36000 | 返信 | 平和民族日本(11) | URL | 小林 哲夫 | 2005/07/14 10:41 | |
Hideさんに共感してもらえたので、意欲が湧いてきました。 そこで江戸時代全体の経済の動きを追ってみたいと思います。 江戸時代経済史 江戸時代を階級という観点から見て見ます。 士農工商の分類を支配階級・不労階級の武士とそれ以外の産業従事者(農工商)の二つに集約して考えます。 江戸時代250年の間に生産力は格段に上がって、その増加分は産業部分(農工商)の取り分となって、相対的に武士階級の所得割合は減少しました。 武士階級(支配階級)の取り分の絶対額が減少したわけではなく、全体の中での割合が相対的に減少したという時代の推移でした。 国民総生産(GDP)という見方をすれば、国民経済の中での武士階級の所得割合が低下したということです。 このような時代の推移のために、幕府、各藩の財政が苦しくなり、大名借りが莫大に膨れ上がりました。 この経済環境は唯物史観でいう「ブルジョア革命=フランス革命」直前の様子と似ているかもしれません。 ブルジョア革命というのは、生産力向上によっ力をつけたブルジョア階級がその経済的地位にふさわしい社会的地位を獲得するための革命と考えられています。 しかしながら最近のヨーロッパの歴史学では、フランス革命の詳細がわかってきて、どの階級が革命を要求したのか、革命の結果その要求は実現したのか、などについて議論は混沌として来て、一定の結論は見出せない状態のようです。 ブルジョア革命という言葉の意味そのものさえ確定できない様子です。 さて日本においては諸産業の生産性が向上したことは明らかであり、それが富裕商人を生んだことは間違いありません。 私は古い民家を見て歩く趣味で、全国の豪商の家を見て歩いたのですが、商人だけでなく、諸産業全体に豊かになった様子が伺えます。 北前船の船主の家、各種商品(藍、紅花、塩、醤油)などの問屋、酒醸造、養蚕農家、各地の庄屋の家、鉱山の町(大森銀山、吹屋、佐渡)などの江戸時代に建てられた建物を見ると当時の豊かさが想像できます。 今も残っていて観光地になっている宿場町を見ても、大名だけではなくて、庶民が様々な旅をした様子が伺えます。 神社仏閣の門前町を見ても多くの庶民が参詣した様子が目に浮かびます。 僻地といわれる村を歩いていると、どんな辺鄙な小さな村にも必ず村人自身がお金を出して建てたに違いない、お寺とお宮さんがあることを見て、村人の財政状態が案外豊かになっていたことを知ります。 お祭りやお寺参りという一種の娯楽の時間も相当あったと想像できます。 つまり江戸時代の生産力の向上は確実に庶民の生活を豊かにしたが、只一つ武士階級にはこの恩恵が少なかった、と見えて来ます。 全国の民家を見て歩いて気がつくことは、武家屋敷があまり残っていないことです。 これは武家屋敷は粗末な材料を使っていたために腐ってしまったことと、安普請だったために保存する意欲が湧かなかったためです。 日本の支配階級は実際は非常に質素な生活をしていたことが住んでいた家の様子から解ります。 家老の家や名主の家、豪商の家を見て、普通の農民の家と比べて見ると、そこには貧富の差があまり大きくないように見えます。 金持ちの家というのは、栗の木を多く使っているとか、床柱に珍しい木を使っているというようなところで費用をかけていることが多いのです。 つまり見る人が見ればわかるという種類の差です。 また外見を地味に目立たぬようにするのが原則で、金を掛けるのは人には見えない場所にした、というのも日本人の謙虚の現れです。 もちろん役人対策や法律逃れの目的だったということもありますが・・・。 さてこのような生産力の向上という下部構造の変化が、どのように明治維新に影響したのでしょうか? 私にはこういう階級間の経済的変動と明治維新とは殆ど関係ないと思えます。 豊かになった人が維新を担ったのではありません。 豪商で維新にお金を出した人もいますが、出さなかった人もいますし、反対に新撰組を応援した商人もいます。 日本が全体として豊かになっていたという経済構造が明治維新を必然化したともいえません。 明治維新は単に黒船の外圧に対する反応に過ぎず、経済構造とは何の関係も無いと思いませんか? 江戸末期の日本の産業は、もう一押し(つまり西洋技術の導入)で、充分近代化した高度産業社会、西洋に負けない経済力を築けるまでになっていた。 だから明治維新がなくとも、鎖国をやめるだけで、日本は文明開化が達成できたとと私は考えます。 |
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