36007 返信 Re:戦争犯罪の責任 URL タラリ 2005/07/14 20:46
おっちゃんへ

> 戦争の最中ですからそちらの方面の「強力なコントロール」などやっているヒマも余裕もなかったのでしょう。軍隊は戦争するのに忙しいですからね・・・ということです。

教育は戦争の前に行われるものです。兵士個々による特に目立った残虐行為は戦争のさなかに行われるのではなく、戦闘行為が一段落したとき、占領後において起こったものですから、取り締まりは可能で、抑制効果も期待されたはずです。

戦争犯罪とは戦争中に起こる犯罪のことですから、戦争が忙しいから抑制出来ない、というのは戦争犯罪の言い訳にはならないでしょう。

> >おっちゃんも軍には責任がある、ということを認めておられます。いったい、「軍の上層部の方針や命令でなかった」という推測がここでなぜ必要なのでしょう。
>
> 推測などしていませんよ。左翼のみなさんと違って私はそういう趣味はない。
> 「軍の上層部の方針や命令(強制)によるものでない場合には」という限定(前提)を立てているだけです。最初からきちんとそう書いております。
> ですから、命令ではない場合でも兵隊個人より軍のほうが責任が重いという反論しか私の主張に対する反論にならないのです。

「事件後にあせったのなら、軍の上層部の方針や命令などではなかったということでしょう」というのは推測ではないのですか。ちなみに事件は特に目立った残虐行為と一般の戦争犯罪の両方が起こっており、線引きは困難です。軍の上層部はそれら両方に対して責任を感じたのです。ただし、この責任とは被害住民・捕虜に対するものではなく、軍内部のものに過ぎませんが、それでも責任の所在は明らかです。

命令ではない犯罪であるとしても、帰郷中に私服でおかした犯罪とは区別されます。戦地にあって軍服を着用し、武器を保持しつつ、戦時国際法と軍の規律に反して、犯罪を犯せば軍の責任は重大です。まして、事実として、そういう行動を容認したり、煽ったりする言動が上官や上層部にあったのですから、軍の責任のほうが重いと言わなければなりません。


> >私が「駄目」と言ったのは「紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」だけでよく、これは過去の反省は関係ない、過去の反省を絡めると「反戦思想」として純粋でなくなる、と言うからです。
>
> あれ?
> どう読んでも「過去の反省」をしなければ駄目だという主張のように見えましたが・・・
> 純粋ではなくなるとか言っているのではなくそういうことは関係ないということです。
過去の反省に基づくものでなければ真剣に反戦思想を実践できないでしょう。

> >日本人は過去の戦争の原因についてあまり学ばなかったので、自衛隊創設、軍備増強、海外派兵とずるずる引きずられています。これは憲法に「書いてある」状態に安心していたからです。
>
> そうでしょうか?
> 私は憲法の理念を踏まえていると思いますが・・・少なくとも中国や韓国が一言も文句が言えないくらいに、です。
> そういうことが違憲だと国際的に批判をうけたことは一度もなかったはず。

少し言葉を省略しすぎなのか、よく意味がつかめません。
軍備増強や海外派兵は中国や韓国から警戒されています。違憲かどうかはもともと外国がコメントすることではありません。それはご存じのことと思います。

> >A級戦犯にお参りし、海外派兵を推進した人が「平和、平和」と言ったとしても、言動が一致しないので信用されないのは不思議はありません。
>
> 首相が「A級戦犯にお参り」したなどという言い方こそ都合のいい推測にすぎません。
A級戦犯を神として祀った神社を参拝しているのですから、A級戦犯にお参りで構いません。

> 「海外派兵」という言い方も自衛隊がドンパチ戦争(戦闘行為)をするために出向いたように言いたがっているようにしか見えません。(そうではないことは、ほとんどの国民が知っています)

アメリカのイラク侵略をお手伝いしに行ったことは明らかです。

>マインドコントロール?
>そんな言葉が何かの犯罪の「責任」を問題にする場合に恣意的に使われるような世の中になってもいいのですか。
>殺人罪で裁かれているオウムの実行犯はほとんど無罪放免になってしまいます。麻原の影響力から「自覚的に自由」であったやつなどひとりもいないでしょう。

「命令によらなくても国家や軍の責任のほうが個人の責任より重い」というのがおっちゃんの主張であり、最大の争点です。

命令や強制によるものは国家や軍の責任であると言い切りますと、個人が国家や軍に反対する自由が本来あることを無視し、個人の道徳的責任を不問にしてしまいます。

命令や強制によらないものは個人の資質である、個人の責任であると言い切りますと、国家や軍が兵士に与え続けてきたイデオロギーの責任を無視してしまいます。

個人は個人の責任を道徳的レベルまで立ち返って反省する必要があり、その反省に立って改めて国家の責任までを追及する必要があります。
そうすることによってのみ戦争に対する有効な反対が可能となります。


> >そして、そのような操作手段を批判的にとらえることによって我々は自由になれるのです。その自由を得たときには反転して、命令や強制による「戦争犯罪行為、戦争荷担行為」に対しても拒否する【道徳的責任】が生ずるのです。この段階が私の求める「反戦平和」の思想です。

> 「批判的にとらえる」のは何によってですか?天から降ってくる?(私はそのことを書き続けてきたつもりだけど)

私はそのことを言い続けてきましたが、読んでいませんか?

> それはともかく、「反戦平和」についてはそんなに難しく考える必要はありません。
> 反戦平和の思想を支えるものは普通の人々の戦争を忌避する願いや思いで十分なのです。戦争の悲劇を自分の家族や親族がそういう境遇にあることと重ねて想いうかべることができる「想像力」こそが反戦思想を支え鍛えあげます。

決して難しいわけではありません。私も、願いや思い、想像力をとりわけ重視します。それは過去の戦争を直視し、侵略の反省をするときもっとも豊富でかつ痛切なものになります。