわれは、国境外の貧しい住民にたいし、われわれ自身の国内では一切の雇傭を拒否するが、周辺の国々ではその雇傭の確保に努めこれら住民を元気づけるだろう」 ヘルツルは1901年、オスマン・トルコの当局者に対して、「ユダヤ人は先住民を移転させる権利を持たねばならない」と提案したことがあるそうです。 #イギリスの作家「ザングウィル」や、初代大統領の「ハイム・ワイズマン」も「移転」が必要だと考えていました。 #シオニスト機構は1934年、ルーズベルト大統領が中東に派遣した使者に対して「アラブ住民のイラクへの最終的移住」を提案したそうです。 さらにシオニスト機構は1937年、イギリスの「ピール調査委員会」にも密かに「移転」を提案しました。それが「ピール分割案」にも反映され、「アラブ側が指定した地域のユダヤ人1250人と引き換えに、海岸地帯、エスドレロン谷、トランスヨルダンまでのヨルダン渓谷に住むパレスチナ・アラブ人22万5千人を『人口移転』させることが含まれるように」なったそうです。 初代首相のベングリオンは、これについて次のように述べていたそうです。 「イギリスが我々に約束した国の一部をアラブ人に与えると提案しているのであるから、私たちの国に住むアラブ人をアラブの土地に移転させるのは公正である。これは小事で負けて大事で勝つということである」 さらに1938年には次のように述べたそうです。 「私は強制移転に賛成である、モラルに反するようなことは全く無い・・・中心となる問題は二つある。主権とユダヤ国家に住むアラブ人の排除である。われわれはその両方を主張しなければならない」 #またあるユダヤ政府の官僚はイギリス人将校から、あなた達がユダヤ国家を作ろうとしている地にはアラブ人がたくさん住んでいるがどうするのかと質問されたとき、 「とんでもない。難しいことなんかないですよ。それは解決できます。虐殺が二、三度続けば、たちまち彼らを追っ払えるでしょう」 と答えたそうです。 (*ついでですが、1967年の第三次中東戦争の後イスラエルの閣僚は、ヨルダン川西岸とガザ地区のパレスチナ難民をシナイ半島やシリアやイラクに「再定住」させることを計画しました。また1974年に首相に就任したラビンは「今後10年か20年かかって、ガザ地区やヨルダン川西岸から難民が自発的に移住するような状況を作りたい」「そのためにわれわれはヤセール・アラファトとではなく、フセイン国王と合意しなければならない」と語っていたそうです) (以上は、PLO研究センター編「パレスチナ問題 新装版」P-139〜140、及び「パレスチナとイスラエル」P-283〜285より引用。それぞれソースが明記されています) さらに、日本赤軍のリーダー重信房子氏の娘である重信メイ氏はレバノンのベイルートで生まれ育ったそうですが、著作の「中東のゲットーから」には、パレスチナ人の追放に関して次のような記述があります。 「―――いま故郷がどうなっているか、情報は伝わってくるのですか。たとえばユダヤ人が住みついてしまったとか。 私がレバノンで接したパレスチナ人の多くは、イスラエルが建国された1948年に土地を追われた人たちです。家は破壊されて、とても住めるような状態ではなく、戻ることもできません。といっても全部にユダヤ人が住みついているわけではなく、二度と帰ってこれないように、家だけを破壊しているんです。イスラエル国内のパレスチナ人の村がいまどうなっているかを14年かけて調査したパレスチナ・リサーチ・センターによれば、そうした村の90%は放置されたままになっているといいます。ブルドーザーで破壊し、瓦礫だけが残っていたりする。だけど、イスラエルが難民の帰還を拒否している原因は、大勢帰ってこられると人口のバランスが崩れてしまうから。ユダヤ人、イスラム教徒、アラブ人たちとの間のバランスが完全に崩れてしまうから嫌がっている。豊かな家や町なかの家は盗まれ占拠されているけれども、地方の村などは破壊され、放置されたまま全部残っているんです」 つまり、第一次中東戦争の際のパレスチナ人追放に於いてさえも、 「イスラエル政府は世界各地に散らばっている同胞を移住させる土地を確保するために、パレスチナ人を追放した」 と言うよりも、 「イスラエル政府は、単純にパレスチナ人が邪魔だから追放した」 と言った方が、より正確でしょう。ナチスドイツのユダヤ人強制移住計画のような明確なプランがあったとは思いませんが、パレスチナ人追放はイスラエルという国家の暗黙の「国是」なのではないかと思います。イスラエルとは、建国の段階から人種隔離、人種排撃によって作られてきたアパルトヘイト国家であると見て差し支えない、と思います。 |
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